12 禁忌に触れているような背徳感

 樹木の合間から落ちる射光で水面がきらめいている。

 箱庭の池は円形で、コンクリートに囲われたステージ型の作りだ。遠目には公園の小さな噴水のようだが、装飾は一切なく、中央で水を噴き上げる装置もない。


 その何の変哲もない池の縁に立つ人影。


 女子なのは間違いない。リボンの色は緑だから僕と同じ二年生。スカートからすらりと伸びる黒タイツには艶やかな肌色が混じっている。

 棒立ちの理由は不明だが、四つ葉のクローバー探しに比べれば、取り立てて奇妙な行動とは思えない。


 問題は上半身だ。

 僕は木の陰から得られる視覚情報に誤りがあるのか確認するため、小声でピヨに質問を投げかける。


「あれ、何に見える?」


「…………わに、ぴよね」


 返答までの間で困惑が計れる。ピヨもまた、目の前の光景を疑っているようだ。


 四本足の爬虫類。光沢のある黒い皮膚は磨かれた鎧を想像させる。険しい岩のように強堅な背中には、おろし金のような突起が尻尾の先まで並ぶ。長い鼻先から目元まで大きく裂けた口と、そこから生える歪で鋭い牙が獣の獰猛さを誇示している。


 実物を直に見るのは初めてだけど、まごうことなきワニだ。もちろん学校で飼育なんてしていない。

 大きな顔のせいで女子の表情は隠れている。分かるのは黒髪ってことくらいだ。


 非日常的な存在もそうだが、僕とピヨの思考を停止させる理由はもう一つある。


「なんであの子は鰐をおんぶしているぴよ……?」


 代弁した通り、女子は鰐を背負っていた。背中に張り付いているのかもしれないが、赤子のように短い手を肩に回して体重を預けている姿はおんぶに見える。


「重くないのか?」


「実はウェイトリフティング女子高生部門のチャンピオンだったりしないぴよ?」


「そんな有名人はこの学校にいない」


 鰐の全長は女子と同じくらいだろうか。成人男性かそれ以上の体重はあるだろう。なのにあの子は膝も腰を曲げることなく直立している。


「懐いているみたいだけれど、ペットなのかな?」


「たしか鰐の飼育には各都道府県知事への申請が必要だから、許可された敷地の外にお散歩させるだけも結構大変だと思うぴよ」


「よく知ってるな……そりゃ連れてくるわけないか」


 そんなことをすれば学校中が大騒ぎだ。我ながら馬鹿な質問だった。

 リスクと手間をかけてまで箱庭の池に来る理由は考えられない。ピヨみたいに認識されないのなら簡単だろうが。


 もっと観察したいところだけれど、爬虫類特有の縦にスリットが走る瞳孔が、周囲を索敵しているようで注視しにくい。視線を感知されそうだ。どうしたものか。


「……あのさ、そもそもあんな奴のいる池の周りを探す必要がないよな」


 思考の中心に鰐を据えていたため気がつかなかった。目的は四つ葉のクローバーを探すことで、鰐の警戒をかいくぐるステルスアクションではない。


「自分から絡みに行くのも面倒だし、戻って飼育小屋の周りを探そう」


「まっ……待つぴよ待つぴよ!」


 僕は池に背中を向けると、頭の上から慌てふためく声がする。


「鰐をおんぶした女の子を放っておくなんて薄情ぴよ」


「狂った物差しで人情を測るな。第一、助けて欲しいようには見えないぞ」


 地面すれすれのところまでだらりさがる尻尾は、時折思い出したかのようにゆっくりと左右に振れている。攻撃性は皆無だ。


「経緯は不明だけど、互いに憩いのひと時を過ごしているのかもしれない。だったら割って入るのは野暮ってもんだ」


「状況を自分の都合のいい様に解釈するのも狂った物差しぴよ。声なき者の声を聞くことが正しい理解の第一歩、そして世界平和の第一歩ぴよ」


「事情を知らない第三者の干渉なんて単なる余計なお世話だろ。僕に責務はない」


 世界平和より自分の平和だ。つまり、戻って四つ葉のクローバーを探すことが優先される。


「他人の事情なんて知ったことか。厄介ごとには関わらないのが賢く正しい生き方だ」


「目の前に事情を抱えた人がいれば手を差し伸べるのが人間ぴよ! 放っておくなんて人でなしになってはいけないぴよ!」


 ピヨが今までにない感情的な口調で攻め立ててくる。


「すべての人を救えなんて言ってないぴよ。せめて自分の周りの人だけでも救うぴよ。それだけで世界は平和になるんだぴよ!」


「今の世の中、へたに他人に関わるほうが怖いんだぞ。ちょっとした善意が我が身の危険をにつながることだって……」


