十二幕
家がありますね、とアマユリが言った。
見ると、茅葺屋根の小さな家屋があった。およそ二千年以上前に人間がこぞって建てた、俗に竪穴式住居と呼ばれる建築様式だ。今ではすっかりとなりを潜めてしまったこの家屋は下級の神々たちの指定居屋として、現在も下級神の村で利用されている。
そのとき、私は思議の糸が網状にひろがるのを脳裡に見た。
下級神は神の界層において最下に位置する神々である。
おしなべて社は小さく、その多くが畦道の路傍や山奥に局在する。また、信仰者の微々たるが彼らの霊験貧小たらしめる所以であり、ひいてはザハク殿のなかば下僕的あつかいを受けるの所以でもある。
なんらかの用事で七天神の皆が出払っている、なおかつ下界が雨天の場合、
甘いポン菓子。それが献上品だった。
ザハク殿はある下級神たちと遊んだ。それらは瓜二つの容姿を持つ双子の女性の神だった。
ユリエルとルリエル。
菖蒲色の髪。
純白のサイズの合っていないダボダボのカーディガン。
サイドテールが本人側から見て右に結んであるのがユリエル、左がルリエルである。馴れ初めはザハク殿がはじめて入寇したとき、彼女たちがザハク殿を呼び捨てにしたことだった。
目をつけられたのだ。
以来、遊び相手は双子が担った——という話を、その集落の長に聞いたアマユリに聞いたのが私だ。
しかして、なぜそこにいるのだろう、と私は思った。
あるところに通常存在し得ないはずのモノがある、もしくは何者かが居るというのは、たいそう不気味に思わせるもので、とりもなおさず私が感じたのはまさしくそれであった。
私は鬼胎を抱いた。腕に沈む鬼胎は不気味の感情の亢進に附して、毛糸をたぐる行為の果てに鞠ほどの大きさと重さになるように、それはたちまちに私の腕におさまらなくなった。
途端、行かねばならぬと思った。村の現状を知るために。
......私は足のしびれを我慢しながら立つと、すり足で玄関の方へ向かった。
「おい、急にどうした」
ヴォルトラが訊く。
私は振り返らずに答えた。
「西の下級神の村へ行って参ります」
「今から行くのか? 夜も更けたし、明日でもいいんじゃねえのか」
「いえ、どうしても気になることがあって。それを解決ないと、とても眠れそうにありませんので」
「お待ちなさい」
つとアマユリが言った。
「誰か、カラクラに着いて行っておやりなさい。夜道に一人では危険でしょう」
ややあって、ヴォルトラの大儀そうに立ち上がるけはいがあった。
私はふり向いた。
「しゃあねえなあ......」
ヴォルトラが言った。
後頭部を搔き、口の端に笑みを湛えている。
「あたしが行ってやんよ。問題ねえだろ」
私は顎をちょっと突き出してみせる。そして言った。
「いいえ、結構ですにゃ。そこでおとなしくしてろですにゃ」
私は激したヴォルトラから全力で逃げた。
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「あれあれ?」「ザハクどん?」
双子はめいめい不思議そうな、それでいて愉悦のまじったような表情とこわねで言った。
ザハク殿は彼女たちに下敷きにされており、うつ伏せのまま両腕を押さえつけられている。脚をジタバタとさせ、「おい、降りろ! 降りんかこの......」と、首を斜め後方にかしぎ喘いでいる。
——マズイなあ。
トキは思った。これでザハク殿に元来の
せめてここを辞去するまでは秘し隠すつもりだったけれど、致し方ない。いっそあけすけに事情を話し、双子の協力をあおぐに専念するか。だが、最上神と下級神の間にひどい尊卑の懸隔があるとすれば、双子はどうするだろうか。やはり下克上か。そして彼女たちの言う「伴侶になれ」とはどういった意味なのか。
差し向き下唇を噛み締めて、悔し涙を目の端に溜めているザハク殿を救出せねばなるまい。
トキは半身を乗り出した。
「取り込み中ごめん。そろそろ主人から降りていただきたい」
「おお、トキ」
ザハク殿は鮮やかな花弁の開くを連想させる笑顔をみせた。
双子は口を尖らせ、いささか不満の相を示した。
「え〜」「まだいいじゃない」
「いけません。ひしゃげたカエルのようでなんだか可哀想です」
「おい」
一言余計じゃ、とザハク殿が言った。
双子はクスクスと笑った。
「降りてあげてもいいけどお」「君が私たちのお願いを聞いてくれたらねえ」
「それは、先ほどの『伴侶になれ』ということでしょうか」
トキは訊ねた。
双子は二三肯首した。
「そうそう」「いいかな?」
「止せ、聴くな、トキ!」
ザハク殿が躍起になって言う。
「どうせ碌な考えではな」
双子に口を塞がれた。もがもがと曖昧な音。台詞の続きは意味をなしていなかった。
トキは深い呼吸をして、その後言った。
「伴侶とは何か、具体的に教えていただきたい」
「ああ、それはね」「ちょっと生き贄になることだよ」
