第三十二章 イノチヅナ

 ソロモンの話が終わり、エリスとクライドは天幕の外へ出た。エリスはクライドに先に戻るように言い、自分は少し考えたいことがあると言って野営から少し離れた場所に来た。そこには、うっすらと雪が積もっている。足を踏み込めば、雪が音を立ててエリスの足下をすくおうとする。けれど、慎重に歩けばすくわれることはない。ただ体温は奪われていく。

 かじかんだ指先は赤くなり、じんじんと寒さを訴えていた。エリスはそれを気にした様子無く、何かをじっと見つめる。

 無言で何かを見つめるエリスに気づいてクレアが近づいた。


「どうしたの」


「少し考えたくて」


「何か聞こえたの?」


 クレアの問いかけにエリスはうつむいてこくりと頷くだけにとどめた。それをくみ取りクレアは何も言わずエリスの隣にいた。二人の間を冷たい風が無情にも吹き抜けてわずかな体温すらも奪っていく。


「死間として王都へ向かうことになった」


「そんな、危ないわ」


 エリスに向かってクレアが言った。すると、エリスは僅かに微笑んで空を見上げた。


「けど、ソロモンは『必ず生きて帰ってこい』と言ってくれた」


「そんなの、無理よ。死間なんでしょう? 死ぬことが前提の間者なんて」


「それでも、これは戦だ。たとえ、戻ってこられなくても『我らが王』の望みを叶えるためならば」


「おかしいわ、そんなの。姫様は、きっとこんなの望まない。あなたがいなくなったら、悲しむに決まってる」


 エリスは笑った。それから、空から降ってきた白い雪をすくうように手のひらを広げる。白い雪はエリスの手に吸い込まれていく。


「悲しむだろうね。あの姫様は、今はなんとか自我を保っているけれど、少しつついただけで壊れてしまいそうなほど、もろいから」


「だったら!」


「だからこそ、生きて戻ってくる。姫様には、このことは言わないで欲しい。姫様に無駄な心配はさせたくない」


 クレアが悲しげにうつむいた。それから、ぎゅと自らの手を握る。


「姫様なら“無駄”だなんて言わないわ」


 クレアの言葉にエリスも同意して見せて、おやすみだけを言ってクレアと別れた。そのあともエリスは寝付くことが出来ず、兵達のいるたいまつの側へ行く。すると、視界の端に薄い金の髪が風に靡いているのが見えた。


(姫様?)


 導かれるようにその姿を追うとそこでは、マリアが弓を射っていた。野営の場所からは少し離れて兵達に迷惑をかけまいとしているのだろう。彼女が矢の練習をするというだけで兵達が落ち着かない様子であったのをエリスは思い出す。

 それから、マリアに視線を戻した。初めてあったときと同じようにどこか幻想的なその景色。

 白い雪の交じった風に靡く薄い金の髪。そこからのぞく青い金剛石ブルーダイヤモンドの瞳。その瞳は前を真っ直ぐに見据え、すべてを捕らえてしまいそうなほど強い眼光。


(ああ、やはり)


 導かれてしまう、とエリスは思う。これが守人であるが故のさだめなのか。でも、それだけではない何かがあるのをエリスは感じていた。しかも、それは自分だけが感じているわけでもないことを。

 マリアの矢が木に突き刺さる。ざわり、と木がざわめくのを感じる。それから、どこからか歌声が聞こえてきた。


『アトラス王

 我らが王の唯一の恋人

 それは罪深く

 大陸ごと海に沈められた』


 それを聞いて深く嘆息する。物悲しげなその歌声がひどく悲しい思いにさせられてしまう。けれど、それは“事実”なのだろう。かつての『我らが王』は、愛しい人と一緒になれなかった。それを歌に乗せて歌われると悲しい思いが募っていく。自分のことでもないのに悲しさばかりがふくらんでしまう。

 けれど、目の前にいる気丈な少女はたしかに目の前にいて、そしてそれがとても落ち着く。彼女の元を離れたら、とてつもない不安に襲われるというのに。


(なぜ、こんなにも)


