5.だから、お前は何なんだ?
早朝。自動ドアの開く音を聞き流しながら一人の女性が外へ出ると、軒先にいた雀の群れが一斉に飛び立った。
一直線に道路を横切って、電柱の向こう側へと逃げ去ってしまう。妙に数が多いが、誰かが餌でもやっているのだろうか。
くあり、と欠伸する大口を手で覆って、金城の母――ほのかは再度自宅である書店の中へと戻って行った。
今朝も相変わらず天気が良い。春の暖かさは未だに残っており、熱くもなければ寒くもない。ちょうど良い感じだ。
ふんふん、と鼻歌を歌いながら店内から、家へと上がる。カウンターの後ろのドアを開ければ、其処は自宅の玄関と繋がっていた。
ぱさり、履いていたサンダルを脱ぎ捨てて台所へと向かおうとした。今はまだ朝の5時と言うこともあり、空は仄暗い。よって窓から差す光も少なく、明かりの点いていない家の中は薄暗かった。
居間の扉を開けて、其処から台所へ向かおうとする。バタン、背後の扉が閉まる音を聞き流しながら、足を進めようとした。が——、
「ひっ……!」
ソファに座る人影が見えた。
思わぬ事態に心臓が飛び跳ね、我にも無く、ほのかは悲鳴を上げそうになった。幽霊か、なんてらしくもない非現実的な妄想をしながら、恐る恐る、その影へと目を凝らしてみる。
するとそこには、
「り、理人……?」
沈んだような面もちで、鎮座する息子が居た。
「な、なにやってるのよ、あなた……え、どうしたの? 頭でも打った? 毒キノコでも食べちゃったの?
まだ早朝の5時よ? こんなに早く起きて、あなたらしくもない……病院、行く?」
なんて、仮にも息子である金城に失礼な問いかけをする母。だが、勘違いしてはいけない。彼女はこれでも真剣なのである。
「……」
「理人……?」
いつまでも返事を寄越さない息子に、痺れを切らしたのか。ほのかは気遣わしげな表情で金城へと歩み寄った。
奴の足元にしゃがんで顔を覗きこんでみると、僅かに瞠目する。
「やだ、ちょっと……すごい隈。あなた、寝ていないの?」
金城の目元は紫通り越して黒ずみ、随分とやつれたような顔をしていた。具合が悪いのかと心配したほのかは、そっと奴の熱を測ろうと、額へと手を伸ばす。
「熱は、ないみたいね……」
いつもより冷たく感じるが、特に問題は見えなかった。
だが、金城は変わらず口を必要以上に開こうとせず、ほのかは頭を悩ませるのであった。
◆
「じゃあ、気を付けてね? 具合が悪くなったらすぐに保健室へ行くのよ?」
「ああ、いってきます」
いつもと変わらぬ様子で、いつもと変わらぬ時間、いつものように家を出る金城。その顔はほんの少しだけ、普段よりも疲れているように見えた。
「……何か、学校であったのかしら」
金城は何一つ、話すことはしなかったが、勘の良いほのかはなんとなく事情を察していた。恐らく、学校で何か問題が起きたのだろう……それもブラッドがらみで。
行政高校へ赴くなら、そういう差別問題とぶつかることは避けられない。
「……ともだち、ね」
一言だけ、息子がぽつりと溢した呟きを聞き逃さなかったほのか。おそらく、金城自身は無意識に呟いたのだろう。
――高田、
ほのかの記憶違いでなければ、それは金城が最近よく口にしていた友人の名前だった。
「……頑張りなさいよ、理人」
ほのかに出来ることはない。これは金城自身の問題であり、奴が自分の力で乗り越えなければならない試練だ。
遅かれ早かれ、いずれこの問題にはぶち当たっていただろうし、先の未来でも、ブラッドに関わるトラブルは避けられない。
外に吹く生暖かい風と反して、金城たちの心は冷え切っていた――。
◆ ◆
高田たちの模擬戦騒ぎから数日、噂は瞬く間に学年中へと広まっていた。
ただ、一応教師陣が牽制をかけたのか、それが必要以上に広まることはなかった。もちろん、外部までこの話が漏れることはない。
