マリアの騎士Ⅰ 始まりの物語
草宮つずね。
序章
溢れんばかりの朝の日差しが、夜の凍てついた闇を溶かしてゆく。やがて光は、街全体を温もりでくるみこんだ。
ここはベスビアナイトという国。国王と王妃がおさめる国である。二人の間には女児しか生まれず、王妃は子を産めぬ体となってしまった。国王は一人娘を男児として育てることにしたのだった。いまや、その娘はすくすくと育ち齢十二となった。明るく朗らかな娘へと成長したが、少しばかり難点があり、皆を困らせていた。それは――
「クリスさま、どちらにいらっしゃるのですか」
娘の専属メイドが声を張り上げて、城中を探し回っていた。働き者で、まだ十五歳の時に娘専属に認められた。今はもうすでに二十歳であるから、かれこれ五年は働いている。そんなメイドは着慣れたピナフォアと薄い茶髪を振り乱しながら、見慣れた娘の姿を探している。しかし影すらも見つからない。ため息を吐き出して、顔に疲れを浮かばせる。彼女に鎧を着た体格の良い男が声をかけてきた。
「おや、あなたは王子専属のメイドではございませんか?」
「ええ、そうなのですけれど」
「また王子が脱走でもいたしましたかな?」
「そのまさかです」
重々しくいうと、ガハガハと男は豪快に笑う。呆れてまたメイドはため息を吐き出した。
「エイドリアン様、笑い事ではございません。これから、お勉強があるというのに」
「いやすまない。相変わらず、この国は平和で何よりだ」
エイドリアンの言ったとおり、この国は平和そのものであったのだ。何よりも、先代国王がこの国の軍事力を上げ連勝し続け、どこの国もこの国へ戦争を仕掛ける者などいなかった。内戦も特になく、平和な時間だけが過ぎてゆくのだ。
「それは、そうですけれど。王子にはもっと、王子としての自覚が必要ですわ。まったく、どこにおられるのやら」
ぶつぶつとぼやきながら、メイドはその場を後にする。しばらく歩いてゆくと今度は、“ある男”の姿を見つけた。男は若くして王子の専属護衛としてやってきた騎士であった。王子の本当の性別を知っている一人でもある。史上初である十八歳という若さで王に認められ、星の形が浮かんでいる
剣の稽古へ向かおうとしているであろう彼にメイドが駆け寄る。この男ならば、知っているかもしれないと期待を込めて声をかけた。
「レイヴァン!」
「バルビナ、どうかなさったのですか。今日は講師の先生がお出でてお勉強だと、伺っているのですが」
たちまち肩を落としてしまう。外れだったようだ。彼女の様子を見て男レイヴァンは全てを察する。
「またですか?」
「ええ、またです。まったく、どこにおられるのやら」
頭を抱えかけたとき、視界の端に何かが映る。違和感を覚えてレイヴァンは、足を向けた。そんな彼を不思議に思ってメイドことバルビナも彼の後ろに続く。
二人が向かった場所には大きな木があり、体の身軽な娘ならば軽々と上ってしまうことだろう。
レイヴァンが木の下からのぞいてみると、柔らかな絹の高級な仕立てが施された服を着ている“少年”がいた。見た目は中性的であるが、着ている服が男物である。しかし、華奢な体は女性的でしなやかであった。
姿を見つけると大きな声で少年の名を呼んだ。
「クリス様、そのような場所、危のうございます。降りてきてください」
「平気だよ、まったくレイヴァンもバルビナも心配性なんだから」
少年クリスは、二人が探していた王子であった。その王子は、木の枝の上に立つ。枝が大きく揺れた。それを見て二人は、すかさず大きな声で名を呼んだ。
「クリス様!」
「平気だって」
そのとき、少年の乗っていた木の枝が、ぽきりと折れてしまう。幼い体は、重力によって下へ下へと落下していく。
「わあああっ……!」
痛みを覚悟して目を閉じたが、いっこうに痛みは走らない。ゆっくりと目を開けると、心配そうな二人の顔が少年の
「クリス様、ご無事ですか?」
少年はレイヴァンの問いかけに、とっさに「ああ」と答えるしかできなかった。少しずつ状況を読み込めてきてはっとする。
自分は今、レイヴァンに横抱きされていることに。
「も、もう大丈夫だから。降ろしてくれ」
恥ずかしげに告げると、静かに降ろしてくれた。同時に二人は頭を抱える。
「まったく、あなたという方は。一歩間違えれば、頭を強打するところでしたよ?」
「そうですよ。レイヴァンがいなければ、頭を打って記憶喪失に。いいえ、もしかしたらずっと寝たきりに。ああ、あなたの笑顔が見えなくなると思うと」
