第46話 やさしいおじさん
入ると、左から女湯ののれん、フロント、男湯ののれんが正面に並んでいた。横を見ると、牛乳などの自販機や休憩するベンチが用意されている。
俺は『お風呂の友』と書かれた商品棚を見つけた。バスタオル、石鹸、シャンプーなどが個別に売られている棚だ。別々に買わないといけないのか、と少々めんどくさかったが、端に『風呂セット』という袋を見つけた。ハンドタオル、バスタオル、石鹸、シャンプー、リンス。全てが入って千二百円。この値段が高いのか安いのかイマイチ分からないが、とりあえずこれを買うことにした。
フロントに『風呂セット』の袋を出して代金を支払い、その後すぐに入浴料金を支払った。全部で、千六百円程だった。
俺は男湯ののれんをくぐる。靴を下駄箱に入れ、脱衣所で服を脱いでいく。
そういえば、今着てる服も洗わないとダメだな、と思った。身を清めたあと、またこの汚い服に身体を通すのは抵抗がある。そもそも俺は、今着ているTシャツとジーパンの一着しか服を持ってないじゃないか。コインランドリー探しの前に、服屋に寄らないといけない。それはまた明日にでもしよう。とりあえず、今は風呂だ。
かけ湯を終えて、薄緑の湯が張った浴槽に浸かった。腰が崩れ、目がゆったりと閉じていく。周りを包む湯気が、妖精となり、俺を癒していくようだ。
来て良かった。そう思った。
「よお、あんちゃん」
瞬時に、朦朧としていた意識が元に戻る。左横から急に、他のお客さんが話しかけてきた。しゃがれた声の、見た目は四十代のような、髪が薄い中年太りのおじさん。顔の輪郭が丸いせいか、可愛らしいクマのような顔をしている。恐い印象はなかった。
「な、何ですか?」
「あんちゃん、見ない顔だね」
「ああ、今日、初めて来たんですよ」
「へえ」
「よく、来られるんですか?」
「おうよ、俺は毎日この銭湯に来てる。他の客も見慣れたモンよ」
いわゆる、常連か。
「あんちゃん、ここらへんの人かい?」
「そうですね、近くのアパートに住んでます」
あまり詳しく言いたくなかったが、仕方ない。これは単なる世間話だ。
「アパート……? この近くのアパートって言やあ……」
おじさんは腕を組み、天井を見上げる。自分の記憶を辿っているようだった。
いいなぁ。俺にもそんな、頼れる記憶が欲しい。
数秒後、「ふーん」と、おじさんは何かに納得した。
「俺も近所住みなのよ。よろしくな、あんちゃん」
その日、おじさんと仲良くなった。
自販機でコーヒー牛乳を買い、店の外に出る。タイミングを見計らったかのように、木枯らしが吹いた。
寒い。
おじさんも、俺の後に続いて店から出てきた。
「よーお、ゲン、待ったか」
おじさんの言う『ゲン』という人物をキョロキョロと探してみるが、何処にも見当たらない。
おじさんの方を見て、あ、柴犬のことか、とようやく気付く。
おじさんはしゃがんで、わしゃわしゃと柴犬の顔の周りを撫でていた。チロ、チロとゲンが震えながら舌を出す。目がうっとりとしていて、とても幸せそうだ。
「散歩、してたんですか?」
こんな夜中に、犬を連れるのは珍しいと思った。
「そうなんだよ。こいつ、三度の飯より散歩でな。朝昼晩、三回散歩するんだよ。困ったもんだよなぁ」
おじさんの顔は、全然困っているように見えない。ニコニコ、デレデレしながら愛犬のことを喋った。
「そういえばあんちゃん、名前聞いてなかったな」
赤いリードを手に絡ませながら、おじさんは聞いてきた。
「ジョー、って言います」
「ジョー……! カッコイイねぇ」
複雑な気分だ。俺はまだ誇りを持てるほど、この名前と共に人生を生きていない。褒められたのに、嬉しいという感情は生まれなかった。
「俺はジン。ジンって呼んでくれ。またどこかで会おうな、ジョー!」
「はい……おやすみなさい」
大きく手を振るおじさんを、こっちも手を振り返して見送った。それから、まだ残っていたコーヒー牛乳を飲み干し、店の入口前のゴミ箱に捨てた。
そして、暗く静かな夜の帰路を進んだ。
午後十一時。部屋に戻っても、愛奈さんはいなかった。
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