第7章:きっと誰もが嘘を吐(つ)く(3)

「エルヴェ!」

 ミサクの叫びで、エルヴェが助けに入ってくれたのだと理解した時には、その逞しい身体が揺らぎ、床に崩れ落ちて、じんわりと血の海を広げてゆく。その先に、血濡れの短剣を握って立つ人物をみとめた時、シズナの驚愕は今日最大のものへと膨れ上がった。

 アティア、だった。返り血を頬に浴びた顔は、いつもシズナに親切に接してくれた明るさなど微塵も無い。ただ、冷たい無表情の仮面をかぶっている。いや、今までのあの屈託無い笑顔が仮面だったのか。シズナの背中をぞっと恐怖が這い上がってくる。

 アティアは、ミサクが腰の銃に手をやるのに気づくと、即座に踵を返して小屋の扉を開け放ち、外へと飛び出した。

「アティア、待って!」

 シズナは椅子を蹴って立ち上がり、その後を追う。背後でミサクが「コキトはエルヴェを!」と指示を下して、ついてくる気配を感じながら、彼女は夕暮れ迫る山奥の道を駆けた。

 アティアには、ほどなくして追いついた。断崖絶壁と夕陽を背にする彼女は、たった今人を刺したなどとは思えない、慈母のようにさえ見えた。その手に血に汚れた短剣を握っていなければ。

「どうして……」

「ごめんなさい、シズナ様」

 ミサクが背後にやってくる気配を感じながらも、呆然と洩らすと、アティアはふっと口元をゆるめた。少し、諦め気味に。

「貴女に魔王城へ行ってもらっては困るんです。ずっと、ずっと魔族に言われていたんです。貴女が決定的に魔王のもとへ近づいた時には、消すようにと。でないと」

 その顔が、くしゃりと歪み、泣きそうになりながらアティアは呟く。

「ナディヤが、わたしの妹が」

 そこまで言った所で、アティアの顔から一切の感情が消えた。半眼で魔律晶を眼前に掲げると、低い唸りと共に炎が鞭のようにしなってシズナとミサクに襲いかかってきた。二人は咄嗟に左右に散開する事で、それを避ける。

 補助と回復しか使えないなど、嘘だったのだ。アティアは攻撃魔法も修得していた。いつからか、どこまで嘘をいていたのか。大気の温度以外にうすら寒さを感じながら、シズナは聖剣『フォルティス』を抜いた。夕陽を受けて、透明な刃が赤く染まる。

 アティアは氷の矢に雷撃といった攻撃魔法を次々繰り出してくる。どこまで実力を隠していたのかわからない上に、魔法士として王国最優秀とも言えるコキトにも気取られないように攻撃の魔律晶を隠し持っていたのだ。底が知れない。

 ミサクが照準を合わせて、正確に急所を狙って銃を撃つ。しかしアティアはそれも織り込み済みで、『障壁律』を発動させると、目に見えない壁で銃弾を受け止め、ばらばらと地に落とした。

 ミサクの援護は通用しない。ならば直接攻撃を叩き込むしか無い。

「この……」

 嘘だったのか、全て。あの笑顔も、心配顔も、親愛も、全て。

「裏切り者!!」

 シズナの激昂に呼応して、『フォルティス』が輝きを帯びた。セレスタ村で魔物を討った時と同じ、彼女の怒りを反映したような赤に。

 それを見たアティアは、一瞬怯んだ表情を浮かべたが、すぐにそれを打ち消すと、青黒い魔律晶を取り出した。途端、空気を貫くような鋭い音を従えて、魔律晶と同じ色の光が蛇のように素早く地を這い、シズナの足に絡みついたかと思うと、ずしりと何かにのしかかられたかのごとく身体が重くなった。『呪縛律』だ、と気づいた時には、アティアが短剣を振りかざして、シズナの首筋目がけて飛び込んでくるところだった。

 だが、凶刃がシズナの喉を切り裂く事は無かった。咄嗟にミサクが放った一撃が、防御を捨てたアティアの頬をかすめ、彼女が舌打ちしてそちらに気を取られた隙に、シズナは軋む身体を叱咤して『フォルティス』を突き出す。


 赤い刃は、吸い込まれるようにアティアの胸を貫いた。


 一滴、二滴と、赤い雫が零れ落ちる。裏切り者は喀血の声と共に赤いものを吐き出し、信じられないといった様子で、己の胸に突き立てられた聖剣を見下ろしていたが、やがて、よろめきながらも後退して、自ら刃を引き抜いた。その服が、あっという間に血に染まってゆく。

「……それで」

 味方だと思っていた相手を刺した。その事実に身体が震え始めるシズナの耳に、アティアの声が届く。それはいつも自分を労り慈しんでくれた、姉のようにさえ思っていた侍女のものだった。

