8. 涙の結果
「そうか……駄目だったか」
「……」
「まあ、そんな気落ちすんな。行政高校へ行けなくとも、このままうちの高校に上がればいい」
3月17日、世田谷中学校職員室。午後3時00分。
金城は担任の高野に今回の受験結果のことを伝えていた。
室内は静かだ。幾人もの教師が聞き耳を立てており、その表情はどこか同情的に見えた。
「とりあえず……今日はもう授業は無いし、お前も疲れただろう……帰って休みなさい」
「いえ、おれは……」
「金城くん!」
大きな声と共に引き戸が勢いよく開いた。戸口に手をかける少女は珍しくも走ってきたらしい。荒い息をこぼす彼女の名を、金城が呼ぶ。
「伊奈瀬……」
黒い眼は潤んでおり、金城を縋るように見つめていた。口をパクパクと開け閉めする姿はどこか困惑しているようにも見える。
(そういや、今朝メール送ったんだっけ……心配、してくれたんだな……)
憂いげな彼女を見て、金城は感慨無く、心中で呟いた。
金城はなんとも言えない、筆舌に尽くしがたい感情を抱えていた。
——昨日、行政高校からの封書が届いたあの日、金城はしばらく呆然とした。
予感はしていたし、その結果の可能性も高いものとして危惧していた。覚悟はしていたのだ。それでも、あの結果を見たあの時、金城は衝撃を受け、落胆の気持ちを隠せずにはいられなかった。
(そういえば、母さんもあのとき似たような顔してたな……)
瞼を瞑れば蘇るあの瞬間。外で放心する自分に沈痛な面差しで声をかける母。
――理人、理人、りひと。
何度声をかけられても、金城は反応できずにいた。
わかってはいた、それが自分にとってあまりにも烏滸がましい願いであることを。
わかっていた、あそこが遥か遠く、己の手には到底届きそうにない、雲の上にあることは。
それでも、願わずにはいられなかった。期待せずにはいられなかった。
あれだけ努力したのだ。血反吐とまではいかないが、胃液を吐き出すほどの努力をしたのだ。泣きそうになる時もあった、もう駄目だと思った時もあった、一体何度その願いを投げ出そうと思ったことか……。
でも、それでも諦めたくなかったから、諦められなかったから、金城はここまで頑張れたのだ。
自分で言うのもなんだが、中々いい出来だった気がする。これはいけるのではないか、という愚かな期待さえもした。
だが、結果はどうだ。その手に握られていたのは散った花弁の桜紋。一枚の花弁を失くしたそれはとても儚く、寂しげだった。
涙は零れなかった。叫ぶことはしなかった。文句を垂れることもなかった。だけど、
――苛立ちは覚えた。
悔しかった、悲しかった、辛かった。
やるせない気持ちが溢れて、心の臓を縄か何かでしばりつけられたような気がした。しこりは胸の内に残り、喉の奥には何かが詰まっているのに、出そうにも出せない。
――金城はその日、自室から一歩も出ることが出来なかった。
「金城くん」
再度呼ばれた名前。回想から現実へと戻った金城は目の前の彼女へと、答えるようにノロノロと顔を向けた。
金城の様子は一見、普通に思えた。特に顔色が悪いわけでも、憔悴しきっているように見えるわけでもない。だが、間違いなく奴には覇気がなかった。
伊奈瀬は不覚にも涙を零してしまいそうになった。
己を叱咤して、それを必死に押しとどめる。形の良い唇を歪ませながら、強く引き結び、金城を一心に見つめた。
(私が、泣いちゃ駄目だ……)
本当に悲しいのは、本当に辛いのは金城だ。伊奈瀬は拳を強く握って、そのみすぼらしい顔を隠そうとした。