 不安に思ってしまうのだろうか。『我らが王』とは、一体なんだというのか。ただこの瞳に映る少女は、確かにここにいる。それだけで不安も何も消えてしまうというのに。

 マリアはこちらに気づいた様子無く、矢籠の中の矢が無くなると矢を回収しようと木に近寄った刹那。マリアが足を滑らせた。

 焦ったエリスは思わず歌を紡いでいた。


『穢れを浄める木よ

 我らの声に答えておくれ

 子等を守るためのゆりかごをつくりたもう

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム

 忘れないでおくれ

 光をもたらす変わりに我らをまぼり奉らんことを』


 すると、マリアの近くにある木々の“ツタ”がにゅるりと伸びてきてマリアの腕や体に絡み付いて体を支えた。


「え」


 驚いたマリアは零していた。 それから首だけを動かしてエリスの方を見つめた。エリスはそんなマリアに近寄り、マリアの手を取る。すると、木の“ツタ”が元の位置に戻った。


「ありがとう、エリス。さっきの歌はエリスが?」


「ええ、王子が転んでしまうと思ってとっさに」


「きれいな歌声だった。また聞かせて欲しいな」


 言って微笑んだマリアにエリスは、少しばかり驚いたように息を飲んだ。それから、ゆるやかに微笑む。マリアはエリスの笑顔に思わず小首を傾げる。

 何かを決意したような笑顔がマリアには、どこか恐ろしくも感じた。


「エリス?」


 不安げに名を呼んだマリアにエリスは、ゆるやかに跪いた。


「改めてここに忠誠を誓わせていただきます。あなたが――」


 生きることが出来るのならば、と紡がれるはずの言葉はエリスの中に飲み込まれた。それを言ってしまうともう二度とマリアに会えなくなるような気がしたからだ。

 マリアはというとエリスが何かの決意を決めたのを感じ取る。そして、それはエリスの命が関わるほどの重大なことであることを感じ取れた。


(わたしの知らないところで、ソロモンはまた)


 マリアは思いながらも、しゃがみ込んでエリスの手を取り重ねた。エリスが驚いたように顔を上げる。


「姫様」


 姫様とは呼ばないでと言っているのにみんな呼ぶんだなとマリアは、思いながらエリスを守るように手を包み込んだ。


「エリス、どうか体に気をつけて。それから危ないことはしないで欲しい」


 エリスはマリアの言葉に嬉しそうにしながらも、どこか複雑そうな表情のままだ。マリアはエリスを離さないとでも言うように手を握り締める。その様子を木陰からギルとレジーが眺めていた。すると、クライドやクレアまでもが起き出した。どうやら、それぞれの自然の声に導かれたようだ。

 『我らが王』の心の動きに過敏な自然の声は、マリアの不安を感じ取ったらしく守人達を呼んだようだ。

 けれど、守人達はどうすることもできず、ただレイヴァンが来ないことを祈るばかりだった。



 翌日、守人達は全員寝不足になってしまった。マリアもまた不安を拭いきれず寝不足の様子だ。けれども、マリアは自らの体にムチを打ち起きてラルスを見送った。

 そのあと、守人は眠り込んでしまったがマリアは寝ることも出来ずふらふらと木にもたれかかった。しばらくは、ここにとどまり移動はしないため、このまま眠ってしまっても良かった。けれど、目が妙にさえて眠ることができない。


(どうして、ここまで不安になってしまうんだろう)


 自分でも答えのでない問いを繰り返す。昨夜からずっと繰り返されたものだった。エリスが何かを隠していることはわかる。何を隠しているかまではわからないというのに、ただエリスが命に関わることだと言うことがマリアにはなぜか分かった。けれど、マリア自身もなぜ“わかった”のかはわからない。

 ぐるぐると考えを巡らしながらマリアは、そのままズルズルと座り込む。すると、どこからは風のながれる音のような音が聞こえてきた。それは、優しくマリアの耳を刺激して眠りへと誘った。ほどなく、マリアは夢の中へと落ちていった。

 マリアの様子を心配していたレジーがマリアの近くで草笛を吹いていたのだった。レジーは、無言でマリアを見つめるとそっと隣に座る。守人は『王』に何かあると“声”が聞こえてくる。けれど、『王』の場合は“声”が聞こえてくるわけではない。ただ守人が危険なことをしようとすれば『王』は、心の動きを感じてしまうようだ。


(『我らが王』というのは、ただ我々に守られているわけではないのか)


 まだわからないことばかりだ。守人である自分すらも自分が何者であるのかすらわからない。ただ与えられた使命をこなしているだけにすぎないのだから。


(一体、守人というのは何なんだろう。『王』というのも、何なんだろうか。わからないけど)