「ああ、わかった。わかったから、以後気をつけるよ。それから、わたしのことは“マリア”と呼んでくれないか。クリスと呼ばれると、父上に呼ばれているみたいで落ち着かない」
レイヴァンとバルビナは、顔を見合わせる。
「しかし、あなた様を女性名で呼ぶなど……」
「これは、母上からいただいた名だ。何もおかしなことはないと思うが」
ためらいがちなレイヴァンに、少年マリアは朗らかに笑った。
「それでは、マリア様。今度は一人で出歩かないでください。危のうございますから」
「話したら、絶対に止めるではないか」
「わかっていらっしゃるなら、危ないことはなさらないでください」
「堅物」
「何とでも言ってください。次にこのようなことがあれば、ずっとひっついて回りますよ」
レイヴァンに言いくるめられ、マリアがしぶしぶとうなづく。年若い騎士は、勝ち誇った笑みを浮かべる。それをチラリと見て小さく息を吐き出した。
きれいなドレスに身を包んだ女性が青い瞳に映る。女性にマリアは、笑顔を浮かべて駆け寄った。
「母上!」
マリアが声をかければ、女性こと王妃アイリーンはにっこりと笑みを浮かべる。儚げなというよりも、無邪気なという表現が似合う微笑みだ。
「あら、マリア。こんなところでどうしたの?」
「あの木に上っていたんだ。けど、レイヴァンとバルビナに危ないからだめだと言われてしまって」
アイリーンは、声を上げて笑う。王妃ならばころころとという表現が合うはずであるが、アイリーンには豪快にという表現が似合う笑い方をする。
「あらあら、マリア。さすが私の娘ね」
「王妃様、そのようなことを仰ってはマリア様が調子に乗ります」
レイヴァンが進言すると、アイリーンは豪快に笑う。レイヴァンとバルビナはあきれ顔だ。王妃様がこんな調子では、マリアが改めるはずもない、と心の中で二人は思ってしまう。
「さあ、マリア様。いいかげん、戻りますよ」
「ええっ、そんなあ」
マリアがいやがれば王妃がかばうのかと思いきや、意外にも「戻りなさい」と言って聞かせた。マリアはしぶしぶとレイヴァンとバルビナに促され、城の部屋へ引き戻される。レイヴァンは剣の稽古に行くといい、二人から離れた。マリアは当然の如く机に向かわされた。
☆
「男児ならば、武器を持つべきだろうが。マリアは本来、姫君だ。何も無理に持つことはなかろうて。だが、自分の身も守れない王子としてよいのだろうか」
王の口癖だった。レイヴァンは、いちばん近くで聞いていた。若くして王に認められ、マリア専属の護衛になってはや五年。当時齢八歳の少女は王子として育てられていたにもかかわらず、特に不平や不満もなく真っ直ぐ育っていた。
王は娘を溺愛しているゆえに、武器を持たせぬ変わりに護衛をつけた。本来ならば武器を持たせるべきであろうが、そうしなかったのは王妃が反発しただけではなく王自身ももたせることが嫌であったのだろう。
当の本人は武器を持ちたがっていたが、レイヴァンは絶対に武器をさわらせなかった。マリアはずいぶんとふて腐れはしたが、王と王妃を欺く真似はしたくはなかったし、何よりも姫君に武器を持つ意味がきちんと理解できていたとは思えなかったからだ。無知な娘に武器を触れさせるなど、騎士として人としても避けたかったのだった。
レイヴァンはひとしきり稽古を終えて、マリアの部屋へ向かっていた。正騎士長がめざとくこちらの姿を見つけて声をかけてくる。
「レイヴァン、姫様のお部屋へ行くのか?」
正騎士長クリフォードは、口に蓄えた白いヒゲをゆらしながら問うた。わずかではあるが体から熱気があふれ出る。おそらく新人の騎士達の訓練を終えてきたのであろう。腰には、新人騎士用のレイピアが下げられている。
「また脱走されても困りますので」
疲れた声色でつむぐと、白いヒゲが大きく揺れた。唇からは、笑い声が漏れている。
「そうだな。あのお姫様にはたいへん世話が焼けるからな。だがなお前は何があっても、姫様の味方でなければならない。いいか、何があってもだぞ」
「そのようなこと、今更でございます。百も千も承知にございます」
白いヒゲが少し震えた。
「レイヴァン、戦が始まる。よいか、戦が始まってもお主は姫君の専属護衛。もし王都で何かあれば、お主はすぐにでも戦場を駆け抜けて姫君の元へ参るのじゃ。戦況がどうであろうと、な」
クリフォードはレイヴァンに背を向けて歩き出す。レイヴァンは、マリアの部屋へ向けて足を進めた。そうして部屋の扉の前まで来ると扉を叩く。
「どうぞ」
