第5話 平日の大空くん 上

「たっだいまぁ」

 小学校高学年の頃の記憶、私の二歳年下の弟が遅くに帰ってきたことがある。そう、その頃の私は最近出会った少女ぐらいの背丈だった。陽は落ちきった後だったけれど、親はそこまで厳しくなかったので弟が説教を受けることはなかった。

 しかし私は、弟の“帰宅を意味する言葉”に少なからずショックを受けていた。どこか、ぴきっ・・・ときたのだ。

 弟の「たっだいまぁ」は、純白に幸せそうだった。なんにも悩みのない、純粋でありのままの美しい発音だった。その発音に、嫉妬してしまったのだった。そこまで幸せそうに過ごすことができなかった私は、幸せそうな弟と妬んで、拒否した。小学校高学年にもなった私は、それを受け入れるだけの寛容さを持っておらず、そしてどこまでも子供だった。

 それから、弟とは少しずつ距離をとるようになってしまった。

 何もかも私の中の話だったけれど、そのせいで私は弟との関係を変えてしまったのだった。


 そんなことを思い出していた、ある平日の話だ。




 私はいつもの空が見渡せる場所で、地べたに胡座をかいて座っていた。冷えた草々が、ひんやり少し濡れているようで気持ち良かった。平日の午前中、ちょうど良い気温。周りには人の気配さえもない。たまに、よく聴く鳥のさえずりが周りを明るく飾っていた。

 平日の午前中、なぜ私がこんなところにいるのか。そんなことは少しくらい察してほしい。もしかしたら学校の創立記念日かもしれないし、今の私は熱を出しているのかもしれないし、そもそも私は学校なんかには行っていなかったのかもしれない。けれどそんなことは別に良いのだ。私が今、ここにいる。それだけ。

 あのワンピースの少女に出会ってから、この場合に来ると彼女が脳裏に浮かぶ。まだ二度しか話していないのに。それほどまでにあの少女は強烈で熱心で孤高の美談の主だった。

 けれど、今日は彼女がいるはずもない。

 そう思うとどこか、いつもの弾みがないような胸に思えてくる。

 ──たまには。と、私は思う。ときにはなにも考えずに独りきりになるのも良いと思う。リラックスは大切だ。

「ひゅあーあ」

 大きな口を開けてあくびをする。ほら、私は今独りきりだから、こんなにも豪快にあくびができるのだ。実に気持ちがいい。

 あくびによって、そんな私に睡魔が忍び寄ってきた。陽もあたる場所だったのが、それに拍車をかけた。木陰とかの方が良かったかもしれない。

 せっかくの独り休日、眠ってしまうのは少しもったいない気もしたけれど、欲のままに委ねるのも魅力的だった。

 空に向けていた上半身を、草の匂いに包まれた地面に投げ出す。

 私は、眠ることにした。

 寝るのだ。

 寝不足とは違う、心地よい睡魔のままに──

「──こんにちは。昼寝、ですか」

 あ。

 おい。

 いまいいとこだったのに。

 …………。

 その声は、どこかで聴いた。やや高いソプラノ。ガラスが響くような声。

「こんな平日に、昼寝ですか。もったいないですよ」

 いつもの少女が現れていた。

 その顔は、地面に寝転がった私に向いている。幸せそうな表情だった。

「せっかくの平日ですよ」

 少女は淡い若葉色のワンピースをゆらゆら揺らして、私に諭すように繰り返す。本当に、前に会ったときと同じ雰囲気だった。

 私は出す言葉がない。

「さあ、私が来ましたよ。来たんですよ。だから起き上がって下さい」

 そういう少女はまるで、休日の早朝から眠っている親を起こす幼児のようだった。今日は平日だけれど、起こされる親の気持ちが少しわかったような気がした。

 命ぜられるまま、私はせっかく転んだ上半身を起こした。あんまり気分の良いものではない。

「ありがとうございます」

 そう礼を言う少女が美しかったので、別にいいや。頭を下げたせいで、髪が少し乱れた。しかし本人はなんら気にしていないようで、幸せそうな表情を崩さなかった。

「ほら、黙ってないでなんとか言って下さい。私がひとりでおままごとをしているように見えちゃうじゃないですか」

 私が言葉をなくしているのが、どうやら少女にとって都合が悪いようだ。まあこの少女は、たしかに人と話すことを生きがい・・・・にしているように見えるので、理解はできる。

「…………今日は、平日でしょう?」

 私はゆっくりと少女に問いかける。少女はそんな私に満足したように、大笑顔で答える。

「はいっ!」

 まあ美しい。まあ元気が良い。

 そんなおばちゃんのような言葉が口をつついて出てきそうだった。これで、「学校をサボってここにいる」んだとしたら、先生でさえも言葉をなくしてしまうのではないだろうか。それほどまでにすごく幸せそうな破顔だった。

「…………、なんでいるの?」

 今の私は、語彙力の欠片かけらもない。修飾語なんて付ける暇がないほど、とりあえず驚いていた。

「ええと、そんなことより!……今日の空を見て下さい!」

 少女は両手を大空に広げてみせた。うん、ただの空がその奥には広がっている。

「うん。大空くんも、君がなんで学校にいないのか疑問に思っているようだね」

「そんなっ!大空くん、そんなこと気にしなくてもいいんだよ?」

 少女は悲痛な叫び声をあげる。

「ねえ、大空くん。なんでこの子、学校にも行かずにこんなとこにいるんだろうね」

「大空くん!今日は学校休みなんだよ?」

「朝、小学生達が登校してたよね」

「そんなっ!」

 少女は悲痛そうに顔をゆがませる。もちろんその顔も半分おふざけだ。

「お、お、大空くん!逆だよ逆!発想の転換パラダイムシフトコペルニクス的転換!…………わたし、レアで固定観念にとらわれないスーパー少女なんだよっ?!」

 どこからそんな言い回しを学んだのだろうか。意味が分からないどころか強行突破も甚だしい。最近の小学生は十分警戒することが必要なようだ。

「「…………」」

 なんとなく虚無感が感じられる沈黙が訪れる。すべて少女のせいだ。

 そしてその沈黙を一瞬にして破ったのも、もちろんのこと案の定少女本人だった。

「じゃあ訊きますけど。なんであなたもこんなところにいるんですかっ?この平日にっ」

 ふん、と鼻息を荒らげて少女は聞いてくる。

「ねえ大空くん!」

「もうそれは飽きました」

 私のボケを見事に一蹴する。

 どこかズルい顔をしていた。

 後攻のほうが、不利なのか?

 まあ、パクる私が悪いのか。

 そんなことが一瞬にして脳裏に浮かび、刹那、去っていった。

「……ま、察し合う、ってことで……」

 なぜか私が下手にまわっている。

 そんな私の提案に、少女は再び元気さを取り戻して答える。

「そうですね。……じゃあ訳あり二人組ってことで、なにか喋りましょうよ」

 私は笑って答える。

「もちろん、そのつもりだよ」

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