第4話 そんなに大事なの?

「晴美さん……」

「はい?」

小百合はしばらく沈黙していたが、おもむろに話し始めた。


「その隣にマンションが建つ話だけど、ちゃんと対応した方が良いかもしれないわ」

「対応ですか?」

「ええ……。私、聞いたことがあるのよ。マンション業者が法律がどうのと言うときは、大抵、何らかの意図があるんだって」

「……、……」

「まだ、詳しい話は聞いていないんでしょう? だったら、資料なんかもちゃんと取り寄せた方が良いわ」

「……、……」

たかが日照の話で……。

 私は思わずそう口にしそうになった。


 しかし、小百合の深刻そうな表情を見ると、そうは言えなかった。


 小百合は事業を拡大する中で様々な業者と会ってきているはずだ。

 その小百合が心配するのだから、万が一があるかもしれない。


 ただ、対応と言っても、私には何をどうすれば良いかは分からない。

 資料を取り寄せると言ったって、誰に頼めば良いのかも分からないし、そもそも、デベロッパー以外の誰と話せば良いのだろう。


 それに、いくら我が家が日陰になると言ったって、一日中日陰になるわけではないはずだ。

 たしか、憲法には人として最低限度の生活が保障されている。

 法律は憲法より格付けが下なのだから、憲法で定められていることが反故にされるわけもない。


 田所は間違いなく言ったのだ。

「法律に則って……」

と……。

 だとしたら、それほど酷いことにはならないのではないだろうか?


「このマンションの隣には、以前、7階建ての建物があったわ」

「……、……」

「旧郵政省の寮で、郵政民営化の関係で取り壊されたの。その後は買い手も付かず更地のままずっと今の状態なのよ」

「……、……」

「寮が建っていたときも日陰はあったけど、正直、気にならない程度だったわ。洗濯物なんかの乾きも良かったし」

「……、……」

「だから、郵政省の寮くらいの日陰だったら問題はないの。そうだったら私の取り越し苦労ね」

「……、……」

小百合はそう言うと、少し首を傾げた。

 取り越し苦労とは言いつつも、本人的には何か違和感があるのだろうか。


 小百合は私と直人が結婚するまで、この部屋で暮らしていた。

「お邪魔虫になりたくないから……」

と言って、新婚の私達のために自身が他に移り住んだのだ。

 だから、このマンションのことについては、私よりもはるかに詳しい。

 ご近所付き合いも欠かさなかったらしいし……





「そうだわ、良いことを思いついた」

「良いことですか?」

「ええ……。うふふ、どうして最初から気がつかなかったのかしら」

「……、……」

「お隣の木原さんに話を聞いてみたら? あの人、県議さんなんだから……」

「木原さん……?」

「そうよ。お隣なんだから、きっとこの部屋と同じように日照の件に関わっているわ。こういう権利がどうとかって話はお得意でしょうしね」

「……、……」

うっ……、そうきたか。

 小百合が良いことと言い出した瞬間に嫌な予感がしたのだが、よりによって政治家に頼るなんて……。


「あの……、木原さんに話を伺う前に、まず、理事会に聞いてみた方が良いと思うのですが?」

私は、どうにか小百合の矛先をかわそうと、とりあえず思いつきを言ってみた。

 いや、思いつきにしてはなかなか上等ではないだろうか。

 住んでいるマンションで困ったら、まずは管理組合に相談するべきだろうから。


「ダメよ、ここの理事会は」

「そ、そんな……」

「このマンションの理事会はね、持ち回りで理事会が決まっているの。だから、中身は素人同然で頼りになんてならないわ」

「……、……」

「それに較べて、木原さんは専門家よ。あなた、県議って分かる? 県議会の議員さんよ。普通なら、先生、先生と呼ばれて、私達なんて話しも出来ない存在なんだから」

「……、……」

「お忙しいでしょうから取り合ってもらえないかもしれないけど、とりあえず今行ってみなさい。裕太は私が看ていてあげるから」

「……、……」

小百合はどうしても木原に相談させたいらしい。


 正直、私は嫌でたまらないのだ。

 政治家なんてろくでもないとしか思えないから……。





 昔、まだ新成人に成り立ての頃、実家の近所に住んでいた市会議員が、票を入れてくれとしつこく迫ってきて、とても迷惑をした覚えがある。

 その市会議員は女性だったが、高飛車で横柄……。

 しかも、男性には媚びを売るタイプの最悪の女だった。


 以来、私は政治家と聞くと虫酸が走る。

 票を入れてもらったら見向きもしなくなることも学習済みだ。


 だから、お隣とは言えども、木原に相談するのは嫌なのだ。

 近所に住んでいただけでも虫酸が走ったのに、お隣では何かあったときに逃げようがないし……。


 私にはとりあえずこの部屋しか住むところはない。

 裕太にはまだまだ手も掛かるし、仕事だって始めたばかりだ。

 政治家なんかと関わって面倒事に巻き込まれでもしたら、平穏な毎日が崩れてしまう。





「晴美さんっ! ぐずぐずしてないで、早く行ってらっしゃい! 私、グズは嫌いよ」

「……、……」

私の思惑を見透かしたかのように、小百合が怒鳴った。


 だ、ダメだ……。

 小百合は一度こうなったら絶対に自分の意志を曲げない。


 私は、仕方なしに立ち上がった。

 気は重いが、今の私は小百合の逆鱗に触れて路頭に迷うわけにはいかないから……。





 裕太ママ晴美の一言メモ

「日照なんて少々なくても構わない。それより、政治家と関わり合いになる方が嫌だ」

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