 目の前にいるこの少女は確かにここにいるのだから、守らねばならないとレジーは心に誓った。そんな二人の様子をレイヴァンが、少し遠くからじっと眺めていた。何とも言えない表情のレイヴァンにソロモンが声をかける。


「そんな恨めしそうに彼を見るな。彼は前の戦いでお前のために風の向きを変えてくれたのだぞ」


「わかっている。レジーがそんな目でマリア様を見ていないことぐらい」


「なら、そんな目で見るな。まったく、お前は独占欲のかたまりか」


 言われればレイヴァンは、黙り込みレジーから視線を外した。


「それで、ソロモン。俺に何か用なのか」


「用がなければ話し掛けてはならぬのか?」


「そう言うわけではないが」


 言いよどんだレイヴァンにソロモンは笑ってみせる。冗談だと呟いてソロモンは、どこか遠くを見つめて言葉を紡いだ。


「戦とは国の一大事。死生の道、存亡の道……よくよく熟慮しなくてはならない」


「兵法の最初に記された言葉か」


 ご名答、とでも言うようにソロモンは片眼をつぶって見せて人差し指を立てた。レイヴァンは、真剣な眼差しでソロモンを見つめる。


「戦は国にとって大事であるから、国民の死活また国家の存亡の分かれ道。よく考えなくてはならない」


 レイヴァンも同意をしてみせて頷いた。ソロモンは、ふと真剣な眼差しへと変わりレイヴァンの方を見た。


「姫様は無意識のうちに兵を動かす術を持っている。それは重宝すべきだ」


 一介の兵に過ぎないラルスの手当をしたのは、ラルスだけでなく兵達に信頼を持たせるには十分なことである、とソロモンは言った。レイヴァンも頷くだけにとどめマリアの方を見つめる。


「情を持ちすぎるは、あまりよろしいとは言えないが信頼を得られなくては軍として成り立たぬ。だからこそ、信頼を得ることは良いことだ」


「だが、ソロモン。それがマリア様だ。情を持つことが将として未熟であっても、マリア様だからこそ」


「確かに、情を持つなという方が難しい。けれど、持ちすぎるのは良くない。なにも俺は、まったく持つなとは言っていないぞ」


 かけ過ぎるのは良くない、と言っただけだとソロモンは言葉を紡いだ。肩をすくめるソロモンをレイヴァンが驚いたように見つめる。すると、ソロモンはいたずらっ子のように口角をにんまりと上げた。レイヴァンはどこか呆れたようにソロモンを見つめて言葉を紡いだ。


「まったく、お前の言い方は誤解を与える」


 ソロモンは、小さく笑うとレイヴァンの肩を軽く叩いた。それから、すれ違いざまに「姫様を頼んだ」とだけ告げると兵達の方へ足を運んだ。

 ソロモンは時々、兵たちの元へ足を運んでは話を聞いたりしている。それが信頼関係を築くことに多少なりともなっているようで、口には出さないがソロモンへ向ける兵達の目がどこか嬉しそうなのは確かだ。

 レイヴァンは、兵達と関わることが多いから、わざわざ足を運ぶこともないが。“正騎士”であるというだけで結構、なついてくれている。それから、レイヴァンの人柄故かなついている兵が多い。主に忠実なその姿にひかれているのだ。

 ソロモンや守人達に言わせれば、忠実ではなくただの過保護と言われてしまうのだが。レイヴァン自身もそれをある程度は理解しているつもりであった。それが、独占欲から来るものということも。それゆえに兵士達に慕われると少しだけ胸が痛む。マリアに対する感情が忠義という美しい物であれば、こんな思いは抱かなかっただろう。けれど、自分が抱いているのはそんな美しい物ではなく醜い独占欲なのだ。それを兵達が知れば自分を軽蔑するだろうか、とレイヴァンは思って嘲笑する。すると、そんなレイヴァンに後ろからエリスが声をかけてきた。