といってバルビナが部屋の扉を開ける。中へ入るとマリアが体当たりするかのように、頭をレイヴァンの腹部に向けて突進した。ただ抱きついているだけではあるが。
「レイヴァン、おそいよー」
自分の部屋だと思って、外で見せる威厳に満ちた王をまねた口調を止めていた。マリアは自分の部屋ではいつもこうで、甘えかかる声を出してレイヴァンに抱きつく。ほとんど頭突きに近いものだから、体を鍛えている者でなければ後ろによろめいてしまうであろう。
「マリア様、俺以外の人にはしないでくださいね」
いつもレイヴァンはマリアに釘を刺す。
「レイヴァン以外にはしないよ。だって、みんな後ろによろめいて、わたしまでけがしちゃうんでしょ。クリフォードに言われてからしてないよ」
以前はしていたのかと頭を抱えたくはなったが、何とかこらえるとレイヴァンは体を離して騎士らしくひざまづく。漆黒の髪が、さらりと肩から滑り落ちた。
「マリア様、存じていると思いますが俺は戦へ赴きます。そのため、しばらくあなた様のおそばを離れますので……」
「いや!」
レイヴァンの言葉を待たずしてマリアが叫んだ。
「あなたはわたしの専属護衛なのに、どうしてわたしの側を離れてしまうの。いや、そんなの!」
マリアの肩にバルビナが手を置く。
「お気持ちはわかりますが、レイヴァンはマリア様のいるこの国をお守りするために戦いに行くのです」
マリアが歯を食いしばる。何かをじっと絶えているようでもある。力んだ手が仕立ての良い服にシワを寄せていた。
「だって、もしかしたら、もう会えなくなるかもしれないんでしょう。そんなの、いやだよ」
声が震えて服に透明の液体がぽたりぽたりと落ちている。液体は、服にしみこんで丸い跡を残していた。レイヴァンは少なからず驚いた。あの気丈で朗らかな娘が、自分が戦へ赴くということの重大さをよく知っていたのだ。何より自分のために涙を流してくれた。今まで、そんな人間がいただろうか。少なくとも、自分の前で泣いている人は初めてだった。
レイヴァンは教会に捨てられていた子どもで、正騎士長が親代わりだった。正騎士長にあこがれ騎士に入団したが、人と付き合うのが下手であることが災いして同世代の騎士達からよくうとまれていた。しかし、どうだろう。
まだ世の理も知らないような少女が、自分のために泣いてくれている。レイヴァンにとって、この上ない喜ばしいことだった。
「マリア様、絶対にあなたの元へ戻ってまいります。あなたが望もうと望むまいと絶対に戻って参りますよ。鬱陶しく思われても、戻ってまいりますからね」
濡れている
姫君は涙を拭くと、ほほえむ。
「そうだな、すまない。わがままを言ってしまって。レイヴァン、絶対に戻ってきておくれよ」
王をまねた口調で姫君は、いった。そうでもしないと自我を保てないのであろう。繊細で弱い娘であると、自分は一番近くで見て知っている。朗らかで無知なこの娘はわがままであるが、それ以上に自分の器量をわきまえている。わかっているからこそ、わがままを言って臣下を困らせる。彼女のわがままはいつだって、身近な人がいなくなることを恐れて言うものばかりだ。
きれいなドレスやお化粧を好む年頃であろうに決して望まず、失うことを恐れていた。痛みを分かっているかのように。時折レイヴァンは恐くなる。彼女がどこか遠い世界の人間のように感じて。けれども彼女はまだ幼い少女に過ぎず、無邪気でやさしい笑顔を向けてくれる。そんな彼女に答えたいのは、臣下であるからか、もっと別のところに理由があるのか。レイヴァンはまだ答えを知らない。
「はい、もちろん。姫様」
マリアは頬を染めてうつむく。
「姫様と呼ぶのは止めてくれないか。なんか、恥ずかしい」
照れている姿に悪戯心を覚えて、レイヴァンは不敵に笑う。立ち上がると、マリアにずいと近寄った。
「姫様どうなさいました?」
「言うなってば」
「それは命令? それとも希望?」
「め、命令だ。わたしは、王子であって姫ではない」
わたわたと慌てる姫君があまりに可愛くてレイヴァンはつい、いじめてしまう。バルビナも止めるなど野暮なことはせずに、二人の様子を見てほほえましくも苦笑いを浮かべる。王妃様がみたら、騎士をそっこくクビにしてしまうだろうな、と考えながら。
「ねえ、お姫様?」
「ううっ、レイヴァンのいじわる」
マリアがにらみ付けるけれども、レイヴァンはものともしない。むしろ嬉しそうに微笑んだ。
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