「大丈夫だよ」
不意に落とされた声。伊奈瀬は知らず顔を上げ、金城に疑問の視線を投げかけた。
返事の代わりに金城は笑顔を返す。
「俺、諦めないから」
「金城……」
小さな、力の無い声で自身の決意を再び表明する金城。それに反応したのは、隣に座る高野だった。
「伊奈瀬にもこの前言ったろ? 諦めねーって」
「……金城くん」
伊奈瀬は眼球に熱がともる。金城はそれに気付いているのか、気付いていないのか言葉を続けた。
「俺、留年するよ。受かるまで何度だって受験してやる」
強気な言葉ではあったが、それとは裏腹に表情は複雑なものだった。目尻は僅かに赤く染まり、眉毛は八の字に垂れ下がって、見事な皺を眉間に作っている。口角も上がってはいるが、それはどこかぎこちなく、とても、とても不器用な笑顔だった。
こういうのをきっと、泣き笑いと言うのだろう。
伊奈瀬はその悲痛な面付を見て、とうとう滴を一筋、零しそうになった。周囲の教務員も皆、物哀しげな顔を浮かべている。
「……随分と無駄な努力をするのね」
ぽつり。静かな声色はしん、と静寂に支配された室内に綺麗に、はっきりと響き渡った。
誰も彼もが突然落とされた爆弾に唖然とした。ふらり、金城はその声の発信源へと目を向ける。
「……なえセン」
戸口を塞ぐように立っていた伊奈瀬の背後——其処には相変わらず地味なビン底眼鏡をかけた女性が佇んでいた。その面立にはいつも通り、喜怒哀楽も飾られておらず、とても無機質に見えた。
「とても残念だわ、金城くん。あなたはもう少し賢い子だと思っていたのだけど……
どうやら私の教えは無駄だったみたいね」
「土宮先生!」
非難の声を上げたのは高野だった。混沌に満ちた空間の中で、いち早く我に返り、土宮香苗を糾弾する。伊奈瀬は目を白黒させながら彼女を見つめていた。だが、土宮香苗はそれを意に介す様子も見せず、ただ淡々と言葉を紡いだ。
「まさか、こんな馬鹿なことをするなんてね……あなたは一体どこまで頭が悪いのかしら」
「土宮先生! それは言いすぎですぞ!」
他の教員たちも彼女を咎めはじめた。しかしそこはやはり土宮香苗、彼女は口を閉じる事を知らない。
「あれだけ時間を費やしたのに、貴方は一体なにをしていたのかしら?」
「……」
だんまり。いつもなら罵声を浴びせるなり、怒号をかけるなりして、反論するのに、金城はただ黙って顔を俯かせた。土宮香苗は冷たい視線でそれを一瞥すると言葉を吐き捨てた。
「いつまで黙っているつもり? 負け犬」
「っ土宮先生!!」
それは今の金城に聞かせるにはあまりにも無情で残酷で、意地の悪い言葉だった。
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、高野が立ち上がる。
「君はいい加減」「端末の電源は切りっぱなしだわ、口は開かないわ……本当になんなの貴方? どこの木偶の坊よ?」
彼女を責めようにも、高野の言葉は土宮香苗の冷ややかな声で覆い被さられ、それ以上喋ることができなかった。何故かは分からない、だが、彼女にだけは逆らってはいけない気がした。ギロリ、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ鋭い眼光をあの厚いレンズ越しに向けられた気がして、情けなくも高野の身は竦んだ。
「何度も貴方に電話をかけたそうよ」
「……でんわ?」