「……高田くん、大変なことになっちゃったね」
「……そう、だな」
いつものように賑やかな食堂の中、金城は伊奈瀬たちと食事を共にしていた。ここ最近、毎日繰り返される行事は、金城たちの日課となりかけていた。
「……金城くん、その、大丈夫?」
「ああ、」
返事に力がない。伊奈瀬は気遣わしげに眉尻を垂らした。
普段のように覇気がない金城。話題を振れば、ちゃんと言葉を返してはくれるが、その受け答えはどこか無理しているように思えた。
「高田くんと、まだ話せてない?」
「……」
俯く金城。沈黙が意味するのは肯定だ。
下へと滑るその視線を見て、伊奈瀬と隣に座っていた吾妻はお互いに顔を見合わせた。
模擬戦が行われたあの日以来、金城は高田と言葉を交わすことが出来なくなっていた。たった一度の機会を除いて――、
あの模擬戦が行われた後。人影の少ない廊下で、金城はなんとか高田を捕まえることに成功していた。
今でも、瞼を閉じれば、あの時の光景が鮮明に蘇る。
授業が全て終わり、金城は急いで教室を飛び出すと、昼休みいらい見かけなくなってしまった背中を探した。
荒い呼吸で校内を駆けまわりながら、少し背の高いメイプルブラウンの頭を探し、やっとの思いで見つける。
日が沈み、空が橙色に染まる中、窓から差し込む日差しが廊下を淡く照らしていた。
『――高田!』
感情の見えないひょろりとした背中に声をかける。
こちらへと振り向くその顔は生気を失くしたような色をしていた。
『――高田、俺……』
碌に考えもせず、ただ奴を見つけようと言う思いで先を突っ走ったせいか、かける言葉が思い浮かばなかった。はくはくと開閉する口から漏れるのは吐息だけで、金城は途方に暮れる。
その時、高田はなんとも言えない、複雑な表情をこちらへ向けてきた。
『――もう……俺に関わらない方が良い。お前も巻き込まれるぞ』
それだけ吐き捨てると、高田は廊下の奥へと消えていった。
その背中が見えなくなるまで、夕暮れのなか――金城は、ただ茫然とすることしか出来なかった。
その日以来、金城は何度か高田に話しかけようとしたが、高田自身に避けられている感を否めず、何の行動も起こせずに、
(……草地の時と、変わってねーな。俺)
あの時も、金城は似たような立ち止まり方をし、怖気づいた。
(いや、でもあの時じゃあ、状況も違う……それに高田が言ったことは、間違っていない)
金城は、思う。今ここで、下手に高田を庇うような真似をすれば自分は間違いなくブラッド認定をされ、もしかしたら
“反逆者”などというキーワードを仄めかす要素は、全て排除しなければならない。金城が、この先の未来を生き抜くために。
(そうだ、このままでいた方が良いのかもしれない……高田には悪いけど、俺は――)
胸の中で渦巻く、不穏な感情。それを振り払うように、金城は食事へと手を付けた。胸に何かつっかえている感覚があったため、眠れなかったぶん食は進まなかったが、食わなければ今日の授業も生き残れない。
金城は無理やり、白米を口へと詰め込んだ。
「……金城くん」
そんな奴を悩ましげに見つめる伊奈瀬。彼女もまた、金城の様子に気を病ませていた。
(……なんて、声をかければ良いのかな)
高田という少年と面識が無い分、恐らく伊奈瀬が何を言っても説得力はないだろう。溜息を喉の奥へと押し込みながら、彼女は手元のコーヒーカップへ指を伸ばす。
(私に、出来ることってなんだろう……)
◆
午後。行政高校、グラウンド。
「ストレッチはちゃんとするように! 後で足をつっても先生は知りませんからね!」
晴れ晴れとした空の下、教師の声が轟くなか、1年E組の生徒たちは体育着姿で、準備運動をしていた。
二人一組で助け合い、背中のストレッチを行う。
金城は高田とは別の、あまり面識のないクラスメイトと組んでいた。