絶句した。緊張が空気に薄ら氷のように張った。
瞬間的に思考が停滞し、言葉の接ぎ穂を失い額に汗をうかべるトキの視界には、「死」の一文字が禍々しくゆらゆらとおどっている。強く頭をふった。
ふと疑問が浮かんだ。「ちょっと」ってなんだ。
生贄に加減があるのか。
初耳だ。
まゆつば物だ。
そこはかとなく怖くなってきたので、矢も盾もたまらずにトキはそれを反復した。
「生贄......ですか」
「あはは、そんな青い顔しないでよ」「生贄といえども、べつに取って食うわけじゃあないのよ」
「と言いますと」
「知りたい?」「今すぐ知りたい?」
「ぜひ」
「うん、それじゃあ教えてあげるから、そこを動かないでね。——ルリエル、ザハクどんを押さえておいて」「わかったわ、ユリエル」
ユリエルはザハク殿の背中から軽快に飛びのくと、伸びのびの袖をずるずると引きずりながら、トキの膝前によった。
両手を彼の肩に乗せ、「動かないでね」と言って少女の風采らしからぬ媚態をたたえつつ、熟れた張り詰めた桜桃のような口唇を、彼のうすい細い口唇にせまった。
「あの、これは」
「動いたらダメ。私が困るじゃない」
ユリエルの指先はトキの首筋をなぞり上げ、落ちくぼんだ頬に掌をはわせた。
菖蒲色の髪の隙間に暁暗のごとく情緒的な瞳がのぞかれる。繊細微妙な青と橙のコントラストがきらびやかである。ザハク殿のあえぎが聞こえる。どことなく嘆願に類する必死さをかんじる。
はらい退けることは容易い。ただ、得も言われぬ桃色の思想がいや増す拍動の調子にともなって、なしくずしにトキの体の自由をせしめていた。
かくてトキは微動だにできない。ユリエルが何をせんとしているのかは想像にかたくないが、しかし彼女の挙動の真意が判然としないのはトキにとって恐怖でしかない。
彼女は類まれなる美女である。匂やかな息、まろやかな声音、柔肌の体温の包容——それらが彼の理性のとばりを暴きださんと目論んでいる......。
さて、そんなトキのアンビバレントな心緒など露知らずのユリエルの口唇は目前だった。
トキは腹をくくった。
目を瞑った。それが礼儀である気がしたからだ。
が、身に覚えたのは、およそ枯れ草にふれる記憶の喚起であった。
下唇に指をやると、何やら短い棒状のモノが触れた。
目を開けた。ユリエルは天井を見上げていた。「オオカミ」とつぶやいた。
トキも上を見た。すると、天井だったところが巨大な歯型にくりぬかれて、陽光を背負ういかつい獣の顔がそこにあった。黄金の毛並みの先が陸離に透けて見えた。茅がバラバラと落ちてくる。
あの大狼である。臓物を揺るがす低い唸り声。険阻にゆがんだ面差しに、剽軽は毫も見られなかった。
大狼は首をぬっと突き出すと、鼻息で双子を吹き飛ばした。タンブルウィードよろしく転げる彼女たちの行方は、稜角のない部屋の左端に終着した。
アトランティック・ジャイアント——俗にいうおばけかぼちゃ大の黒い鼻先が、トキの全身を検分するごとく丹念に嗅ぎ分けている。頭髪、顔、首筋、肩、腕、腋、胸部、腹、そびら、腰、太腿、脛、足、爪先までしっかりと......。
トキは居然としてそれを静観している。なされるがままである。おりおりに感ぜられる息吹の生温かさが、彼の肌の産毛をわななかせ、こそばゆくさせた。
「あなたも、神様ですか」
トキはおやすみを告げるような、長閑やかな口調でたずねてみた。
しかし、大狼は何も答えなかった。動きを止めて彼の瞳を凝然と見据えている。
ふっと目を細めた。彼の襟首を噛むと、ゆっくりと上へ持ち上げた。トキの体は再三天へと登る機会をえた。
「おい! どこへ連れてゆくつもりなのじゃ! 待たぬか、この犬っころ!」
ぴょこぴょこと跳ねるザハク殿が、憤然として言うのだった。
本来ならばここで空を飛ぶのだけれど、それが出来得ないゆえにザハク殿はひとえに跳ねた。
トキは大狼の背中へとほうられた。振り落とされぬよう、ひしと毛束を鷲掴んだ。青葉の香りをかすかに含んだ涼風がさらりと流れる。蹌踉として膝行する。顔を上げると、遠くまで見渡せる景色がすこぶる良好である。
大狼は軽らかに駆け出した。上下に激しく揺さぶられる。トキは大狼の頭部付近にしがみつきながら、口を開いて待ち構える黯然たる叢林地帯の入り口を西の方角に見た。
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ザハク殿は
次いで、角っこにておびえている双子の元へ寄った。
「おい、お前たち、わしに手を貸せ」
「なに?」「どうする気なの?」
めいめい上目遣いをして訊いた。
ザハク殿は腕を組み、ふんぞり返った。
「決まっておろう、わしの眷属を取り返すのじゃ」
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