1-1 死のはじまり
大学も夏休みに入ると、その周辺にある飲食店の類はどこでも暇を持て余すようになる。
それは立花初音がバイトをしている喫茶店『フェアリーサンデー』も例外ではなかった。
クーラーだけが無駄に働くなか、初音はカウンターの上で、日頃は目を通すことも少ない週刊誌を広げて時間を潰していた。
ほかのバイトがいれば、話でもして時間を潰せるのだが、今日のバイトは自分一人だけだ。
店長の熊谷に至っては、厨房で携帯ゲームに夢中になっている。
「あれ? これって……」
「どうしたんだい?」
思わず漏れてしまった独り言に、熊谷が携帯ゲームから視線を動かすことなく尋ねてきた。
喫茶店の店長というよりは、ステーキ屋の店長のほうが似合いそうな、丸い顔に髭面といった風貌をしている。
「夜通埼神社の呪いっていうのが雑誌に載っているんですけど、これってそこの道を行った先にある所ですよね?」
「うん? ああ、そうだよ。ここからじゃ結構な距離があるけど、だいたいそんな感じかな」
熊谷が独り言のように呟く。
「へー、八人も死んだんですか? 結構な数ですね」
「八人? いや、僕の知っている話じゃそんなに多くはなかったよ。確か二、三人じゃなかったかな? しかし、随分古いネタを持ってくるねえ。僕が子供の頃に噂になった話だよ。最近の人は知らないんじゃないかな?」
「そうなんですか」
初音は熊谷の話を軽く流しながら、闇と血糊を背景に、白く浮かび上がる雑誌の文章に意識を集中させた。
――往来の薄い林道に、明々とした月の光が降り注いでいた。
K県阿山郡杉里村大字上阿波にある秩父両子山は、H県との県境にかけて広がる山岳地帯、火獄盆地の東部に位置する辺陬にある。
杉里村へは市内から車で約一時間半。周囲の山々は高さこそないが、山裾が複雑に入り組み、杉の深い緑に包まれて蒼古とした趣がある。
村を東西に貫く檸檬街道(国道三十六号)をさらに東へ進むと、頚無峠越えのトンネルに至る直前の山中、ちょうど急カーブに面した叢林の中に、渡塗屍婆という鬼婆の伝説が残る夜通埼神社がある。
昭和五十三年七月九日夜半過ぎ、八人の男女がこの神社を訪れた。来訪の目的は肝試しである。
彼らは地元の高校出身の遊び仲間で、たまにこうして集まっては青春を謳歌していた。
このときは誰一人として、これから自分たちの身に起こる悲劇を想像できなかったであろう。
昭和五十三年七月十一日早朝。
肝試しに参加した男女のうち四人が乗るセダンが、対向車線を超えて逆走してきた大型トラックと正面衝突。
運手席と助手席にいた二人が即死。
後部座席に座っていた二人のうち、一人は頭を強く打ち、搬送先の病院で一時間後に死亡。
一人は軽傷だったが、車を降りて助けを呼ぼうとしたところを、後方よりやってきた二tトラックに跳ねられ即死した。
四日後の七月十五日。
同じく肝試しに参加したメンバーの一人が大学のコンパの最中に急性アルコール中毒で死亡。
次の日には、白昼堂々アーケード街で通行人を次々に殺傷した通り魔事件に巻き込まれて、一人が命を落としている。
また一人は、行方不明になっており、未だに所在が掴めていない。
最後の一人であるが、彼女は自分が呪われていると思い込んでおり、部屋から一歩も外に出ないようにしていた。
けれども彼女を心配した父親の手によって、無理やり部屋から連れ出されることになる。
それは偶然と呼ぶには、あまりにも数奇な出来事だった。
部屋を連れ出されてアパートを出たその瞬間、アパートの五階から落下してきた植木鉢が彼女の脳天を直撃したのだ。
これらの事件事故を単なる偶然と決めつけるのならば、確率論の本を手にとって勉強されることをお勧めする。
学者の中には、〝サイコフィピス〟が原因だと主張した者もいる。