「金城、おまえ意外と体やわらかいな……」
「あー、中学んとき、さるお方に無理やり伸ばされた」
「え、なんそれ?」
意味不明に聞こえるその言葉を、相手の男が笑う。どうやら金城のその口調と言葉はツボに嵌ったらしい。ゲラゲラと笑い声を上げながら、地べたに座って前かがみになるパートナーの背中を押してやる。背中に添えられた手に従うように、金城はいとも簡単に、その上半身をべったりと地に貼り付かせた。まるでゴムのようだ。
感慨なくペアの男と交代して、今度は相手の背中を押してやると、無邪気な悪意が奴の耳元まで流れ着く。
「――うわー、なほちん。高田くんとペア?」
「――可哀想……」
ピクリ。金城はペアの相手が気付かない程度に小さく反応すると、不意にその声の発信源へと目を向けた。
すると、其処にはヒソヒソと教師の目を盗んで話す女生徒と、その向こう側で高田とストレッチをする女子が見えた。
高田の相手はどこか恐々としており、高田になるべく触れないようにしている節が見えた。まるで、菌か何かを前にしているような扱い方だ。
「……あー、田辺か。運わりーな、あいつも」
「……」
前屈を続ける男に気付かれることなく、金城は顔を歪めた。苦虫を噛み潰したような表情だ。
だが、直ぐにその苦々しい思いを切り捨てるように軽く頭を振るうと、苦笑で表情を取り繕う。
「……かも、な」
金城は完全に高田と決別する気でいるように見えた。
高田に対する悪態も全て、肯定するわけではないが、決して否定をしたりはしない。
直接的な攻撃を受けているわけではないし、別に良いだろう。金城はそう思い込むことにして、高田に話しかけようとする行為も、全てやめた。放っておけば、ほとぼりもその内冷めるし、事態が悪化してもその内、他のブラッドが奴に手を貸してくれるだろう。
実際、高田に危害を加えるものはいない。奴の精神を痛めつける、数々の暴言を除いて――。
◆ ◆
「理人……」
「ん?」
自宅。何事もなく全ての授業が終わり、再び家へと帰宅した金城。
いつもと変わりない様子で食卓を囲む奴に、金城の母――ほのかは話しかけた。その声色は心なしか、気弱に聞こえる。
「その、高田くんとは最近どう? 良かったら、今度うちに誘っても……」
「あー、うん……考えとく」
かちゃり。箸を茶碗の上に置いて、手を合わせる。「ごちそうさま」とだけ言葉を残して、食器を洗い場へと金城は運んだ。その動作は淡々としていて、やはり奴らしくない。
そんな金城にほのかは「そう、」と力なく笑いかけるだけで、更に言葉を重ねることはしなかった。もどかしい思いを胸に収めながら、彼女も目の前の食器を片付けると、静かに洗面器の蛇口を捻る。
じゃー、と水の流れる音を聞き流しながら、金城はトントンとゆっくりと階段を上っていった。
二階の奥にある自室へ向かって、扉をあける。室内は外の電灯から差し込む光のおかげで、電気をつけなくとも難なく家具にぶつかることなく歩けたが、それでもやはり薄暗い。だが、金城は構わずそのまま正面の窓へと進んで、床に座り込んだ。
家に帰ってきてから鞄も何も放置したままなので、勉強道具が彼方此方に、乱雑に散らばっている。かたり、手元に何かが当たって、ふと其方へと視線を移した。
「……これ、」
土宮香苗からもらった例の無線通信機だ。
そういえば明日の授業のために持参するよう連絡が来ていたな、と金城は黒い端末が受信したメールを思い出す。
面倒くさいが、今から準備を整えておいた方が良いだろう。そこまで思考が行き着いた金城は、ケースから剥き出しになっているイヤホンを拾い上げた。
かちゃり、触れた指先から伝わる感触は冷たく、無機質なものだった。考えてみれば、一度もちゃんとそれを使っていないことに気が付いて、興味半分でそれを少し弄ってみる。