「どうかなさいましたか」


「いや、何でもない。それよりもエリス、もう起きて大丈夫なのか?」


 レイヴァンの問いにエリスは苦笑いを浮かべて見せた。それから、マリアの方へ視線を向けると柔らかい笑みを携えた。


「姫様は僕が死間として向かうことを知らないはずなのに『危険なことをしないで』と言ってくださいました。『我らが王』には分かってしまうのでしょうか」


 エリスの口から零れた言葉にレイヴァンは、驚いた様子はなく、ただ苦々しい表情でエリスを見つめていた。


「マリア様はするどい所がある。けれど、それが俺は心配だ。俺たちに、臣下に気を遣いすぎている。そんなのでは心労してしまう」


 同意するようにエリスは頷いた。そのあと、レイヴァンの方を見つめてこういった。


「けど、それが我々の主ですから。『我らが王』であることを抜きにしても僕は姫様にお仕えしたい」


 レイヴァンもそれには同意するようでエリスに微笑んでみせる。エリスは、ふと真剣な眼差しをつくるとレイヴァンを真っ直ぐに見つめ返した。


「僕に……いいえ、“わたくし”にとって姫様は『道』であり、生きる目的でもある。それは、きっと生きていく上でこの上なく大切な“命の綱”」


 レイヴァンの目が僅かに伏せられた。その瞳の奧には、悲哀がたゆたっている。エリスの決意を受け入れ難く思っているのだろう。けれど、これを受け入れなければ前へは進めず後退するばかりだ。

 エリスが決意を固めているのに、引き留めてしまうようなことを思っては駄目だ。ここは、快く送り出すようにしなくてはならない。

 “死間”というのは、それだけリスクを伴うのだ。死間として向かう方も送り出す方もそれなりのリスクと決意が必要なのである。 それを分かった上でエリスとクライドは引き受けたのだった。


「エリス、ソロモンから何度も言われただろうが無茶だけはするな」


 レイヴァンが瞳の奧に悲哀を隠してそう告げるとエリスは、「はい」と答えて微笑んで見せた。けれど、手が僅かに震えていたことをレイヴァンは見逃さなかった。


***


 王都ベスビアスの王城でラルスは、早馬で駆けて王都へ潜り込んだ。それから、城へ掛け合うとすんなりと城へ潜入することができた。そのあと、バルドルの元へ向かうとソロモンに言われたとおり嘘の情報を流した。


「エイドス支城の援軍はおよそ2千といったところでしょう。それから、新種の兵器ですが、錬金術師の女性しか扱えないようです。それにもう数はほとんど無いとか」


 バルドルは、頷くと下がって良いと言ってラルスを下がらせた。それから、今度はグレンを呼びつける。


「いかがいたしましたか」


 呼ばれたグレンが部屋へやってきて開口一番問いかけると、バルドルはラルスの言ったことを偽りなく伝えてグレンに問いかけた。


「どう思う?」


「さあ、どうでしょうか。そもそも、この時期に戻ってきたというのが怪しいです。けれど、彼が間者というのがばれて死にものぐるいで生き延びてきたというのを信ずるならば、あながち嘘でもないかも知れません」


 ラルスの言葉を信じるならばだ。もしベスビアナイト国側に“反間”として飼われているならば話は別である。“嘘”であるという可能性も捨てきれないのは確かだ。けれど、ラルスが一度、ここへ入ってしまえばもう向こうに行くことも出来まい。向こう側に行こうとすれば嘘であることが全て分かってしまうからだ。


「今は、信じて見ても良いのでは。それに一介の騎士に過ぎない彼に正確な情報などもたらせれることはあまり無いでしょうし」


 どちらにしても下っ端である彼に正確な情報が渡らないのは分かっていた。けれども、情報を得ることは何よりも大切であるから彼を買収して少しでも情報を手に入れようとした。

 コーラル国側からしても彼の情報はそこまで重要ではない。重要なのは「反間」と「死間」だ。これには人材選びも慎重にしなくてはならない。

 「反間」は、いわば二重スパイ。「死間」は敵地に死を覚悟で潜り込み嘘の情報をもたらす。

 このように間者を使うことが戦をする上で大切なことだ。 しかし、そう簡単にいかないのも戦である。


「向こうにも頭のきれる策士がいるようですからな」


 グレンが笑って言えば、バルドルは気難しそうな表情を作った。あまり快く思っていない事柄だったらしい。


「けれど、頭のきれる人ほど手のひらの上で踊ってくれるようなもの」


 グレンの発した言葉にバルドルは、不思議そうに目を瞬かせる。それから、何か策があるのかと問いかけた。


「向こうはおそらく我々の人数を知らない。我々も向こうの数を知らない。そして、向こうは何かを待っている」


「何か、とはなんだ」


 すると、グレンは肩をすくめてみせた。


「さあ、わかりません。ただ言えるのは向こうはこちらを警戒していると言うこと」


 それだけです、とグレンが言葉を紡げばバルドルは眉間に皺を寄せた。グレンに対して不信感が募っているのかも知れない。


「わたくしとて、予知能力は持っておりませんから。すべてを見ることなど出来ません。ただ推測することは出来ます。向こうが何もせずにただこちらの様子をじっと伺っている場合、慎重にしなくてはなりません。兵を送り込んだところできっと、またやられるだけです」