「それでいいんですよ、シズナ様。貴女は、それで」

 更なる血を吐きながら、彼女は、一歩、二歩と後退する。

 その先には死しか待っていない、崖へ向けて。

「シズナ様。わたしは、どこまでもまっすぐな貴女が大好きで」

 アティアは柔らかく笑んだ後。

「どこまでも無知な貴女が、大嫌いでした」

 嘲るように口元を歪めて、地を蹴り、何も無い空中へ身を投げ出した。

 永遠とも思える刹那に、駆け寄って手を取る暇は無かった。アティアの身体はしばらく滞空したが、一瞬後、血の尾を残しながら落下して視界から消えた。

 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。

 その言葉が脳内をひたすらに駆け巡る。

 初めて会った時の、孤独な中に灯った親しみの光。ヘルトムート王に見捨てられた自分を心から案じてくれた困り顔。子を奪われた時の、申し訳無さに満ちた落ち込みぶり。旅に出てからも何くれと面倒を見て、場を盛り上げようとしてくれた明るさ。

 あの明朗な顔の下に、あんな憎悪を隠していたのか。気づいてやれなかった後悔が、怒涛のように胸に訪れる。

「……シズナ」

 目の端に浮かぶものを必死にこらえていた所に静かに声をかけたのは、ミサクだった。神妙な顔でこちらの腕を引く。

「貴女の気持ちもわかるが、今はすぐにでも戻ろう。エルヴェから、話を聞ききらなければ」

 感傷に浸る暇も与えてくれないのかと苛立ちが募りかけたが、しかし、エルヴェはシズナをかばってアティアに刺された。相当量の血も流れていたから、命に関わるかも知れない。一刻も早く戻り、聞ける事は聞かなくてはならない。

 もう、『フォルティス』は怒りの色を消し、透明に戻っている。それを鞘に収めると、シズナはミサクと共に、エルヴェの小屋への道をひた走った。


 小屋に戻ったシズナの五感に入ってきたのは、ことこと煮えるスープの音と、野菜の香り。それを打ち消すほどの血のにおいと、横たわるエルヴェとその傍らに膝をつくコキトの姿であった。

「エルヴェは」

 ミサクが珍しく焦った様子で訊ねると、コキトは色眼鏡の下の目を細めた様子で、ゆるゆると首を横に振った。

「あのお嬢さん、相当の手練れだったのを隠してたね。見事に急所を突いて、私の『回復律』でもおっつかない」

 コキトの『回復律』が効果を及ぼさないという事は、シズナが同じ魔法を使っても無駄だという事だろう。シズナが元勇者の傍らに屈み込むと、ごつごつした大きな手が、こちらの頬に触れた。

「……シズナ」

 死が迫っているなどとは思わせない、しみじみと感慨深げな様子で、エルヴェはシズナの頬を撫でながら呟く。

「良い女に、育ったなあ。イーリエの、若い頃に、そっくり、だ」

 途切れ途切れに、しっかりと、言葉は耳に届く。しかし。

「瞳の、色は、俺に似たのが、嬉しいな」

 その台詞に、シズナの頭は思考を一瞬放棄した。

 今、エルヴェは何と言ったのか。自分に似たと、言ったのか。それはもしかして、つまり。

「シズナ」

 混乱するシズナに向けて、エルヴェは、果てしなく優しい笑みを向けた。

「父親らしい事、何も、出来なくて、悪かった、な。せめて、幸せ、に……」

 その瞳から光が失われる。手が力を失って床に落ちる。コキトが脈を測って首を振り、ミサクが顔を伏せる。

 死にゆく人間の言葉だ、嘘だとは思えない。だが、だとしたら、この人は。自分が父と呼んでいたエルシは。

 混乱は脳の許容量を超えて、感情に影響を及ぼす。ぼろりと大きな一粒が零れ落ちれば、涙は止まらなかった。

 口からは、ああ、ああ、と、言葉にならない声しか出ない。一時に訪れた幾つもの喪失に、頭は現実を受け止める事を拒絶する。

 その時、そっとシズナの肩を後ろから抱く感覚があった。肩にもたれかかる銀髪が視界の端に映った事で、誰であるかを悟る。その腕も、細かく震えているのを感じ取った時、シズナの心の堰は遂に決壊した。

 大声をあげて。シズナは泣く。

 イリオスは自滅した。アティアは裏切りの果てに討たれた。父と思っていた人は父ではなく、今日初めて出会った他人が父と名乗ったそばから死んだ。

 誰もが嘘を吐き、誰もが本音を言って、去っていった。

 もう、誰を、何を信じれば良いのかわからなくなって、シズナは幼い子供のように声をあげて泣き続ける。


 外の空気は冷たさを増す。

 やがて、灰色の空から、白いものが舞い降り始める。

 この山に降る、初雪であった。

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