サイコフィピスとは、精神・霊魂を意味する「サイコ」と、信頼・信仰を意味するラテン語の「フィデス」が変化したものを足し合わせた造語で、『自己成就型予言』または『自己破壊型予言』と訳される概念である。
ある「虚偽」を信じてしまったがために、その虚偽が結果的に「事実」となってしまう現象のことを指す。
つまりは、彼らが「呪われてしまった」と強く思い込んだせいで、本来は偶発的なものでしなかった事故が、次々に連鎖し、まるで呪いによって殺されたかのように演出されてしまったにすぎない、と言うのだ。
だが、辛うじてそれに該当するのは、七月十一日の事故で車を降りて助けを呼ぼうとしたところをはねられた件と、七月十五日の急性アルコール中毒の件だけだろう。
前者は事故と肝試しを結びつけて考え、必要以上にパニック状態になったがために、安全確認がないがしろにされた可能性がある。
後者も同じく事故と肝試しを結びつけ、不安と恐怖から度を越した飲酒に走った可能性がある。
しかしながら、この二件以外の事件事故に関しては、サイコフィピスなどでは到底説明できない。もちろんのこと、「偶然」という言葉でも片付けることはできないだろう。
仮にその二つの言葉でいくつかの事件事故を差し引いて考えたとしても、まだ納得できないうすら寒い部分が残る。
それこそが「呪い」と呼ばれる、人の力では抗うことのできない厄災なのである。
八人もの男女の命を奪い去るほど強力な夜通埼神社の呪いであるが、逃れる術が全くない訳ではない。
過去にこの呪いから逃れられたケースがいくつか存在する。
それは――。
「いらっしゃい」
熊谷の野太い声に、初音の意識は現実に引き戻される。
入り口のほうを見ると、二人の男女が入ってくるところだった。客だ。
初音は彼らが席に着く前に、さっさと接客の準備を済ます。
コップに水を入れ、お手拭きと一緒にトレイの上に置いて、彼らが座るのを待つ。
ちょっと時間があったので、軽く服装のチェックを行った。
アイドル好きの店長がデザインしただけあって、アイドルの衣装とウェイトレスの制服を足し合わせたような、ふわふわとしたスカートが特徴的な服だ。
初音はこの制服を可愛いと思い、それがここでバイトを始めた理由だったりする。
客が席に着いたのを見て、素早く接客する。二人はメニューを見て悩んでいるようなので、しばらくかかりそうだ。
一度立ち去ってから、客に呼ばれるのを待つ。ややあって、男性のほうが控えめに手を挙げてきた。
そのときになって初めて気づいたのだが、男性は初音好みの顔立ちをしていた。
(結構なイケメンじゃない!)
思わず、にんまりしてしまいそうになるのを必死に我慢する。
そうしてオーダーを受けながら、隙を見て男性の顔を盗み見た。
年は大学生くらいだろう。肌は健康的な褐色で、縁なし眼鏡の奥からは優しげな瞳が覗いている。
鼻は高く男性らしく幅もあり、黒く清潔感のある髪は、最近の若者らしくワックスでナチュラルに動きをつけてあった。
全体から醸し出す雰囲気は、柔和で大人びており、いざというときは頼れる感じだ。
「それじゃ、フェアリーサンドと紅茶セットを」
声も渋くてよい感じだった。
「立花ちゃん、男性客のほうをガン見してたけど、どうかしたの?」
カウンターに戻ると、熊谷が小声で話しかけてきた。
自分としてはバレないように見ていたつもりだったが、熊谷にはバレていたらしい。
気恥ずかしさで、かぁっと顔が赤くなるのを感じた。
ちょっとだけ不機嫌になる。
「店長、それセクハラ」
「最近の若い子は、何かあるとそれだね。オオカミ少年って知ってる? いざってとき困るよ」
料理をつくり終えると、熊谷は再び携帯ゲームに夢中になった。
初音も暇だったが、店内に客がいる以上、暇そうな姿を見せるわけにはいかない。
「もう、会うことはないと思っていた」
そのときだ。男性客のぼそぼそとした声が、聞くとはなしに聞こえてきた。
初音は一瞬、違和感を覚えた。
(なんだろ?)
