五幕
神の頬が淡紅色に上気している。
トキはそのきめ細やかな肌の染まるのを夢心地に見ている。寒中水泳をしているごとき寒さに男らしく耐え忍ぶ中、眼下にそびえるビル群の四角が近づいたり、離れたりするのであった。
酸素が薄い。肌に当たる冷気がとても痛い。
「ちゃんと前を向いてください、落ちますよ」
神直々の戒めにあえて逆らう道理はない。トキは首筋をなぞる生暖かい吐息に半ば動揺しつつ、前方に目を向けた。
西の彼方からかくかくたる夕日の赤が差し、暮れなずむ空は侵食する夜の闇と、星々のきらめきとが渾然とした諧調をもっていた。渡り鳥の集団に出くわした。
ここは空の中である。雲路を行くトキは神を背負いながら、空中散歩と洒落込んでいる。地面を蹴るようにすると、力の強弱によって高度の調整が自由自在だった。
そして、世界中どこを探しても、神とともに空を歩くのは自分しかいないという自負があった。
なにゆえかくのごとき状況に陷ったのか。それは純喫茶『麦芽天然酵母』にて、彼女が彼女の正体を露呈したことに起因する。
時間をさかのぼるとしよう。
午後五時四十分。荒木鴇の雨露霜雪はここからはじまる。
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神のカミングアウトは如実に衝撃的であった。
目の前で起きている事象が、到底信ずるに値しないことは自明である。
誰が信じようか。
マジックではなかろうか。いや、マジックにしてはあまりにも大仰だ。生身の人間を瞬間的に冷凍させるなんて、恐ろしすぎる。前代未聞だ。下手すりゃ死ぬぞ!
——などと思案していると、あちこちから「神だ!」と興奮の色を帯びた声が矢継ぎ早に飛んできた。
北に「たかれ!」と言う声あれば、南に「よこせ!」と言う声あり。
トキは尋ねたい。
何を。
そのものズバリ、金と酒と煙草である。わざわざ訊かずとも、お祭り野郎たちが言い示してくれるのであった。しかしなんととまあ不躾で無遠慮な要求だろうか。
加えて、その
欲望の大合唱は輪をかけて大きくなってゆく。耳を
彼女は毅然とした様子で佇立している。
と思いきや、体が不自然に左右にふらふらと揺れはじめ、顔は火照り、虚ろな瞳はどこを見ているのかはっきりしない。
定めし神は酔っていらっしゃる。
「あら......おかしいですね。あなたの姿が、まるで三面鬼みたいに」
彼女はそう言うと、前に倒れた。すんでのところで、トキは彼女を抱きとめた。
「大丈夫ですか」
「ごめんなさい......ちょっと、酔ってしまいました」
彼女はトキの肩に手をかけた。
「肩を、お借りしてもよろしいですか」
「構いません。それより、早くここを出ましょう。あなたの財産が狙われています」
「私の財産は娘たちです。それ以外ならば、差し上げたところで何の痛痒をも感じません」
「しかし」
トキは周囲を見回す。お祭り野郎たちが、ジョッキを片手ににじり寄って来ている。
「金!」
「酒!」
「煙草!」
「アルコール度数!」
「八十パーセント!」
「魔改造ビール!」
「さすがだぜ!」
なるほど彼女を酔眼朦朧ならしめた由はそれか、とトキは思った。
それにしても、とんでもない酒をこしらえたものである。しかし称揚している場合ではない。整然と円形に組まれた隊列の距離はいよいよ近づき、ふんぷんと漂う酒精の香りが鼻につくほどまでに
「ちょっと失礼」
トキは彼女を抱きかかえると、木組みのテーブルの上に登った。
するとお祭り野郎たちは憤激した。
「ずるいぞ!」
「降りてこい!」
「ちくしょう、手も足も出ねえや!」
「やかましいぞ! 女ひとりに外道のようなこの仕方。お前たち、恥ずかしくはないのか」
トキは言った。
「恥ずかしゅうない!」
「羞恥などとうに捨てたわ!」
「ヒモをなめるな!」
激越したお祭り野郎たちのあけすけな雑言は
トキは眉根に縦皺を刻んだ。
与太の群れの頭上には丸めた紙くずや、空き缶などが飛び交っている。『我々は神のヒモ』、『うぃー・らぶ・かみ』と書かれた看板が高々と掲げられている。
さあどうしよう。
ここにどっかり腰を落ち着けども、兵糧攻めにされるのが落ちであろう。あるいは、勇気ある鶏群の一鶴が机上によじのぼり、彼女を奪取するかもしれない。
背後は壁だ。見渡すかぎり人垣だ。かてて加えて酔態の神の介抱中だ。
剣ヶ峰に立たされたこの状況、いかんせん突破口が見出せぬ。
誰か味方はいないのか。至急良識者を求む。
「まともな人間はいないのか」
腕の力は限界に近い。さながらアマゾン川の中心で、ワニの捕食を待つがごとし絶望である。
「私を置いてお逃げください。あなたを巻き込むのは本意なきことにございます」