通信機の操作を行うためには、まずプログラムをインプットされた端末を開く必要がある。セットとして付いてきた金城の携帯端末とはまた別の、デザインが異なる黒い腕輪へと手を伸ばした。
「えっと、とりあえず画面を開いて、」
かち、とイヤホンを右耳にかけて、通信ウィンドウを開く。
画面には「アドレス、メッセージ、履歴」と普通の携帯端末とあまり変わらないものが表示されていた。
「なんか、あんましケータイと変わんねーんだな……」
何故、携帯端末という通信手段が既にあるというのに、新たに《無線通信機》が必要とされるのか――理由はその性能にある。電子戦機能、連接性、耐環境性、整備、と、挙げれば切りがないほどだ。
その中で、携帯端末との最も大きな違いは、基地局からの電波がなくとも、無線通信機自体が発する電波を使うことによって、他の機体と通信できることである。
これはつまり、同じ通信機は勿論、《携帯電話》との通信を独自で可能にしていることを意味していた。
通常、2台の携帯電話間で通話をする場合、膨大なインフラストラクチャーを経由する必要がある。だが無線通信機は、非常に多くの施設・装置に頼らざるをえない携帯電話と違って、それを必要としないのだ。
個体が発信する特殊な電波で、容易く通信を可能にし。製作するメーカーやタイプによっては――かなりの値段はつくが――都市の端から端へと離れていても、繋がる。
そのタイプを、金城は持っていた。
「……て、あれ?」
とりあえず、使い方を覚えてみようと、説明書を横目にしながら画面を弄っていたわけだが、一件のメッセージを見つけて、金城は驚いた。
DRAFT VOICE MESSAGE
Title:
それは去年の夏から保存されていたドラフトのボイスメッセージだった。件名が無名なことからして、恐らく前の持ち主が消し忘れたのだろう。
「……ちょっとだけ、なら、良いよな?」
逡巡しながらも、好奇心に勝てなかったのか、金城はそのメッセージを開いてみた。しばらく続いた静寂の後、透き通るようなアルトボイスが室内に響き渡る。
『――金城くん』
「………え!?」
まさか、第一声で自分の名を呼ばれるとは思わず、金城は驚きの声を上げた。
『……卒業おめでとうございます』
「え、は、え? ……おれ?」
普段聞くことのなかった、柔らかな声色。金城は戸惑いながらも、つい、言葉を返してしまった。
『……急用が出来て、恐らく、貴方や伊奈瀬さんには会えないと思うので、このメッセージを残させていただきました。
これを持っている、ということは高野先生は、ちゃんと貴方に渡してくれたんですね』
「……」
内容からして、おかしいそれに金城は首を傾げた。
金城は高野からではなく、土宮香苗本人から直接これを受け取っていた。
恐らく土宮香苗は最初、金城の担任である高野にこの無線機を金城に渡すよう頼むつもりだったのだろうが、卒業式の当日に気が変わって、やめたのだと思われる。けど、会わないつもりだった金城たちと鉢合わせ、結局最後に渡すことにした……といったところか。
『通信機の扱いには慣れましたか? このメッセージを聞いている今、貴方は何をしているんでしょうね……』
続く優しげなアルト。それはどこまでも澄んでいて、不思議と落ち着きを取り戻させる何かを持っていた。
金城は意外な彼女の一面に耳を傾けながら、静かに目を閉じた。
(……あいつも、意外と優しいところがあるんだな)
なんて、感慨深く思った途端、胸を抉るような鋭利な言葉が、耳にかけたイヤホンから刃のように突き出た。
『覚えていますか? あの日、私がやたらと暗い面もちをした貴方と歩いた帰り道……あの時、正直私は——“うざったいな”、と思いました』
「……」
瞬間、金城の表情が凍った。気のせいか半目となった奴に、更に重たい影が圧し掛かった。