突如挟まれた意味不明な単語に金城は僅かに眉を顰めた。カチャリ。昔のデザインを模した携帯端末を土宮香苗は左手に掲げた。そのスクリーンに表示されている名前は『金城』。
「……なんで、」
「以前、一度だけ貴方の家にお邪魔したときに無理やり番号を押し付けられたのよ」
その時の様子を思い出して土宮香苗は思わず溜息を吐いた。本当に金城の母親は強引だった。あんな大人しげな容姿のどこにそんな積極的で、押しの強い意思を隠していたのやら。
「貴方、サクラの散った紋を受け取ったのよね?」
「……、」
儚く散った一枚の花弁を思い出して金城は苦しげな顔を見せた。
「一枚だったかしら?」
「……そう、だよ」
認めたくない事実を無理やり飲み込まされるような感覚がして、金城は息が詰まりそうになった。
「伊奈瀬さん、合格発表は5時からよね?」
「へ!? え、あの、はい」
脈絡も無い言葉をいきなり向けられた伊奈瀬は驚きながらも頷き返した。
「じゃあ、あと一時間はあるわね……」
「……ちょっと、土宮先生。何を」
疑心に満ちた顔を土宮香苗に向ける高野。だが、やはりどこかで怖じ気づいているのか強く前には出れない。それを土宮香苗は小さく鼻で笑って、カツカツとヒールを鳴らしながら金城の元まで歩み寄った。
「端末を出しなさい」
「……へ?」
「出しなさい」
呆ける金城。土宮香苗の粛然たる剣幕に負けたのか、恐る恐る腕に付けていた端末を取り外して彼女へと差し出した。それを受け取って土宮香苗は電源を入れる。淡い蛍光色の光を放ちながらスクリーンが展開された。
「電池は切れていないのね」
「……切ってたのは、一応学校に居るからです」
正論だ。金城が端末の電源を消していたのは自身の都合のためではなく、単に校則に従っていたからだ。学校では授業の妨げとなるため、端末に触れることは極力禁止されている。だが、別に電源を落とさなくてはならないわけではない。そんなことをせずとも、他に方法はある。
「マナーモードにすれば良いでしょう」
「……」
最もな意見に金城は口を噤んだ。
どこか居心地が悪そうに、そっと視線を泳がす。相変わらず逆らう気配はなく、大人しい。反抗を起こす気配は皆無だ。土宮香苗は目を細めながら金城の端末を勝手に弄った。
「はい、パスコードいれて。さっさと電話の履歴を開きなさい」
「……」
返された端末を無言で弄る金城。土宮香苗の指示に従って指を動かすと、見知らぬ番号が見えた。
眉を顰めながら土宮香苗に視線を向ける金城。それに対して土宮香苗は静かに頷いた。
「さっさと其処にかけなさい」
「……」
静まり返った室内で、金城の端末が鳴り響く。音が少し煩く、金城は自分にしか聞こえぬようにスピーカーを消して、端末を耳元へと近づけた。すると、
『はい、こちら行政高校——アドミッションズオフィスです』
「え、……あ、あのこちら、金城です」
かけた先は金城を取り巻く問題の支柱で、思わず声が上擦った。動揺しながらも言葉を返す。もちろん「どういうことだ?」と疑問の目を土宮香苗へと投げるのを忘れずに。
『金城様……受験番号1002の金城理人さまですね?』
カタカタとパソコンのキーボードを叩く音がしたと思えば、唐突に自分の本名と受験番号を言い当てられた。どうやら受験者たちの個人データを確認していたらしい。
「あ、はい……そうです。え、えと、さっきお電話いただいたようで」
『はい。お伝えしたとおり、今朝がた空席が一つ出来ましたのでお電話いたしました。受理されますか?』
「……へ?」
(受理? 席? ……なんだ、それ?)
