第8章:仮面の下に秘められた(2)

 遠き稜線の向こうに日が落ちて、街の広場のあちこちに、松明の火が明々と灯る。

 そんな場所に、笛とギターによる古くからの舞踊音楽が流れ、仮面で目元を隠した男女が、笑みを交わしながらステップを踏んでいた。それぞれ意中の相手を見つけて、あるいは一晩の恋人と出会って、この時間を楽しんでいるようだ。

 どうやら、自分は完全に出遅れたらしい。シズナは、広場外れの建物の壁に背を預け、青い蝶を象った仮面の下から、幸せそうな人々の姿を眺めて、溜息をついた。

 浮かれた彼らは知らない。勇者がこの場で一人、鬱屈した気持ちで自分達を見つめている事を。

 故郷の村でも、夏の終わりに大きな火を焚いて、それを囲んで皆で踊ったものだった。自称元吟遊詩人を吹聴していた優男のジャンがリュートを奏でるのに合わせて、村人達が手に手を取って笑い合う。その時ばかりはシズナも、ユホの冷たい視線を忘れて、アルダと向き合い幸福の時間に浸った。

 あの日は、二度と帰らない。

 沈んだ気分になって、二度目の溜息をついたその時、視界にふっと滑り込んできた人影に気づいて、シズナはうつむけていた顔を上げ、そして、仮面の下で瞠目した。

 まっすぐこちらに向けて歩いてくるのは、黒い仮面の男だった。服装はカナルトの街の住人と変わらぬ素朴な格好で、紛れてしまえば一般人と区別がつかない。

 だが。

 一目見て、シズナには彼が誰だか察しがついた。

 この一年で大分伸びたらしい紫の髪を、高い位置で結っている。その鼻梁、口元、顔の形は、十数年毎日見つめてきた。目を隠した程度でわからなくなるものではない。

 心臓がどくどくと激しく脈打っている。唇が名前を呼びたくて震えているが、今ここでそれをしてはいけない事は、かろうじて理性が忠告した。

 ゆっくりと。彼がシズナの前に立つ。少し背も伸びただろうか。以前よりも見上げる形になる。

「お嬢さん」

 ずっと聴きたかった穏やかな声が耳朶を打ち、すうっと、右手が差し伸べられた。

「よろしければ、今夜限りのお相手を」

 仮面の下から、紫の瞳がまっすぐにこちらを見つめているのがわかる。それだけで、郷愁が胸に迫り、喉の奥から熱いものがせり上がって、叫びとして迸りそうだ。

 それを必死にぐっと呑み込むと、

「……よろしくお願いします」

 音楽と人々の踏むステップにかき消されそうな細い声で返し、しかししっかりと、自分より一回り大きいその手を握り返した。

 二人手を繋ぎ、しずしずと踊りの輪の中へと歩を進める。新たに参加した恋人達の為に、人々が踊りながら自然に、少しだけ場所を開けてくれる。

 静かな曲に合わせて、シズナは彼と共に、舞の一歩を踏み出した。

 手を組みながら踊れば、様々な思い出が、一瞬一瞬浮かんでは消える。

 共に草原を駆け回った幼い日。ガンツにどやされながら剣の修業を始めた頃。星座を読み解いた夜。初めての口づけを交わした夕暮れ時。幸福をかみ締めた一夜。

 それらを踏みにじるほどの悪夢を見たのに、今、思い出すのは、懐かしさに目尻が濡れるような、笑いと幸せに満ちた日々であった。

「髪を、切ったんだね」

 背中に手を回して、シズナをリードしながら彼がぽつりと呟く。

「色々あってね、不可抗力よ」

 右へ、左へ。ゆったりとステップを踏みながらシズナは返す。

「長い方が良いと言った事があるけれど」

 彼の口元がゆるみ、仮面の下で紫の瞳が細められる気配がした。

「短いのも可愛い」

 途端に、心臓が跳ねた。そう言われて、確実に心ときめいている自分がいる。それを意識しつつ、シズナは彼に導かれるままくるうりと一回転した。

「貴方は随分と伸びたわね」

「不可抗力さ」

 彼が踊りながら器用に肩をすくめる。結った紫の髪が、馬の尻尾のように揺れる。少し茶目っ気を帯びた答えに、我知らず唇がほころんだ。

 やはり彼は、彼のままだ。本来の性格を失っていないのだ。それを思い知ると、胸の奥がじんわりと熱を持った。

 曲調が変転する。明るく、テンポの速い展開へと流れるように遷移してゆく。それに合わせて、周りの恋人達と同じように、二人は笑顔を交わして、踊る、踊る。

 今だけは、勇者と魔王という、敵対する運命を忘れ、ただのシズナとアルダとして、再会を果たした愛し合う二人として、刹那の時を刻んだ。

 やがて曲が終わり、人々の間から歓声があがる。高々と拍手をする者、口笛を吹く者、相手と熱い抱擁を交わす者。皆それぞれだ。

 そんな熱気の中、彼がシズナの耳元に唇を寄せて、囁いた。

「ここでは話が出来ない。少し、離れよう」

 今までのときめきとは別の意味で、心の臓が大きく脈打った。

 今の彼と二人きりになるのは、まずいかも知れない。人目のつかない場所へ行った途端に、魔王の本性を現してシズナを始末しにかかってくるかも知れない。

 それでも。

 シズナは信じたかった。彼は彼のままだと。一年前のあの日より前の、『魔王アルゼスト』ではない、純朴で心優しい『アルダ』を残していると。

 愛しい人を、疑ってその通り裏切られるくらいならば、自分の心に従い信じて裏切られる方が、遙かに傷つかない。そう決意してシズナが小さく頷くと、彼はこちらの手をしっかりと握って歩き出した。

「よっ、お二人さん、お熱いね!」

「この後も楽しめよ!」

 何も知らない周りの人々がはやし立てる中、手を引かれるままに、心惹かれるままに、シズナは彼と共に踊りの輪を抜け出し、新たな曲が流れ始めた広場を離れて、煌めく星々を望む郊外の丘へと向かった。

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