女性は頭をトキの胸板に押し付けながら、哀願するように言うのだった。
「あなたは神でなのしょう。ならば、そのような腑抜けたことを言ってはいけません」
トキは教え諭す按配で言った。
女性は「ふふ」と笑い声を溢した。
「そうですね、おっしゃる通り。けれど、善者を救うのは神の役目。どうぞ構わず、お逃げください」
トキは頭を振る。
「僕がここであなたを置き去りにするならば、僕は悪者と成り果てましょう。あなたは、僕を悪者にさせるおつもりか」
「滅相もございません。しかし他に手立てが......」
途方に暮れていたそのとき、入り口の扉が凄まじい勢いで開け放たれた。
普通なら「チリンチリン」鳴る可愛い音色も、此度は「ガランガラン」と粗暴で耳障りの悪い音色だった。
かようにかまびすしい音がすると、不快感を覚えた人間は自然その方を見やる。御多分に洩れず、店内全員のしかめ面がトキから見ていっせいに左へ向いた。
「おい、アマユリ!」
客は怒鳴るように言った。
子供だ。
藍染の着物を召した赤髪の娘が、傲岸不遜たる態度で仁王立をしている。
「......ザハク殿」
女性は呟いた。
「ザハク殿?」
そのザハク殿はあたりをきょろきょろ、「おらんのか〜?」と問い掛けている。
ときどきジャンプをしてみるが、人垣は高く、彼女の視界はお祭り野郎たちに阻まれた。
「どうしたお嬢ちゃん! ここは子供がくる場所じゃないぞ」
お祭り野郎たちが揶揄した。
「なんじゃ? お前たち」
ザハク殿はキッと睨みを利かせると、腕を組んでふんぞり返った。
「わしはザハク! 天地万有の祖と謳われし創神であるぞ! 天上界を総べる唯一無二の絶対神をはよう崇め奉らぬか、この罰当たりどもめ」
場は風に揺れる
「神?」
「このちんちくりんが神?」
「神は神だろ」
「と、いうことは......」
お祭り野郎たちの眼が怪しく光った。めいめい手をもみもみしながら、ゾンビのように緩慢な動きで、ドス黒い雲霞は狼狽えるザハク殿目がけて行進を始めた。
「な、なんじゃ。お参りか? お参りならちゃんと一列に並ぶがよい。どうした、ほら......」
まったく意に介さない彼らは、「金、酒、煙草」を繰り返す。
やがて壁際に追い込まれたザハク殿はとうとう耐えかねたのか、悲鳴をあげて脱兎のごとく店を飛び出した。
「逃げたぞ!」
「追え!」
「財布を逃すな!」
さながら債鬼と化したお祭り野郎たちは入り口になだれ込み、彼らが猛然と子女の後ろ影を追走する、恐ろしい光景が窓越しに見られた。
店内は先きほどまでの喧噪がウソみたいに森閑としている。純喫茶本来の静謐を取り戻した空間の居心地がよかった。
トキは女性を椅子にそっと座らせた。
しかし女性の手は、トキの腕をいっかな離そうとはしない。
「助けに行かなくては......」
女性は言った。
「先ほどの女の子ですか」
トキは尋ねた。
女性は頷く。
「私の娘です」
「アマユリ、と呼んでおられましたが」
「はい。私のことです」
「アマユリさん。良い名前ですね」
トキは屈託のない笑みをみせた。
「僕は荒木鴇と申します。気兼ねなく、トキとお呼びください」
「わかりました、トキさん。しかし申しわけありません。神たる私がなんという体たらく」
「本当にあなたは神だったのですか」
「あなた、ではないでしょう」
アマユリは
「私があなたをトキさんと呼ぶように、トキさんも同じように私をアマユリと呼びなさい」
「失礼しました、アマユリさん」
トキは頭を下げた。そして上目遣いにアマユリを見ると、
「想像とは相かけ離れて、神はずいぶんと慣れ親しみやすいのですね」
からかうように言った。
アマユリは目を細め、微笑んだ。
「その方が素敵でしょう? それとも、阿修羅像のように厳然と構えている方が好みですか」
「いいえ、御免こうむりますとも。不思議だな......僕はアマユリさんのことを、もっと知りたくなってきました。どうすれば教えていただけますか? やはり、まずは御百度参りから? それとも、莫大なお賽銭が入り用でしょうか」
「そうですね。では、私のお願いを聞いていただけますか」
トキはアマユリの足元に膝をついた。
「何なりと。しかし普通逆では? 人が神様の願いを叶えるなんて、聞いたことがありませんよ」
「良いのです。神が言うことは、なんでもよしとされるのが常です」
「横暴ですけど、神がおっしゃるのであれば、仕様がないですね」
トキはうんうんと肯首した。
「さあ、僕は何を為せばよいのでしょう」
「私を、空へ連れて行ってください」
アマユリは真剣な表情で言った。
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