水泳が始まった夏の日。

 プールサイドでいづみがボヤく。


「あーあ。寒いのよねー!」

「……うん。でも今日は暑いよ。結構」

 陸の上を走るのが得意ないづみは水泳が好きではなかった。アンニュイだ。

「いいわよマツリは。水泳そんなに悪くないし」

「いづみも悪くはないじゃん」

「嫌いなのよ」

 ――よく分からない……。

 ふと見上げるとプールサイドから屋上が見えた。今日もメグはあそこで寝ているのか、とマツリはぼんやり考えた。なんだか胸がザワザワするのは、水に入る緊張からだろうか。


 プールの水はひどく冷たかった。



「なんだよ」

 授業が終わるチャイムで目を覚まし、ふと見上げたらマツリが黙って見下ろしていてメグは焦った。マツリが屋上の扉をそっと開けて、無言でメグのすぐそばまで来たおかげで、警戒心を張りつめるのが一瞬遅れたのだ。

 慌てて身を起こすと、マツリがメグの左側に腰を降ろしたのでメグはぎゅっと気を引き締めた。

「……んだよ。髪、びしょびしょじゃねぇか」

「うん。今日からプールだったから」

「髪くらい拭けよ」

 ――そして左側に寄るな。

「拭いたよ」

「まだぼたぼた落ちてんだよ」

「ええ……?」

 前髪をふっとつまんで見たその仕草が輝いていて見惚みとれた。

「……? なに」

「いや」

「もしかして、プール覗いてた?」

「はあ!? するかよ、んなこと!」

 メグがのけぞった。思いのほか動揺されてしまい、マツリは首を傾げる。

「どうし……――」

 マツリがメグに手を伸ばした。その瞬間。


「ッ触んな!!」


 バシ……ッ

 触れようとしたマツリの手が、跳ねけられる。

「……あっ」

 はっとしたメグが一瞬表情を凍らせたが、マツリは一切表情を変えず、はたかれてしまった手をそっとひっこめた。

「……ごめん」

 ――やめろ。謝るな。頼むから、左から近寄らないでくれ。

 メグはぎゅっと左手を握りしめた。そんな風に身構えたメグとは裏腹に、マツリはそのまま体勢を起した。

「マ……っ」

「……授業。行かなきゃ」

 空を見るように顔を上げ、「じゃあ」と呟くと、マツリは小走りでその場を去った。

「マツ……――」

 メグは呼び止めようとしたが、彼女の姿はすぐに見えなくなってしまった。


 なんだ。この後悔は。

 なんだ。この痛さは。


 ***


「マツリ……マツリ!」

「……へ?」

 いづみの声に反応して、はっと顔を上げた。

「当てられてるよ!」

「へ、え……? あ」

 数学の授業の真っ最中だった。何処へ行ってたんだろう、意識の方は。いづみは今までそんな寝ぼけたマツリを見た事がなかったため驚いた。マツリ自身もそのことには動揺していながらも、なんとか三角比の問題に解答してその場をやり過ごすと、今度はぼんやり窓の外を見た。そして、「あ」と小さな声を漏らす。メグが校門に向かって歩いているのが見えたのだ。きりっと心臓が痛み、打ち落とされた手をぎゅっと握りしめる。

 ――あ、リョウ……。

 彼女の姿も見えた。今度は声を漏らさなかった。

 リョウが後ろからメグを呼び止めて、メグが振り返る。そうして彼らは一緒に校門を出ていった。

 握りしめたマツリの手のひらには汗が噴き出していた。もう夏だ。何かを掻き消すように突然セミが泣き出した。今年はじめてのセミが、ジワジワと。

 ――なんだ。この痛みは。

 マツリはもう一度、そう思った。


「……なんか、変よ?」

 数学の授業が終わると、いづみがマツリの席に駆け寄り問い詰める。

「え」

「なんか変だよマツリ!」

「……なにが」

「だって、ぼーっとして、授業聞いてなかったり! マツリはいつもぼーっとしてるようだけど、絶対ちゃんと話は聞いてるのに!」

 買い被りのような気がする。

「……なんかあった?」

「ない……けど」

「なんにも?」

 頷いた。

「あ……そう言えば、さっき、メグとリョウが一緒に帰ってた」

「は?」

「校門あたりにいたのを、窓から見たよ」

「あんたねー……。そんなのなにかあった内にはいらな……」

 急にいづみの言葉が一時停止し、マツリは首を傾げた。待って、落ち着いて。といづみは頭を整理する。

「それ……当てられる前……? 後?」

「後だよ?」

「だよねーっ!?」

「ん?」

 何に納得したのか、マツリには話が見えず、再び首を傾げた。しかしいづみは話題を切り替えるようにマツリに問いかけた。

「今日、マツリ予定は?」

「ないよ」

「ほんとー。じゃあ一緒に帰ろうよ」

「部活は?」

「テスト期間中ー」

「あぁ」

 そう言えば、来週は期末試験だ。

「ったるいよねー」

「……そうでもないよ」

 成績のいい人の発言だ。ソレ。と呆れ、いづみは「言ってみたいわ」と笑った。マツリはそんないづみに微笑んだ。

「だって学校が早く終わる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る