『自業自得だと言うのに、うじうじと、まるで
見ていてとてもイライラして、視界に映すのも嫌だなと思ったものです』
「……おい、」
『でもやっぱり気になって、君を見てみるんですけれども、苛立ちは更に募りましたね』
「ちょっと待て」
『いつも悲観したような表情で、悲劇のヒーローぶっているのか、己のその不幸な現状に酔っているのか、
もう、本当に……うざい、としか言いようがなかった』
「待て待て待て」
『何度、その顔を地面に減り込ませたいと思ったことか……』
「おいィィィ! ちょっと危険な
え、何!? 生徒減り込ますって何!? ゴリラかお前は!?」
続く非常な言葉の数々。例え、相手が唯の録音されたメッセージだとしても、金城は突っ込まずにはいられなかった。
『物欲しそうに、参考書を見てたあの時の貴方は、
まるでお母さんが手頭から世話をしてくれるのを待つ赤ちゃん、或いは、餌を口を開けて待つ鯉のようで、
もう本当に……あの時はどうしてやろうかと悩みました』
「だからどうしてやろう、って何ィ!?」
『けど、貴方は最後に立ち向かってきましたね』
本当にこの教師(実習生)はなんなんだ、と頭を抱えそうになった金城。そんな奴の耳に、残された土宮香苗の“声”は構わず言葉を続けた。
『どこまでも厳しい現実に、貴方は立ち向かってきた。幾ら私が貴方を貶しても、無理難題を押し付けても、貴方は懸命に食らいついてきた』
「……」
『貴方は確かに口は悪いし、頭は馬鹿だし、運動神経も平均としか言いようのない、一見取り柄のない子供でした』
「結局そこに行き着くのかよ」
落ち着いた金城。だが、ツッコミの応酬は止まらない。
『でも、誰よりも真っ直ぐだった』
「……」
『夢想としか思えない目標を堂々と掲げ、どんな悪態を吐かれようが、躓くことはもう決してせず、脇目も振らず、走り続けた』
「……」
『そして、その結果、貴方はゴールへと辿りついた』
「……」
『まあ……それもその鳥頭のおかげで、台無しにしそうになりましたけどね』
「……一言余計だよ」
まるで本当に会話をしているかのような錯覚に陥りそうになる。
金城は悔しいことに、彼女と過ごしたあの地獄の日々を、ほんの少しだけ恋しく思い始めていた。
『思えば、本当に君は無茶苦茶な子だった。草地くんのことに関しても、私にあんな風に噛みついてきて……』
ピクリ。金城の指が僅かに反応を示す。
『本当にあの時は、一体こいつは何なんだ、と思ったけど……実は少しだけ感心していました。
……誰かのために、先を恐れず、声を上げ、挑んでくる君に、私は何度も驚かされた』
予相もしていなかった事実に、金城は目を見開いた。まさか、土宮香苗がそんな風に感じていたとは、思いもしなかったのだ。
だが、同時にズキリ、と胸が痛んだ。何故なら、土宮香苗が言うほど、己は“真っ直ぐ”ではないからだ。
『君は私が思っていたよりも強かった……強く、聡明だった。
そんな君に一つだけ、伝えたいことがあります』
「……」
『悩むのは良いことです。考えるのは必要なことです。けど、もうあの時のように“何かを待つ”のはやめなさい』
「……」
『待つだけでは何も変わらない。動きなさい。例え、貶されようが、蔑まれようが、罵倒されようが、関係ない。
現状が嫌だというのなら、自分から“変える努力”をしなさい。
この先、その高校に居る限り、貴方はまた中学の時のような状況に陥るでしょう。だけど、其処で諦めてはいけない。
その夢を、想いを、決して捨ててはいけない。何故ならそれを捨てたら最後、貴方に残るのは“後悔”だけなのだから――』
「っ……」
そのフレーズは、とても聞き覚えのある物だった。
――消えねーんだよ。思い出も、想いも、この感情も、全部。もし、それが本当に全部消えてしまうのなら、残るのは“後悔”だけだ。