その理由を捜していた初音は、すぐにその事実に気づく。
この店に入ってから、二人が会話らしい言葉を発したのは、これが初めてだったのだ。
先ほどとは別の意味で男性に興味を持ち、さり気なく二人の様子を観察する。
ここからでは男性の後ろ姿しか見えない。そのためか、どうしても連れの女性のほうに目が行った。
歳は高校生くらいにも見えなくはないが、おそらくは大学生だろう。
粉雪色の肌をベースにして、幼い雰囲気を演出するかのように頬が桜色に染まっている。
黒目がちの大きな瞳に、紅梅のような唇が印象的だった。
イケメンの彼氏に十分釣り合うほどの容姿の持ち主であるが、どこか陰鬱で地味な感じがする。
「……怖かったの」
少しの間をおいて女性も口を開いた。その声は小さい。
初音に聞かせる必要性はないので、小さくて当然なのだが、そのことが妙な焦れったさを感じさせる。
「俺も怖かった。だけど、あれでよかったと思っている。……後悔してるのか?」
女性は俯いたまましばらく固まっていたが、ややあって口を開いた。
「わからない。ただ、私のまわりの世界が一変した。そのことに戸惑っていたの」
初音は渋面をつくった。何を話しているのかまったく理解できない。普通の会話でないことは確かなようだ。
「あいつは死んで当然の奴だった」
急にはっきりと聞こえた声に、初音はびくりと肩を竦める。
その気配を感じたのか、男性がこちらを窺うように顔を横に向けてきた。
初音は慌てて、聞いてませんよ、という態度を装う。視界の隅に、じっとこちらを見つめる男性の姿が映る。
ひしひしと刺すような視線を感じ、生きた心地がしない。
やがて男性は無言で向き直ると、急ぐようにサンドイッチを口に詰め込んだ。
「出よう」
男性が立ち上がる。それに合わせて初音もレジに立った。
眼鏡の奥から発せられる男性の探るような視線に気まずさを感じ、初音は顔を上げることができないでいた。
見えない力で頭を押さえつけられているような重圧感がある。
「はい、八百二十円ちょうどお預かりします。ありがとうございました」
それでもなんとか会計を終わらせ、二人がドアを出て行くのを確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。
「ちょい、ちょい、立花ちゃん」
唐突に声をかけられ、初音はビクッと肩を震わせる。
「店長、急に話しかけないでください。セクハラですよ」
「そんな言い方ないんじゃない。それはそうと、お金受け取ったときなんて言ってた?」
「え? お金を受け取ったときですか? 八百二十円ちょうどお預かりします――って」
「いつもそう言ってたっけ? それ日本語おかしいよ。正しくは『ちょうど頂きます』だよ」
初音は首か傾げた。そんな言葉を使う店員に会った記憶がないからだ。
「そっちのほうがおかしくないですか? あんまり耳にしませんよ」
「だって、預かったら返さなきゃいけないでしょ。お預かりしますって、そういう意味なんだから。大きいお金を出されたときに、お釣りを返すまでの間、一時的に預かるから『お預かりします』ってことなの。だからちょうどもらったときは、『頂きます』が正しいの。返すものがないんだから」
確かに、言われてみれば、そんな気もする。
そのときだ。再び、入り口のドアが開いた。
熊谷は素早く、「いらっしゃい」と声をかける。初音はそれに続こうとして、入ってきた人物の顔を見て、やめた。
中途半端に伸びた地味な髪型に、ワンプリントのTシャツと穿き古したジーパンにサンダル。
古びた黒いバックを肩にかけている姿は、一般的な男子大学生のそれである。
顔も平凡で、不細工ともイケメンとも評されず、「普通の人」とだけ記憶されていそうなタイプだ。ただその穏やかな表情が、彼の人となりを表していた。
彼の名前は立花弘瀬。
初音の兄である。
弘瀬は軽く頭を下げてから、カウンターに腰を下す。初音はコップに水を注ぐと、彼の前に置いた。
「こんにちは。いつも来てくれて助かるよ」
熊谷が営業スマイルを浮かべて弘瀬に話しかける。弘瀬は大学が夏休みに入ってから、二日に一回の割合で顔を見せていた。
「少しは妹の給料に貢献しようかなと思いまして」
「弘瀬が来ても、私のバイト料は上がったりしないって。それにその恰好。今日、映画に行ってきたんでしょ? まさかサンダルで映画館に行ったりしてないでしょうね?」
