Episode8 ~崩れる日常~

 ──なんなのかしら、あいつ。

 教室を後にする茶髪の少年を、ふんっと鼻を鳴らしながら見送る。

 ふつふつと煮えたぎる怒りを表情に出さぬよう努めながら、アンリは隣で肩を落とすノアに朗らかに笑う。

 

「じゃあ、あたしと一緒に食べましょうか」


 いざ弁当の蓋を開けると、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。

 だがアンリは、その匂いを堪能しようとしないで、まるで一連の動作の様にただ黙々と、食べ物を口に運んでは咀嚼そしゃくを繰り返していた。


 『食事』としては少々異常な速さに、ノアが不思議そうに一瞥してくるが、それにも目もくれず食事を続ける。

 そうすることで、さっきから頭から離れないが離れてくれるはずだ、

 しかし何時まで経っても、頭に残る煩悩は消える様子はない。


 ──何で……ただ、不愉快なだけのはずなのに……。

 だけど、あの時。あたしを励ましてくれたあの瞬間だけ見せた、あの嘘偽りない微笑みは、何処か心がハッとしたっていうか、あいつもあんな顔するんだなぁとか──。


 ピタリと、アンリは先程までの一連の動作を停止する。

 そしてそっと弁当を右に寄せると。

 ──ガンッ! 突如、衝撃音が教室中に響いた。

 残っている生徒こそ少なかったが、ノアを含めた少数の生徒達が何事かとアンリに視線が集まる。


「──えぇっ⁉ ちょっ、アンリ⁉ いきなりどうしたの、机に突っ伏したりしてっ⁉」


「い、いえ……何でもないわ……」


「全く何でもなく見えないよっ⁉」


 慌てふためくノアを落ち着いた物腰で宥めながら、じんじんと痛む額を擦る。

 少々強引な方法になってしまったが、これで邪魔な煩悩を消し去る事ができただろう。


 ──全く、今日のあたしは何だか変ね。こういう時は無理やりにでも切り替えないと。

 ……そうよ、あんな奴の事なんか考えてちゃ時間の無駄っ! ただでさえあたしには、の為に無駄に時間を浪費するわけにはいかないのよッ!


 そう心の中で叫び、深い深呼吸を挟めば、無駄な思考は一切消え去っていた。

 ふと、その空いた思考を埋めるように、先程から引っかかっていた事が泡のように浮き出る。

 ──あれ、昼休憩の時ってこんなに静かだったかしら……?

