32 スパイスカウト
楢野はボイスチェンジャーで年嵩の男の声を偽装して、プラチナタイム(シーシェル・プロモーションのクラブ店名)に、咲華愛(紫央香のクラブでの源氏名)を店外指名し、赤坂アークヒルズのインターシティホテルのラウンジで、ノンアルコールビールベースのシャンディガフを飲みながら待っていた。アルコールが邪魔になる大事な仕事の時はいつもこれだった。窓越しに東京タワーのイルミネーションが見えた。待っている間に、咲華とは花崎のことだと気付いた。彼を片時も忘れないように名前を借りていたのだ。なんという健気さだろう。
「お連れ様がお着きです」黒服のフロアレディが、黒いシックなイブニング姿の紫央香を案内してきた。青いロエベのセカンドがよく似合っていた。
「まあ、女の方なの」
「ごめんね、女じゃ指名できないと思ったから、騙したの」
「ぜんぜん、女性でもかまわなかったんですよ。ちょっとびっくりです」
「目立つから座ってちょうだい。時間はたっぷりあるでしょう」
「ありがとうございます」
紫央香は上品な物腰で楢野の隣に座った。小柄な楢野とは座っても10センチ近い身長差があった。
「あなたが桐嶋汐子さんね。ほんとにおきれいでプロポーションもいいのね。私は花崎の秘書の楢野莉子と言います」
「あっ、浜松でお会いした莉子さんですよね。気が付かなくてごめんなさい。ほんとうにいろいろありがとうございます」
「そんな大したことしてないわ。花崎とはその後どう」
「月1、2くらいで指名してくれます」
「ホテルは行くの」
「莉子さんだから言いますけど、今まで一度もないんですよ。だから、できない人なのかと最初は思ってました。でも、そうじゃないみたいで」
「そういう客って珍しいんでしょ」
「年配の方にはときどきいらっしゃいますが、お若い方でそういうのは花崎さんだけですね」
「社長、風俗にやたら詳しいから遊び人かと思ったら、意外とシャイなんやわ」
「私大好きです」
「好かれるだけじゃ意味ないよね。男と女はやってなんぼやもん」
「花崎さんも口ではいろいろ言うんですよ。女の1割は風俗嬢、後の9割はブスだって」
「それは社長の口癖やね。うちも聞いた。だけど、例外が1人だけいるんやわ」
「楢野さんですか」
「あなたよ」
紫央香の頬に一瞬朱がさした。「それはないですよ。楢野さん、すごい魅力的だもの。こんな秘書さんがいつも一緒だから、私には興味がないってわかりました」
「抱かないから興味がないってのは違うよ。ほんとに好きな女は抱けないって男もいるんやわ」
「そうですか。でも花崎さんはきっと違いますよ。最近お会いしたときも彼女が居るんだって言って写真見せてくれました」
「未雪ちゃんでしょ。あの子はまあセフレってとこやわ。あなたとは思いが違うのよ。いつも社長とどこで遊んでるの」
「ミニライブなんです」
「え、なにそれ」
「最初のデートの時に地下アイドルのライブにご案内したら、嵌っちゃったみたいで、アキバだけじゃなく、渋谷でも、新宿でも、フクロ(池袋)でも、ライブがあればどこでも行きます。だから、会う時は調べておくのが大変です」
「へえ、それ初耳ね。ファンになってる子がいるとかなの」
「すごく詳しいんです。100人くらいはアイドルの名前覚えてるみたいです。とくにお気にはアンドロイドルのマンモとか、おこさまカフェ・アイドル部のシナリンとほのほのとか、沖縄アヴァンギャルド少女アヤとか、あと5人くらいかな」
「どんな子なの」
「それがちょっと」
「どうしたの」
「どっちかっていうと9割のほうの子が好きみたい。ブスでも夢を追って精一杯自分がやれることをやってる姿がいじましいって。だけどブス専ってわけじゃないんですよ。シナリンとほのほのとかすごい美少女だし。風俗とは絶対縁がなさそうな子がいいんですって。ちゃらちゃらと媚びを売るような子はダメってことです。意味不明ですけどね」
