5 難民の列

 柊山はなにかに憑かれたように夜通し壊れた堤防沿いを歩き続けた。そこがガレキがなくて一番歩きやすかったからだ。深夜2時を過ぎたころ、視線の先に光の帯が見えた。あたりは停電しているはずだし、まともに建っている住宅すらないはずだ。それでも光が見える以上は幻覚か蜃気楼でないかぎり人がいる。どこが道路かもわからないまま泥の中を一直線に光に向かって急いだ。光は避難民の行列だった。こんな夜中にどうして避難を強行するんだろうと思った。とにかく助けを求めようと思って女を背負う腕に力を込めた。

 「どうしたんだ」避難民の行列の中から、小学校教諭の高橋良一が2人に気付いて声をかけてくれた。

 「救助隊を探してんです」

 「あんたの妹か」柊山が背負った女の様子を見て、高橋は上ずった声で言った。死体を担いでいると思ったのだ。

 「いえ、高校の校舎で倒れてるのを見つけたんです。まだ息があるんすよ」

 「赤の他人か。偉いことしたもんだな。ちょっと見せてみろ」いくらか救護の心得のあるのか、高橋は柊山の背中からだらりと垂れた血の気のない腕を取って女の脈を見た。脈はあるにはあったが弱く速かった。

 「救護班に引き渡せるといいんだけどな」

 「病院はないんすか」

 「あっても全部ダメになってる」

 「みんなどこ行くんすか」

 「鬼目小まで避難するんだ」

 「一緒に行ってもいいすか」

 「3時間かかるぞ。その子背負って歩けるのか」

 「歩けます」

 「じゃそこまでがんばれ。水必ず飲ませろ。脱水症状怖いんだ」高橋はペットボトルの水を1本譲ってくれた。女を背負うので気がいっぱいで自販機から盗んだ水を詰めたバックパックを忘れてきたのに今さら気づいた。

 柊山は避難民の行列に加わった。みんな不安と疲れで他人を気遣う余裕はないのか、ひどく寡黙だった。避難民は原発から逃れてきたのだった。緊急停止した中央電力御幸崎原発に再臨界の危険が迫り、半径10キロ以内からの避難命令が出たというのだ。鬼目小は廃校になった小学校だったが、校舎も体育館も残っており、今夜はいったんそこまで避難し、救助を待つということだった。自衛隊や警察の誘導はなく、引率しているのは市役所の職員だという。鬼目小は海岸通りからは想像もできない僻地にあり、そこまでの道程はとんでもない山道の連続だった。やっと到着しても、そもそも避難所ではないので、備蓄された水も食料も毛布もなかった。着の身着のままの数百人の避難者はまるで難民で、思い思いに身を寄せ合いながら、埃臭い体育館の冷たい床に身を横たえて夜を過ごした。

 柊山は意識が戻らぬまま死の痙攣が始まった女をしっかり抱いたまま、一睡もしなかった。助からないにしても自分が眠っているうちに女が死んだらかわいそうだと思った。高橋から譲ってもらったペットボトルの水をときどき口移しに含ませ、渇きをいやしてやろうとしたけれども、水は苦しげな息を微かに漏らす乾いた唇を濡らすだけだった。校舎で津波に飲まれてから2晩目だ。もう助かるまいと思った。

 人の臨終に際して人は過去に思いをはせるものだ。柊山は周囲の山から漂う懐かしい野草の臭いを感じながら、昔を思い出した。彼は山育ちだった。子供のころ、よく一人で山に入った。近所の杉山で摘んできたワラビの味噌汁が大好きだった。中学生の時、山奥の実家に居づらくなった母と一緒に、藤枝市のアパートに越した。母は母子家庭といえばこれと言うような典型的な仕事、昼間はスーパーのレジ係、夜は場末のスナックのホステスになった。

 ある春先の日、パート先のスーパーにワラビが売られているのを見た母が味噌汁にしてくれた。ワラビだけがごっそり入った好物の味噌汁だった。喜んでいるふりをしたけれども実はうまくなかった。それから何度も試してみたものの一度もうまい味噌汁にはならなかった。原因はワラビの品質ではなかった。けっして書き直すことができない山の臭いの記憶なんだと気付いた。すぐ隣の山でもワラビの風味は違う。それくらいはっきりと生まれた土地の臭いは身に染みている。故郷とはそういうものだ。それが一瞬にして地上から消滅したら、その喪失感はどれほどだろう。街並みも家族も一瞬にして失ってしまったとしたら。

 母は自分の中の父の面影すら憎んだ。ところが声変わりをした頃から日に日に父に似てくるらしかった。母が好きだったから、そんな自分を愛せなかった。いつしかそれがトラウマになった。高校1年生の1学期に家出した。母に恋人ができたせいだった。スナックの常連客で、母より5歳も年下の農協職員だった。独身だったみたいなのに母に結婚を申し込む様子はなく、体目当てに泊りに来ているとしか思えなかった。地元のミス七夕に選ばれたことがあるという母は40歳に近いとはとても思えないほどきれいで、お店では魔女と呼ばれていた。

 16歳の家出少年が流れ着く先なんて決まり切っていた。柊山は大宮でパチンコ店の住み込み店員になった。17歳になると風俗紹介所の店番をさせられ、18歳になって運転免許証を取らせてもらうと、ナラシ(韓国系風俗嬢の送りドライバー)をやれと言われた。女たちは美人揃いだった。全員が韓国人で、いつの間にかハングルを覚えた。ナラシは女たちの監視役でもあった。女たちは日本にいる数か月の間、ずっと軟禁状態で、1日5、6人の客を取る以外は、本国の友達とスマホで遊ぶのが唯一の暇つぶしだった。整形手術の借金を返済するために売春しているのだということは後から知った。