唐突に、なんの脈絡も説明もなく向けられた言葉に金城は困惑した。まて、いきなりワケの分からない質問をするよりも、まず状況の説明をしてくれ。
どうすれば良いのか分からなくなってしまった金城は、すがるような視線を土宮香苗へと向けた。
「いいからさっさと受けますって言いなさい」
「受けますって……」
「イエスかはい、で答えろと言っているのよ木偶の坊」
ひくり。横暴な言葉に金城は口をひきつらせながらも、再び端末へと視線を向けた。ごくり、唾を飲み込んでとりあえず返事してみた。
「は、はい。受けます」
『畏まりました。ではこれより、この席は金城様のものとなります。
締切が迫っておりますので、もう辞退をすることは出来ませんが、よろしいですか?』
「え、……は、はあ」
『では、このまま話を進めさせていただきますね。書類は遅くなりますが、また後日送付いたします』
「は、はい」
『お電話ありがとうございました。そしておめでとうございます』
「あ、ありがとうございます」
『では、これで失礼いたします。
May you be victorious。貴方が勇敢なる機関士であらんことを』
「……へ?」
ぷつり、と切れた電話。ワケも分からぬまま、己の知らないところで事態を進められたような気がして、金城は釈然としない顔で土宮香苗へと視線を向けた。
「……あの、今のって」
「金城くん」
ふわり。緩やかに土宮香苗は口角を上げたが、その実、瞳は笑っていない。それを瞬時に察して金城はドキリと身を強張らせた。初めて見る彼女の笑顔は冷然としていて、とても心臓に悪い。気のせいか周囲の教員たちも、それぞれ冷汗を垂らしたりと、彼女の空気に飲まれていた。
「貴方って、本当に馬鹿よね 」
「あ、あの……今のって」
「金城くん」
つ、と顎を微かに上へと逸らして土宮香苗は金城を見下した。
「行政機関付属高校は一体どういう合格発表の仕方をするのかしら?」
「え、……サクラ咲くの紋とサクラ散るの紋で」
「貴方が貰ったのは?」
「サクラ散る……だよね?」
「その花弁の数は?」
「い、一枚」
「そう、一枚。一枚、だけ」
“だけ”を強調するように、一際低い声で言葉を発する土宮香苗。その瞬間、伊奈瀬ははっ、と我に返ったように金城へと詰め寄った。
「か、金城くん! 一枚だけだったの!?」
「……え、あ、おう」
気のせいかその目には光が灯っており、希望を見つけたような表情をしていた。
「え、な、なに?」
「補欠よ」
「……え?」
落とされた単語。それは爆弾か、希望の光か。
土宮香苗はあの絶対零度の眼差しで言葉を繋げた。
「散ったサクラは不合格。5枚すべてが散ってしまえば受かる“兆しは無い”。
けれど散った花弁が一枚だけなら、希望はまだ“残されている”
一枚の花弁が散ったサクラが意味するのは、不合格だけれども不合格ではない――補欠よ」
「ほ………………ホケっ?」
鶏のような鳴き声を上げた金城。土宮香苗は憎々しげに眉を顰めながら口を開いた。
「行政高校にはそのカリキュラムに途中で怖じ気づいて入学を直前に辞退する腑抜けが居る。その欠員を補充するために《補欠》は一応あるのよ。
だけど、それは本当に偶にしか起きない。精々、一年に一人いるかいないかで、おまけに昨日から今日まで、と補欠を正規合格へ繰り上げるための受付時間は短い。あと少しでも受理が遅れていたら、貴方は0.01%で得られたチャンスを失っていたのよ」
「……ホケッ?」
金城の唇が鳥の嘴へと変化した。
「“ホケっ”じゃないわよ。この鳥頭」
「か、金城くん」
何が何だか、未だに状況を掴めない金城。一人、阿保のように突っ立っている奴を、伊奈瀬含む教員は呆れたような目で見つめていた。
「最初に教えられたはずよ。補欠のことも、どういうふうに事が行われていることも。その注意事項も」
「ほ、ホケっ……」
「貴方のお母さん、焦ってたわよ。彼女もこのシステムのことを知らなかったのね。後から気付いて、時間が無い、どうしようっ、て慌てていたわ。