 バルドルは、静かに頷くとグレンを下がらせた。グレンは部屋を出ると、またベスビアナイト国の王オーガストの場所を突き止めるために地下牢へ向かった。

 グレンは、ずっとオーガストの行方を捜していた。捕らえられているはずなのに今だ、その姿を見つけられてはいない。調べたけれど、処刑されたわけでもない。ならば、どこにいるというのだ。

 真実を探してグレンは、ここまで来た。けれど、クリフォードは何もしゃべらない。王妃は今だコーラル国ですら見つけられてない。ならば、確かめることが出来るのはオーガストだけだ。そう決め込んだグレンは、暗く深い地下牢を彷徨っていた。

 ついには地下牢の端まで到達したが、見つけることは出来なかった。


(オーガストはここにはいないのか? コーラル国に……いや、それはない。コーラル国からこっちへ来ることがあっても向こうへ行くことはなかったはずだ。ならば、どこにいる)


 溜息をついて冷たい石の壁に寄りかかった刹那。壁が、ガタリと音を立てた。かと思えば壁だと思っていた物が扉になっており、そのままグレンを扉の向こう側へ誘った。


「うわ!」


 思わずグレンは、そう声を上げてバランスを崩し、地面の上へ倒れた。すると、そこに黒い影がうごめいた。


「誰だ?」


 低く、それでいて歌うようなきれいな声がグレンの耳をついた。グレンは呆然と顔を上げて影の主を見る。その人物を見て絶句した。

 その人物は、薄い金の髪を地面に根のように這わせていた。同色のヒゲもまた然り。そんな髪からのぞくのは、明るい朝の空のような青の瞳。サファイアのようだとグレンは思った。

 その特徴、ベスビアナイト国の姫君であるマリアに酷似していた。けれど、がっしりとした体格に伸びたヒゲから男であることが見て取れた。


「お前は――」


 男は、鎖の音をちゃらちゃらと鳴らしながら近寄ってくる。そして、顔がもっとよく見えるようにとグレンの顎を持ち上げた。


「そんな、生きていたのか」


 男はグレンを見て呆然と呟いた。その言葉にグレンは動揺を隠せない。


(この男は、俺を知っているのか)


 しばらく二人とも押し黙っていたが、グレンが体を起こして男に問いかけた。


「あなたは、この国の王で違い無いか?」


「ああ、この国の王オーガスト」


「なら、教えて欲しい。俺は一体、何者なんだ」


 すると、男ことオーガストは目を見開いた。それから何かを言おうと口を開いては閉じるを繰り返す。グレンはもどかしさからオーガストに同じ問いを繰り返した。


「お前は、バートという錬金術師が生み出したホムンクルス」


「ホムンクルス?」


「ああ、そうだ。人間のように赤子から成長していく類い希なるホムンクルスだ。バートは幽閉される前にお前を産みだし、そしてアイリーンにお前を託した」


「待ってくれ、俺はブラッドリーに類い希なる錬金術の賜として売られた!」


「ああ、お前は一度誘拐された。ブラッドリーによってな。それでお前にバートの“研究データ”が埋め込まれていないことが分かるとお前を売った。我々もお前を捜したが、見つけることは出来なかった」


 まだ赤子だったグレンとマリアを一緒のゆりかごに入れていたのもあって、ブラッドリーは双子と勘違いし、もう片方に研究データがあると執拗にマリアをつけ狙った、とオーガストは言葉を紡いだ。