 家出してから1度も会わないまま、21歳のときに母が死んだことを知った。自殺だった。借金が500万円あり、それを苦にしたようだった。母の遺品から、父の名前を初めて知った。父は婚外の息子を認知しなかった。母は嫌いな男に抱かれ、嫌いな男の子どもを宿し、嫌いな男に母子ともに捨てられた。それが自分の出自だとはっきりわかった。

 女はみんな風俗嬢だ。それが大宮で身につけた柊山なりの人間観だった。街を行く女がみんな出勤前の風俗嬢に見えて仕方がなかった。いい女ほどそう見えた。この世に女は2通りしかいない。1割の風俗嬢と9割のブスだ。男にも2通りある。風俗の買い手側と売り手側だ。腕の中で死にかけている女に柊山は運命的な出会いを感じていた。だが悲しいかな、彼女はブスではなかった。この女も生きていたらきっと1割の風俗嬢になったろうと思った。母校で被災し仮死状態になってまでヤクザ男に犯された。それもブスじゃなかったからだ。ヤクザ男を軽蔑したものの、自分だって女たちを汚すのに一役も二役も買ってきた。せめてこの女だけでもきれいな体を二度と汚さずに生かしてやりたい。守れるものなら守ってやりたい。だけど自分にそんなことができるはずがない。むしろ反対のことをしてしまうのが落ちだ。そう思うと情けなくて涙が出てきそうだった。


 翌朝、自衛隊の救護班が到着した。柊山が助けた女は肺塞栓で危篤状態になっており、直ちに気管内挿管と酸素吸入を施し、最優先でヘリに乗せられた。身内ではないと正直に言ったため、柊山はヘリに同乗できず、互いに名前も名乗らないまま女と別れることになった。柊山はそのまま避難民と共に鬼目小にとどまった。女は戻ってこなかった。生死も不明だった。携帯電話は復旧しておらず、避難民のリーダーにすら外部の情報はほとんど入ってこなかった。

 自宅に戻れると期待していた避難民に最悪の情報がもたらされたのは3日後だった。避難の前から原発はすでに再臨界し、高濃度の放射能が放出されていたのだ。しかも3日も経ってから、鬼目小は放射能が高いホットスポットで、いまさらに安全な場所まで再避難する必要があると言われた。ここまで誘導してきた市の職員は責任の重大さに青ざめていた。もちろんだれも彼を責めなかった。文句を言う暇もなく自衛隊のバスが迎えに来る小石山製作所の駐車場まで徒歩で移動することになった。さらにそこから内陸の岩田市の避難場所まで行くのだという。避難民たちの中には、これから何年も、あるいは一生もう自宅には戻れないだろうと言って泣き出す者もいた。実際、それから数年にもわたって避難所や仮設住宅を転々とする運命が避難民たちを待ち受けていた。

 避難民ではない柊山は自衛隊のバスには乗らなかった。野良犬同然の姿で、またあてどなく被災地を放浪した。どこにも帰りたい場所がなかった。

 「そこのおまえ、何やってる」

 路肩で休憩している柊山の前に大型の化学消防車が停まり、スピーカーから怒鳴り声がした。赤いボディに白字で東京消防庁消防救助機動部隊と書かれていた。はるばる東京から応援にやってきた全国最強の元祖ハイパーレスキュー(救助隊編成装備配置基準省令6条特別高度救助隊)だった。

 「家に忘れ物探しに来たらチャリがパンクしちゃって」柊山はとっさにウソをついた。

 「ばかやろう。このあたりは放射能で立入禁止になったの知らないのか」

 「原発が爆発したってほんとすか」

 「原発で起こってることはわからん。避難指示区域の外まで乗っけていくから早く乗れ」

 柊山は放射線防護のためのビニール合羽を着せられてから消防車に乗り込んだ。防護しているのは車両の方だった。

 「名前と生年月日と住所を言ってくれるか」

 「言わないとダメすか」

 「誰を救助したか報告義務があるんだ。言わないと不審者ってことで警察に連れてくことになるぞ」

 「そりゃないすよ。なんもやってねえのに」

 意地でも本名を言いたくなかった柊山は、拾った財布に身分証になるものがないかと探してみた。クレジットカードが10枚以上、学生証、さらに運転免許証まであった。

 「これでいいすか」柊山は免許証を手渡した。偶然にも免許証の写真は柊山と年格好が似ていた。年齢も1歳違いだった。二晩風呂に入らず、ひげも剃っていない柊山と写真の顔立ちを比較することはできなかった。

 「手間取らすなよ。榛原市の花崎祐介さんだね。年齢は21歳か。仕事は何?」

 「大学生っす」

 「どこ」

 「ああ、静大(国立静岡大学)っす」花崎の学生証に書かれた校名だった。

 「国立か。すごいじゃないか。いちおう被災した時の状況聞かせてもらえるか」国大生と聞いて消防隊員の態度がいくらか変わった。地方公務員は国大に弱い。

 「地震のときには大学にいたんすよ。それで家族が心配で榛原の家を見に来たら」柊山は適当なことを言った。道路も鉄道も寸断されているのに静岡からここまで来られるはずがない。

 「どうだったんだ」

 「家なかったです」

 「お身内の消息は」

 「わかりません」

 「そっか、気の毒なこと聞いたな。ご家族、早く見つかるといいな」

 消防隊員はそれ以上追及せず、柊山を掛川駅まで送り届けた。鉄道は新幹線も在来線も復旧していない。それでも国道一号線が仮復旧したからバスで静岡まで戻れるはずだと言った。

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