『覚えているかしら? 貴方が以前、私に言った言葉よ』
金城の脳裏を過るのは、反逆者事件を起こしたあの日。処刑場へと向かう前、バスの中で鉢合わせてしまった土宮香苗にぶつけた言葉だった。
「……」
『悔いるぐらいなら、恥を掻き捨てでも行動しなさい。
立ち止まってもいい、振り返ってもいい、けど、歩むことを諦めないで……貴方は、』
紡がれる激励の言葉、金城は唖然としながらそのメッセージに耳を傾けた。が、
『………………………』
「……なえセン?」
沈黙が続いた。もしかして、ここでメッセージは途切れてしまっているのだろうか。中途半場に途絶えた言葉に金城は違和感を覚えた。返事が返ってこないことは分かっているのに、口が勝手に彼女へと問いかける。
「おい」『やめた』「……はい?」
唐突に落とされた中断の声。金城はワケも分からず、呆気に取られた。
『やっぱり、やめた……今のなし。これは消そう。どうせ渡せないんだし……』
――プツリ。
再び何かが聞こえたと思った瞬間に、メッセージが切れた。
「……」
イヤホンを付けたまま、手の中の端末を静かに見つめる金城。その口は引き攣っていた。
(まさか、とは思うが……あいつ)
――消し忘れたんだな。
それなら、ボイスメッセージの件名が空白のままだったことにも合点がいく。
金城は土宮香苗の色々な面を、今日、初めて見た気がした。
「強い、ね……」
土宮香苗の言葉が耳奥で蘇る。
何を勘違いしているのかは知らないが、自分は彼女が言うほど強くはない。
(馬鹿じゃねーの……)
ふっ、と己に対する嘲りの笑いが零れる。
(強いわけねーだろ……あんたが言うように俺は真っ直ぐなんかじゃねーし……
なに、聖人君子みたいに俺のこと言ってんだよ……)
聖人君子とまでは、土宮香苗は言っていないし、そこまで理想的な人物として彼女は金城を褒め称えていない。
けど、確かに彼女は金城のことを、まるで尊敬に値する人物かのように語っていた。
そのことに金城は煩わしさを覚えた。
「俺は……無視するよ。高田のことだって、俺は自分のために、無視する」
確かに、草地のことを貶された時、土宮香苗の言う通り、金城は彼女に何度か刃向ったことがある。だが、それだけだ。それ以来、奴はブラッドに対する報復を恐れて、何もしなかった。高田を前にしても、何も出来なかったのだ。
「だから、そんな風に今頃、言うなよ……馬鹿野郎」
仄暗い寝室の中、金城は静かに拳を震わせた。
◆ ◆
翌日、昼。
いつも通りに一人で登校し、三時間目の授業が終わった金城は、ヨロヨロと覚束ない足取りで、廊下を歩いていた。
その顔はかなり疲弊しているように見える。
「……なんで、皆こっちに来るんだよ」
脳裏を過るのは先程の実技の授業。無線通信機に関しての指導を受けていた金城のクラスは、二人一組でペアを組むよう指示されていた。
その際、一人だけ学校の支給品ではない通信機を持つ金城に興味を惹かれたのか、沢山の生徒が押し寄せてきたのだ。誰もかれもが奴の通信機に興味津々で、四方八方から質問を投げかけられ、金城はまるで時季外れの転校生のような気分を味わった。
「……昼食、断って良かった」
授業が終了する際、何人かに食事に誘われたが、金城は既に約束があると断っていた。断言できる、あのまま彼らと共に昼も過ごしていたら、間違いなく自分は過労死していただろう。
(……とにかく、食堂に行こう)
壁に手を突きながら目的地へと足を進める。
すると、見覚えのある顔を見つけた。
(あれは……)
高田と模擬戦を行なった、あの三年の明石だ。その隣には同じ三年らしき男も居た。
(……高田)
先程、授業で見かけた高田の様子が脳裏を過る。
イヤホンに興味を惹かれた同級生に囲まれた際、金城は一瞬だけ、高田と目が遭ったような気がした。だけど、お互いに目を逸らしたことで、その視線はすぐに途切れた。