「研究データというのは?」


「わからぬ。けれど、バートは残った者達をブラッドリーの手から守るためお前を産みだし、アイリーンに“賢者の石”共々託した」


 グレンは静かにじっと耳を傾けていた。そして、「そうか」と呟く。


「俺はずっとブラッドリーは、父親だと思っていた。それでブラッドリーを追放したあなたを俺はうらんでいたけれど、俺の本当の父親はバートという者なんだな」


 オーガストは目を軽く伏せて、それから言葉を紡いだ。


「だが、こうしてお前に会えた。これは運命の巡り合わせなのだろう」


 グレンはオーガストをどこか悲しそうに見つめて「まだ引き返せるだろうか」と呟いた。その言葉にオーガストが反応するとグレンは、自分はコーラル国に客将として招かれていること。それから、この国を滅ぼすのにコーラル国に手を貸していることを告げた。


「今、思えば俺は何をやっているんだろう。ただ真実を確かめたいが為だけにこんなことをして俺は。戦に私情をはさむなんて御法度だ」


 すべてを吐き出してグレンは、取り返しの付かないことをしたと自分を悔いる。そんなグレンの手をオーガストが取り、温めるように握り締めた。その手は寒さであかぎれて血が滲んでいる。


「お前は守るために産まれてきた。今からだって遅くはない。お前の守りたいもののために、生きなさい。それが我々と敵対する形であったとしても」


 グレンの瞳から落涙する。それは、じわりと地下牢の冷たい床を塗らした。それから、オーガストの方を見上げる。


「あなたは、そんな優しいから国を乗っ取られたりするんですよ」


 ふっとオーガストは笑みを浮かべて、よく言われると呟いた。そんなオーガストにグレンは、心が洗われた気がして涙を乱暴に拭いて笑顔を浮かべた。


「ところで、オーガスト陛下はここに閉じこめられているのですか」


「ああ、出ようにもこの鎖があるし」


「出して差し上げましょうか」


 オーガストの目が見開かれた。けれどグレンはかまわず続ける。


「俺なら、コーラル国の動きもよく知っているし、兵達の動きもよく知っている」


「いや、わたしはまだここから出るべきではない」


「ですが」


「そのようなコーラル国を裏切るような行為をすればお前はここにいられなくなるぞ」


 かまわないとグレンは告げたけれど、オーガストはゆるりと首を横に振りグレンの意見を否定した。 グレンは思わず押し黙ってしまう。


「わたしを逃がせば間違いなくお前は、裏切り者とされる。それでお前はいいのか」


「もう俺にはコーラル国に荷担する理由は無くなってしまった」


 理由もなくコーラル国に仕えることは出来ないのだろう。かといって、コーラル国を裏切る理由も彼にはない。


「なら、お前はこれからどうする。荷担する理由も裏切る理由も無いお前は、これからどうする。コーラル国にずっと力を貸すのか? それとも、荷担する理由無しとしてこの国から去るのか……それとも、こちら側に付いてくれるのか」


 グレンにはコーラル国にもベスビアナイト国にも力を貸す理由はないのだから、この場を去ってしまってもいい。もともと、コーラル国ともそういう“約束”であった。


「俺はまだ全てを知ったわけじゃない。まだしばらく、この国に残るつもりだ」


「そうか。では、お前はどちらに付くのだ?」


「俺はオーガスト王。あなたに仕えたい。あなたに仕えたら何かが見えてくるかも知れない。そんな気がする」


 言ってグレンは長年仕えた臣下のようにオーガストに跪いた。


「ほう、こんなわたしを主と仰いでくれるのか」


「ええ、今はあなたにお仕えさせてください」


「わたしは愚かな王様だぞ?」


 かまいません、とグレンが告げる。その言葉に否定しないのかと思ってオーガストは、苦笑いを浮かべて見せた。


「そうか。なら、お前に最初の命を伝える。しばらくは、そのままコーラル国に力を貸すんだ」


「御意」


「それから今、国がどのような状況か教えてはくれぬか」


 グレンは国がコーラル国によって荒らされていること、そしてマリアが国を取り戻すために動いていることを告げた。


「アイリーンの居場所は、わからないのか」


「はい」


 オーガストは、しばし考え込むとグレンに言葉を紡いだ。


「わたしにも情報を流して欲しい。もちろん、マリア達の動きにも。それから、もしものときはマリアの力になって欲しい」


 グレンはもう一度「御意」と答えると恭しく頭を垂れた。それを見てオーガストは優しく微笑む。グレンが自分を裏切る様子はなさそうであるが一応、釘を刺すように告げる。


「お主が何を知りたいのかは存ぜぬが、どうかマリアを傷つけることだけはしないでくれ」


 柔らかい歌うような声が地下牢に響いた。

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