 その時だ。


「……ねぇ、アンリ。ちょっと良い?」


 辛うじて聞き取れる程度の、囁きよりも小さい声。

 天真爛漫てんしんらんまんとまでは行かないものの、柔和な物腰を崩さない普段のノアとは、似ても似つかなかった。


 故に、アンリはそれがノアから発せられたものだと気付くのに、一瞬遅れてしまったのだ。


「ど、どうしたの。ノア?」


 目を向ければ、ノアの顔は少し俯いていた。

 垂れた前髪に陰険いんけんして見えるその表情は、不思議と微かに曇っている様に見える。

 お互い沈黙する時間が少しだけ流れた後……ノアが、意を決した様に深呼吸を挟み、口を開いた。


「あ、あのね。ちょっと相談したい事があって……」


「相談したいこと?」


 その言葉に、思わずアンリの顔が明るくなる。

 ──ノア・エルメルは、誰よりも心優しい少女だ。

 その故に、普段から色々と溜め込んでいてもおかしくない。それを少しでも自分に吐き出してくれるなら、友達として嬉しかった。


 しかし告げられたのは、アンリが想定していた事とは似て非なるものであった。


「アンリはカイの事を毛嫌いしてるみたいだけど、私にとってカイは尊敬できて、一緒にいると安心できる……何より、私を救ってくれた……」


いきなりのカイ語りに、アンリは思わず頬を引きつらせた。

 何故、あいつを毛嫌いしているのを気付かれているのか。他生徒と同じ様に『愛想が良い優等生』を演じていたはずなのに。


 ──普段のドジさに反して、実はもの凄く鋭いのではなかろうか。

 そんなアンリの動揺を知る由もなく、慧眼けいがんたる少女は更に続けた。


「笑われるかも知れないけど、私には果たさなくちゃいけない約束があるんだ。

 ずっと前……カイと一緒に交わした大切な約束。

 もし、それが叶ったら──二人で笑い合って、もう一度一からやり直したい……ッ!」


 それまで辿々しく紡いでいた言葉が、少しだけ震え始める。

 蒼い前髪で見えずとも、その両眼には溢れんばかりの涙が溜まっているに違いない。


 もう良いよっ! アンリはきゅうっと締め付けられる胸奥から、溢れそうになる言葉を懸命に飲み込んで、最後までノアの吐露を見守った。

 

「でも、でもね……この前、カイに将来のこと話したら……ごめんって、言われちゃったっ」

 

 ぽたり──。

 遂に、一筋の雫が頬を伝ってこぼれ落ちた。

 それが予兆となったのか、次々と止めどなく涙が膝上に滴る。

 

「ぐすっ、自分でも分かってる……っ! 赤の他人の私がカイの将来に口を出す資格なんかなし、私は昔から弱くて怖がりで……カイに支えられてばかりだった!

 こんな私じゃあ、カイが頼りなく思うのもしょうがな──っ⁉」

 

 かぶりを振って吐き出していた涙声が止まる。

 ──もう、限界だった。

 最後まで見守るつもりだったが、胸を焦がす苦しさに耐えきれなかったのだ。

 気付いた時には既に、身体が勝手に動いてしまっていた。


 何故なら……ノアは悲しくて泣いている訳じゃない。己に対する悔し涙だと、容易に想像できたからだ。

 強く、強く。だが優しく抱擁しながら、囁きかける。

 

「そんなに自分を自虐しないで……ノアは優しくて、素敵な人よ。

 もう一度、二人でじっくり話し合ってみたら?」

 

 何故、これほどまでに己を過小評価するのか。二人の間に何があったのか、アンリには分からない。

 だが、少なくともこれだけは言える──。

 

「──ノアは決して頼りなくなんか無い。あたしが保証してあげる」

 

 柔らかい蒼髪を撫でつつ更に抱き寄せると、腕の中の涙声がより一層大きくなる。

 今まで相当、一人で悩み、苦しんでいたのだろう。


 まるで今まで積もり積もった感情が一気に溢れ出したかの様に、声にならぬ嗚咽が、豊満な胸に吸い込まれていく。

 ……そうして親友が落ち着くまで、アンリはいつまでも頭を撫でて慰めるのだった。


 

 …………。

 ……。

  腕の中のすすり泣きが止んだのは、丁度予鈴の鐘が聞こえてきた時だった。

 二人だけの世界に浸っていた意識が帰還する。もう大丈夫かと目下を一瞥してから、アンリはおもむろに抱擁を解いた。

 

「ごめん……いきなり泣いちゃって……」


 恥ずかしそうに制服の袖で目尻を拭うノア。

 しかし、泣きじゃくり枯れ果てた涙腺から拭えるものなどなく、真っ赤にした顔を必死に隠そうとする様子は、思わず口元が緩んでしまう。


 謝る必要なんてないのに──。などと、アンリは頭の片端で思ったりもしたが、

 

「気にしないで、むしろ相談してくれて嬉しかったわ」


 そう本心が思うがまま正直に応じて、再び食事に戻ろうとした瞬間だった。


「きゃあああああああああああああああああああ――ッ⁉」


「──っ⁉」


 突如、ノアの悲痛な叫びが、教室に冷たく反響したのは。

 飛び込んできた光景に、アンリも我が目を疑わずにはいられなかった。

 なぜなら、二人の眼前に広がっていたのは──。

 

 という、不気味としか言いようがない光景だった。

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