今朝、貴方が家を出た後に行政高校から電話を貰ったみたいで、急いで貴方にかけたのよ。けど、何時間、何度、端末を鳴らしても“繋がりません”の一点張り。貴方は一向に出なかった。
相当パニクってたみたいで、学校にかけるのも忘れていたみたいね。丁度いましがた私に電話がかかってきたのよ」
「ホケ……」
続く珍妙な鳴き声。金城の目は気が付けば点になっていた。
「これも、貴方がその大事なことを忘れて、端末の電源を切っていてくれたおかげね」
「ほっ……、ホケ―」
「金城くん……」
伊奈瀬の目が憐れみの視線へと変わった。
「ねえ、金城くん……わかる? あなたがその電源を切らなければ、いいえ……そもそもちゃんと人の話を聞いていれば、こんなことにはならなかったのよ。分かる?」
「ほ、ホケっ!」
最早その言葉しか出せぬ金城。奴の頭は正に鳥頭。その小さな脳は空っぽなのであった。
「金城……」
金城へと周囲から向けられた視線は様々だ。呆れ、怒り、安堵、色んな感情が混ざり、室内では微かに混乱は生じているが、一つだけ皆の中でハッキリとしていることがあった。
――この瞬間、金城のレッテルは『馬鹿』から『鳥頭』へと進化した。
◆ ◆
午後5時00分。
「おい、まだか?」
「……まだだ」
職員室の中は、先ほどまでの静けさとは転じてどこか騒がしく、賑やかだった。壁際のスクリーンには電源が点いており、テレビの役割を果たしている。チャンネルは『N○K』、その画面には数字の羅列がずらりと縦に並んでいた。
「お、伊奈瀬のがあったぞ!」
「おお、本当だ」
それは合格者たちの受験番号だった。『562』と表示された数字は伊奈瀬のものであり、それはしっかりと他の番号と一緒に並んでいた。
その様子をどこか嬉しそうに見つめる伊奈瀬。金城という名の心配事もなくなって、顔は晴れやかになっていた。
「なんか、お騒がせしてすみませんでした……」
「いいよ、全然。終わりよければ全てよし、って言うしあまり気落ちしないで、ね?」
和やかに話す教師たちの間で、金城は肩を縮こまらせていた。どうやらしっかりと今回のことは反省しているようだ。その面持ちは、試験に受かったというのに、どこか暗い。
「もう、二度と起きないことを祈るわ」
「……本当に、すんませんでした」
隣で腕を組みながら教卓へと寄りかかる土宮香苗。その声も顔も相変わらず冷たく、無感動だ。金城は罪悪感で苛まれた心を突かれたような気がして、胸を抑えた。
(……まじで、阿保だろ俺)
まさか、あんな大事なことを忘れていたなんて、己の馬鹿さ加減にはホトホト呆れる。金城は痛む頭を押さえながら項垂れた。そんな奴の肩を伊奈瀬は叩いてやる。
「ほ、ほら。掲示板見ようよ。もうすぐ金城くんの番号も見えるはずだから! ね?」
伊奈瀬の励ましの言葉に金城は苦笑を返し、ヨロヨロと顔を上げた。視界に映るのはフィルムスクリーンの掲示板。画面は下へ下へとスクロールしながら次々と合格者たちの番号を映し出す。それを見つめること数分。
「……あ、」
国立行政機関付属高校、合格者発表
732
777
819
850
896
901
903
907
1000
1001
1002
――《1002》番。
金城の番号が終盤へと差し掛かるうちに見えた。
(……俺の、番号……本当に、あった)
1002、今や慣れ親しんでしまったその数字が金城の視界に焼き付いた。
瞼の裏は熱く、熱を灯り始め、気のせいか鼻の奥がつん、と痛み始める。
「……金城、」
担任の高野はさりげなく金城の頭を撫でてやった。
「よく、頑張ったな」
「っ……」
ポロリ。瞬間、不覚にも滴が金城の頬の上を滑り落ちてしまった。鼻奥からは水が漏れ始め、震える吐息が口から零れ出た。声は碌に出ず、その嗚咽は低く掠れていた。
ひくり、ひくり、金城の肩が跳ねる。
(おれ、すっげえみっともねぇ……)
泣きたくなどないのに、涙は止まることを知らず、次から次へと零れ落ちた。背中を優しく叩く腕は金城の嗚咽を助長させ、さらにみっともない姿を曝させる。
本当は泣きたかった。叫びたかった。