「なるほど、そういうことね」
「わかるんですか」
「あいつのことなら大抵わかるわよ」
「さすがですね」
「それよりあなたのことだけどさ、モデルのレッスンはどう。いろいろかかるでしょう」
「何十万もかかります。ウォーキング、メーキャップ、ヨガ、エアロダンス、フルで取ってるし、エステも行ってますから」
「あなたなら、きっとチャンスが来るわ」
「ありがとうございます」
「ところでね、社長を助けると思ってやってほしいことがあるんやけど」
「ええ、花崎さんのためになるなら」
「難しいことじゃないの。まず、事務所を移ってよ」
「え、それはムリですよ」
「どうして」
「だって、レッスン料とか前借りしてるし」
「いくら」
「たぶん500万とか」
「払ってあげるからシーシェルは辞めて」
「そんなお金、あるはずないし、きっと疑われます」
「お母さんの保険金が出たから全額払いますとかなんとか、適当なこと言って抜ければいいよ。面倒になりそうだったら弁護士付けてあげる」
「どこに移籍するんですか」
「ツバサ・エンタープライズ」
「え、美奈美翼さんの!」紫央香の目が輝いた。
「知ってるの」
「あそこに入るの憧れですよ。人気モデル、いっぱいいます。ほんとにツバサに移れるんですか」
「翼は10年来の友達なの。さっき、あなたのこと翼に直接頼んできたから」
「ほんとにほんとですか」
「ただ、今の事務所は自分で抜けないとダメだって」
「これってあの、花崎さんに頼まれたんですか」
「社長はね、あなたに本物のモデルになってほしいのよ」
「絶対移籍します」
「簡単じゃないよ。ツバサに入ったからって、デビューまで収入ゼロだから、夜働くのは同じなのよ。そういう業界なんだから。営業に必要ならデートもしてもらうわよ」
「わかってます」
「ツバサはレッスン料取らないから、これ以上借金する必要はないよ」
「ほんとにほんとですよね」紫央香はほとんど泣き出しそうだった。
「大学はどうしたの」
「休んでます」
「行きなさいよ。教養も大事だし、友達も作りなさいよ」
「花崎さんにもそう言われました」
「それからね、おいおい話すけど、移籍した後も社長のために、いろいろお願いしたいことがあるからね」
「花崎さんのためなら、なんでもやります」
「あなたと社長の関係は羨ましいわ。運命の出会いってあるものなのね」
「ええ、ほんとに運命なんです。わたし、助けてくれたの花崎さんだって最初は知らなくて、でもなんかおかしいなと思っていろいろ調べてみたの。そしたら…」紫央香は悔しさに涙ぐんだ。
「あんたがほんとのこと知ってるって新納社長はもう知っているの」
「知られたら殺されます」
「そういうやつなのね。まさかまだ新納と」
「もうとっくに飽きられました。シーシェルにも若い子が増えましたから」
「移籍の話決まったから、もう帰ってもいいわよ」
「仕事ですからオールで(朝まで)お付き合いさせてください」
「そう、じゃ、どうするかな。天気もいいし、とりあえずヘリで夜景でも見るか。スカイツリーを見降ろしてさ」
「え、そんなのあるんですか」
「ヘリポートがディズニーシーの隣にあるんだよ。貸し切りで飛ぼう。その後歌舞伎(町)のホストクラブかゲイバーに行こう」
「莉子さん、男前です」
「今日は男役ってことか。まあ、あなたに言われたら悪い気はしないね。あたしたち今日だけ百合(ガールズラブ)よ。花崎のボケとちがって私は肉食系よ」
「ほんとですか。すごいすごい」紫央香は心底嬉しそうにはしゃいだ。
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