目の前の明石は、金城のことを忘れてしまっているのか、そのまま素知らぬ顔で此方へと近づいてきた。すれ違いざまに、彼らの無邪気な雑談がハッキリと耳元まで届く。
「それで何度も俺に噛みついてきてさ……本当にうざかったんだぜ?」
「にしても本当によく勝てたよな……相手、犯罪者の弟だったんだろ?」
「バッカ、相手は一年だぞ? 負けるわけねーだろ。実際、クズみたいに弱かったし。
流石、ブラッドって感じだったよ。弱いくせに、よく吼える」
明るく隣の友人と談笑するその様を見て、金城は眉を顰めた。金城の存在に気付く気配もなく、己の英雄伝を言葉で繰り広げる明石。
思わず、彼らを睨み殺したい衝動に陥りそうになったが、金城はなんとか其れを耐えて、足を進めた。
(……俺には、関係ない)
不穏な感情を追い払うように頭を振って、力強く踏み出す。
すると、カシャンと何かが落ちる音がした。
「……あ、」
床に転がるそれは、恐らく勢いよく動き出した反動で、ズボンのポケットから零れ落ちたのだろう。金城は、それを拾おうと手を伸ばす。すると、
――現状が嫌だというのなら、“自分から変える努力”をしなさい。
「……っ」
黒いイヤホンに触れる瞬間、耳奥で彼女の声が蘇って、不意に手が止まった。
そんな金城に追い打ちをかけるかのように、また新たな声が思考を掠める。
――もう……俺に関わらない方が良い。お前も巻き込まれるぞ。
「っ……」
――何故ならそれを捨てたら最後、貴方に残るのは“後悔”だけなのだから。
――立ち止まってもいい、振り返ってもいい、けど、歩むことを諦めないで……貴方は、
「……っっ」
次から次へと、まるで走馬灯のように脳裏を掠める数々の言葉。
どうしようもない感情が胸の奥から湧き始めて、金城は歯を食いしばった。
明石たちはその様子に気づくわけもなく、そのまま廊下を曲がって外へと消えようとした。だが、突然響いた怒号によって足を止められる。
「明石先輩!!!」
突如、廊下に轟いた大きな声に、明石たちだけでなく、周囲に居た生徒たちも驚いたように立ち止まった。
驚愕したように振り返る明石。その視線の先には一人の少年が居た。
「……君は、確か」
スタスタと、こちらへと歩み寄ってくれる明石。金城はそれを見て、軽く頭を下げた。
「1年E組の金城理人です。この前は折角うちのクラスの指導をしてくださったのに、欠席するような形になってしまって、すみませんでした」
「ああ……!」
思いのほか、礼儀正しい金城の態度に好感を抱いたのか、親しみのある笑顔で明石は奴に話しかける。
「いやいや、具合が悪かったんだからしょうがないよ。もう、良いのかい?」
「はい、おかげさまで」
「そっか、良かった」
どうやら、先ほどの金城の発言で思い出したらしい。少し心配そうな表情で、気遣わしげな言葉をかけるが、金城のその返事を聞くとほっと顔を綻ばせた。
だが、直ぐにまた眉尻を下げながら、問いかける。
「高田くんのことも、大丈夫だった? 原因の一部でもある俺が言うのもあれなんだけど……」
「はい。俺ら、友達じゃないんで」
安易に「奴と縁はない」という意味を示す言葉を聞いて、明石は安堵したように息を吐いた。
「そっか、それは良かった。君は高田くんと仲が良そうに見えたから」「俺が一方的に片思いしてるんです」「え?」
途中で、思わぬ言葉を挟まれて、明石は戸惑ったように金城を見た。
徐々に上げられた少年の面差しには――勝気な笑み。薄い唇は弧を描き、その双眸には確かな光が灯っていた。
「だから、先輩。俺があいつと仲直りできるよう、俺とも模擬戦をしてくれませんか?」
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