あの日、散った花弁を眼前へと突きつけられたあの時、金城は声を上げたかった。だけど、そんなことをしてしまえば最後、二度と立ち上がれなくなる気がして、出来なかったのだ。張りぼての仮面で自身の感情を隠すことで、奴は己を必死に保とうとしていた。
だけど、それはもう必要ない。
「っ、おれ、本当はくやしかっ……」
「ああ、そうだな。悔しかったよな……あんなに努力したんだもんな。お前は本当によく頑張ったよ金城。よくやった。
ごめんな、先生……最初にあんなひでぇ事言っちまって……」
「っっ、……」
「合格おめでとう。お前は本当に凄い奴だよ」
醜い顔を手の甲で覆う金城。その様を伊奈瀬や高野、その場に居た者たち全員が暖かく見守っていた。
そんな中、一人、部屋からそっと足を踏み出す女性が居た。
黒いスーツに、肩まで切りそろえられた髪。ドラマのワンシーンのような光景を平然と見つめるその双眸は、厚い硝子で隠されている。
――土宮香苗だ。
ヒールを極力鳴らさず、外へと消え去るその姿に室内の者は誰一人気付かない。
こつんこつん、密やかな廊下に靴音が響いた。
「……まさか、あんな大事なことを忘れるとは」
漏れる吐息には呆れの感情が含まれていた。額を抑える顔には疲労の色が見える。
大した運動もしていないのに、まるで体を酷使した気分だ。土宮香苗は肩をほぐしながら足を進めた。そして、ふと視線を外の夕焼けへと向ける。
窓越しに見えるそれは見事な橙色へと染まり、深い紫が綺麗に混ざり込んでいた。
「……“放り出す”、ね」
脳裏を過るのは半刻前、少年から聞いた言葉。それは土宮香苗が危惧していた問題――行政高校の筆記試験で出された
『――とりあえず、爆弾を放り出すって書いた……』
それは、なんとも短絡的な回答だった。
最後の問題――《問》100。今年の行政高校の入試試験で出された質問は今までのものと一味違っていた。それは土宮香苗にとっては僅かに瞠目するものであったが、同時に納得できるものでもあった。判断力を図るなら、単に哲学的な質問を出すより、実際に機関士が陥れる状況を例えとして提示し、受験者たちの反応を見た方が確かに妥当だ。そこには様々な思惑と見解が蠢いていることだろう。
だが、それよりも土宮香苗は金城の解答に、目を見張っていた。
彼らが提示された問題の状況は単純明快。20階という高さのビルに、救わなくてはならない大勢の命。与えられた時間はたったの30分。共にいる仲間は二人だけ、しかも一人は動けない。
模範的な解答なら、動けない男に爆弾の処理をさせて、残った自身ともう一人を人質の救出・脱出劇へと向かわせるだろう。そうすれば犠牲は最小限で済ませられるし、任務も無事遂行できる。苦渋の決断ではあるが、機関士には必要な覚悟だ。少数より大多数の人間を選ぶのは当然のことである。
他の解答としては——もし既に行政機関のことを学び、機関が使用を許されている器具のことを知っているのなら——恐らくその知識を駆使して、最善の脱出方法を生み出すものもいただろう。
それか、単純に爆弾の解除の仕方を知っているのなら、ありとあらゆるノウハウを解答にいれても良い。
《判断力系》の質問は、受験者たちの《アピールタイム》でもある。
正直な話、この質問はなんでもありなのだ。正解も無ければ、間違いも無い。おまけに爆弾の種類など、詳しいことを書かれていないから、受験者たちはそれぞれ好きなように想像を広げ、様々な理論や見解を叩きだすことができる。皆、各々の知識と判断力を駆使して素晴らしい答えを綴ったことであろう。
だが、金城の場合は。
「放り出すって……何事かと思ったじゃない」
再度大きな溜息を漏らす土宮香苗。その答えを聞いた時、彼女は自分の耳を一瞬だけ、疑ってしまった。
それもそうだろう。放り出す、なんて普通にありえない解答だ。そんなもの正解として認められるはずがない。爆弾を放り出してしまえば、被害は逆に外へと及ぶし、爆発間近で爆弾を投げ出そうにも、人の力ではそこまで遠くへ飛ばせるとは限らない。無謀な試みである。
――だが、そうではなかった。
「……まさか、そこに気が付くとはね」
金城は確かに爆弾を放り出すとは言ったが、「投げる」とは言っていない。