「え? 駄目かな?」
「駄目に決まってるでしょ。だらしない」
初音は呆れたように言った。
弘瀬は決して頭が悪いというわけではないが、どこか抜けたところがあるのだ。
お人好しな性格の上に、冗談が効かなかったり変に融通が利かなかったりと、小さい頃から初音に心配ばかりかけさせてきた。
初音にとって弘瀬は、兄というよりは手のかかる弟みたいなものだ。
「また詐欺に遭ったりとかしてないでしょうね」
「え? 弘瀬くん、詐欺に遭ったの?」
熊谷が驚いたように訊いてきた。
「初音が勝手に言っているだけですよ。駅で財布を落とした人がいたんです。電車に乗れないからお金を恵んでほしいって」
「いくらあげたの?」
「七百円です」
「店長、どう思います?」
「そりゃ、間違いなく詐欺だよ」
熊谷が髭をぽりぽりと掻きながら答える。
「みんなそう言うんですよね」
弘瀬が不満げに言った。まだ信じられないといった感じだ。
「とにかく、お金は大切なモノなの。簡単に人にあげたりしたら駄目だからね。その七百円があれば、服の一着でも買えるでしょうに。もっとオシャレしたらどうなの? 女の子にモテないわよ」
「気になる子とかいないのかい?」
熊谷の質問に、弘瀬はどこか恥ずかしそうな態度を見せる。
初音にはぴんとくるものがあった。
「えっ、弘瀬、もしかして好きな人いるの? この二十年間、人間には男と女がいるってことをまったく知らないで育ってきた弘瀬が。マジで? もう付き合ったりしてるの?」
「そうなったらうれしいけど、まだ全然」
弘瀬は苦笑しながら、右手をひらひらさせた。
「全然ってどういう意味よ。さっさと告白しなさい! そして潔くふられてきなさい。人生の厳しさに触れて、生まれてきたことを後悔するのよ」
「立花ちゃんは何が言いたいの? 応援してあげようよ」
「応援はしてますけど、ふられるビジョン以外思い浮かばないもので」
「やっぱり無理かな?」
気弱になる弘瀬を熊谷が励ました。
「大丈夫だよ。立花くんは好青年だよ。やってみなくちゃ分からないって」
「で、どうするの弘瀬。結局告白はするの?」
「うん。実は今週あたりする予定」
「なに、その中途半端な予定は? 一週間経っても何も変わらないでしょ? そんなまどろっこしいのはいいから、今すぐここに呼び出して告ってふられなさいよ」
「ふられることは前提なのかな?」
「だって、弘瀬には魅力がないもん。頼り甲斐のないナヨナヨした男を、彼氏に持とうなんて奇特な女の子がいるわけないじゃん」
そうだね、と弘瀬はまるで他人事のように笑いながら同意した。
「今週でないと駄目なんだ。友達に頼んでいろいろとセッティングしてもらってるから」
「うっわ、最悪。もうすぐ二十歳にもなる男が、告白するのに友達に協力してもらうなんてあり得ないわ」
「告白しようとしている子がサークルの後輩なんだ。だからその友達――うちのサークルの部長なんだけど、サークル内で恋愛はいいかなって訊いたら、協力するって話になって。まあ、いいかなと」
初音はがっくりと首を傾けて、ため息を吐く。
なんだか弘瀬らしいなと、妙に納得してしまったのだ。
「後輩ってことは私と同じ学年か。学部と名前は?」
「名前は、真白陽奈さん。学部は文学部」
初音の知らない名前だった。自分とは学部が違うので、まあ、仕方ないだろう。
その後も初音は、真白陽奈なる人物のどこに惹かれたのか、どんな告白をするつもりなのかを根掘り葉掘り問い詰めた。
――初音の頭の中からは、先ほど読んでいた雑誌の内容など完全に消え失せていた。
次の日からは暇になることを見通して、自宅から小説や漫画などを持ってきたため、後になってその雑誌を手に取るようなこともなかった。
弘瀬もどんなセッティングで告白するかを知らないままだったので、そのことについて初音と話すようなこともしなかった。
部長から告白のセッティングについて連絡があったのは、告白する日の前日で、部長曰く、サークルのメンバーを集めて肝試しを行う。そこで弘瀬と陽奈を二人っきりにするので、そのときに告白するようにとのことだった。
なんでも肝試しのようなどきどき状態で告白すると、成功率が高くなるらしい。吊り橋効果と言うそうだ。
そして、その肝試しを行うという場所が、例の夜通埼神社だったのだ――。
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