第42話

「では、こちらへ……」


 女性職員の案内で、事前に用意しておいてと言われた上履きに履き替え、重い足を受け止めた靴を指定された下駄箱にしまう……。


「担任教師を紹介します……」


 職員室の隣にある「進路指導室」の引き戸を開ける女性職員……。


 名前にそぐわない、柔らかい雰囲気のソファーに担任教師は既に「寛ぎ」りおんを待っていた……。




「担任教師の鏡花きょうか先生です……」


 そう言うと女性職員は、にこやかな表情で引き戸を閉めた……。


「よ、よろしくお願いします……」


 りおんの声が上ずる……。


「そう緊張しないで、座って下さい……」


 対面するソファーへと、物腰の柔らかい声でりおんを誘なう鏡花……。


「失礼します……」




「りおんさん……でしたね……」


 ソファーに座るりおんを、鏡花は過去を辿る様な瞳で見つめる……。


「あのう、鏡花先生……」


「あぁ、いいえ何でもないの……それより、突然の事で大変だったでしょう……」


「はい、それはもう……」


「ふふふっ、そうよね……全く彼らも何を考えているんだか……」


 りおんの「幻聴」でなければ鏡花が「彼ら」うんぬんと何か知っている風な言葉を、同情心を滑り込ませてながら本心をまぶした様に思え、見えた。


 鏡花自身は無意識に口にしたのだろう……「学院の諸々の資料ね……」とファイルをテーブルの上に置き「失言」に気づく様子もない……。


 とりわけ美人ではないが、概念における「基準」はクリアしており、儚げな瞳と濡れた唇……漆黒の長い髪が、窓から射す太陽光を吸収して仄かに繊維を輝かせる……。




「若い……」


 りおんが感じた印象……。


「三十路を過ぎているのよ……」


 鏡花が自虐的に言い、笑う……。


 時折愛おしそうに、お腹全体を手のひらが往復する。




「子供ができたの……」


 新たな命を、聖母の様な穏やかな眼差しで見つめ、その行動を不思議がっていたりおんに鏡花はしおらしく言った……。


「予定日は……」


「年末か、来年早々になるかしら……」


「おめでとうございます」




「触ってみる……」


「いいんですか……」


 遠慮がちな言葉とは裏腹に、りおんの左手は鏡花の中に棲まう命にすうっと伸びる……。


 服の上からとはいえ、鏡花とは異なる温かい「体温」をりおんは感じた……。


 目を閉じ「新たな命の鼓動を感じるかしら」と、ある種の快楽をも伴い、微笑みながらりおんを受け入れる鏡花……。






「女の子ですね……」


 りおんの魂が、意識と声帯と唇を一瞬支配し、言った……。


 しかし、すぐに後悔した……。

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