土宮香苗の耳奥で、奴の言葉が蘇る。
『――20階まであるビルに、100人の人間だろ? ……なんかそういう、少ない人数に対して20階以上のビルって、高級住宅、とか大きな会社だろうから。
大体観光用とか移動用ヘリを置いてるし……それ使って爆弾を外に出せばいいんじゃないかって、
別に俺が主導で動かさなくても、ヘリのAIが何とかしてくれるから……そうしたら誰も死なねーし、空中で爆発すれば被害もあんま出ねーかなって』
その瞬間、土宮香苗は瞠目した。確かに金城の言うとおり、今の時代、個人の娯楽用としてAI付きの小型ヘリはその類のビルでは普及されている。
僅かな時間、試されているというプレッシャーの中で、其処まで行きついた思考と、推察と、発想。
考え自体はそんなに大したものでは無いのかもしれない。確かにそれは土宮香苗にも思いつける方法であったし、少し考えれば分かるものだ。だが、問題はそこではない。
問題なのは奴がその方法を思い浮かべるのに使った《時間》だ。残された制限時間は残り30分。100の問いを見直すのに、金城が大体30分ほどの時間を必要とすることは、土宮香苗も過去7ヶ月間の個人授業により、知っていた。
つまり、だ。
もし、本当に金城の言う通り、約30分ほどの時間しか残されていないその時間帯で、その問いにぶち当たっていたのだとしたら、奴は1分にも満たない僅かな間で、その答えを導き出したことになる。
「……一体、どれだけの生徒があの中でその答えを導き出せたのか」
繰り返すようだが、この問いには正解も間違いも無い。だが、金城の解答には目を見張るものがあった。
あの緊迫に満ちた状況の中で、一体何人の人間に、そのビルの正体を突き止めることが出来ただろうか。一体何人の人間にあの発想へと至ることが出来ただろうか。
土宮香苗とて、元行政学部。行政高校の試験会場がどれほどの緊迫感と重圧で満ちた場所であるかは、簡単に想像できた。
あの試験会場のことは知人から耳にしたことがあったし、香苗自身、東大の行学部を受験する際に、似たような経験をしていた。
誰もが目指す学部もあってか、其処はどこの会場よりも殺伐とした空気で充満していた。皆が皆、ピリピリとしていて、必死なのが分かった。他の試験会場と違い、自分らを監視するロボットや教員たちの視線は絡みつくようで、とてつもない重圧を感じさせた。其処は、正に地獄のようにも思えた。
バクバクと最初から最後まで早鐘を打ち続ける心臓、焦る思考、真っ白になりそうな脳と、僅かに震える指。それを抑えながら受験者たちは頭を必死に働かせ、己の全てを問題用紙へぶつけようとする。脳の髄まで叩き込んだ知識を一生懸命に引きずり出して、自身の解答へと添えていくのだ。
だが、それは一種の罠でもあった。暗記したものを引きずり出そうとする脳は知れず、考えることを忘れ始めてしまうのだ。
——そう、例えばあの《判断力》の質問。恐らく、あの重圧で覆われた試験会場にいた受験者たちは、己の知性や判断力、そして何よりも自身の《勇敢な覚悟》を示すために、沢山の言葉を綴ったことだろう。『判断』というプロセスへとたどり着く前に、『観察』或いは『洞察』という大事なステップを置いて――。
「……あの質問に出てきたビルに、本当にヘリがあったかは分からない、それでも、」
その可能性は限りなく高く、また、金城が導きだした判断は最善なものであった。
「馬鹿なのか、賢いのか」
本当に金城理人は、よく分からない男だ。
土宮香苗は何度目になるか分からない嘆息を吐いた。
(……60秒にも満たない時間で、あの答えを導き出せたと試験管が知ったら、どんな反応をするのか、)
それは、金城の解答を採点したものにしか分からないことだ。
「まあ、何はともあれ……」
《ブラッド》を仄めかせるような答えは出されることなく——金城は無事、行政高校へと入学できたのだ。
土宮香苗は、誰も居ない廊下で、人知れず笑みをこぼした。
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