 ざぱーん。


 水しぶきの音で会話が中断される。

 振り返ると女子は消えていた。地面はしぶきで濡れ、一歩引いた場所から鰐が不機嫌そうに池を眺めていた。揺れる水面にはブレザーとスカートが浮いている。


「……え?」

「……ぴ?」


 またも理解を超える光景。足を滑らせて落ちたのか? なぜ顔を上げない? あのままじゃ息が出来なくて——。


「助けるぴよ!」


 弾けるようにピヨが叫ぶ。


「えっ? いや、え? でも」


「いいから走るぴよ!」


 先ほど以上の剣幕で怒鳴るピヨにせっつかされ、僕は池に駆け寄った。

 鰐の反対側から池の中をのぞく。澄んだ水の中で、長い黒髪が増えるわかめのように広がっている。


「中に入って引っ張り出すぴよ」


「このまま入るの?」


「当たり前でしょ早くしろぴ!」


 語尾を省略するほどまくし立てられ、僕は外履きで池の中に入る。水没した靴下が足先に張りつく不快感を覚えながら、ぷかぷかと浮かぶ女子の腕を掴む。肩を貸すような形で半身を起こし、池から引き揚げ、地面に仰向けに寝かせた。水を吸った長い髪が顔にまとわりついたままだが、とにかく呼びかける。


「大丈夫か、返事してくれ」


 反応がない。


「呼吸の確認をするぴよ」


 言われるがまま、長い黒髪に覆われた唇に耳を寄せる。


「どうぴよ?」


「………………していない」


 呼吸の音が聞こえない。応答のない時間に比例して、事態の重大さを受容する。


「返事しろよおいっ! 動けって! 死ぬとか、そんなこと……」


 あるわけがない。


 頭の中がぐらぐらして視界が回る。どこの誰かも知らない人間の死に、自分がこれだけ動揺することに驚く。呼吸が乱れる。脳が真っ二つに裂かれるように痛む。なんだ、この感覚。


「まだ死んでない、しっかりするぴよユート!」


「い……痛て……耳が痛い痛いから!」


 直に響くような声と、片耳を引っ張られる感覚で意識が戻った。入れ替わるように頭痛は引っ込む。


「まだやれることがあるぴよ。ユート次第でこの子は助かるかもしれないぴよ」


「そんなこと言われても」


 僕にできることなんて思いつかない。


「誰か……先生、そうだ先生呼んでこなきゃ」


「時間がないぴよ。呼吸がない場合、蘇生の可能性が見込めるのは停止から六分間と言われているぴよ」


 六分って……水しぶきの音を聞いてから今まで何分経過した? 二分? 三分? 五分は経っていない気がするが、根拠なんてない。


「その間にやるべきことをやるぴよ」


「何ができるんだ」


「人工呼吸ぴよ」


 それって……倒れている人の口に直接息を吹き込んで呼吸を回復させる救助方法だよな。ドラマとか漫画でしか見たことないけれど。


 あれを今ここでやれって? 僕が? この子に?


 非現実的な要求に脳内処理の許容量がパンクする。頭は焼き切れるほど熱く、心臓だってバクバクしっぱなしだ。

 呼吸を確認した女子の唇が色濃く映る。口の端から流れ落ちる水の一筋が、僕の鼓動をさらに早める。


 馬鹿か。なにを意識しているんだ僕は。

 鼻から大きく息を吐く。冷静になれ。


「やり方なんて分からないぞ」


「ピヨが教えるぴよ。まずおでこを押さえながらあごを持ち上げて……ほら早くしろぴよ!」


「やる、やるからイタタっ」


 躊躇する僕の耳を再び釣り上げる。馬の手綱じゃないんだから、その命令の仕方はやめてくれ。


 言われた通りにするため、顔に張り付いた髪の毛を、カーテンを開けるように左右に払う。

 一本通った鼻筋。弾力のありそうな桜色の唇。近くで見ると整った顔立ちだ。長いまつげを雫が飾る。目をつぶり動かない様相は眠り姫を彷彿とさせた。


「次は胸骨圧迫、マッサージをするぴよ。肺の位置を確認しにくいからブレザーのボタンを外すぴよ」


 はだけさせると、水を含んだシャツが肌に張りついていた。密着した生地が下着の輪郭を浮き上がらせる。


「シャツのボタンも外すぴよ」


「ええっ……⁉」


「脱がせなんて言ってないぴよ、胸部が露出すればいいから三つ四つ外せばいいぴよ」


 いくら緊急とはいえ許されるのか? 通りがかりの男子が意識のない女子の衣服を脱がす……事案だ。もしも誰かがこの現場を見て学校側に報告したら、警察沙汰になって退学決定、慰謝料とか発生したり少年院に入れられたりするのか⁉ そんなの——。


「いいから恥ずかしがっていないでは・や・く・や・る・ぴ・よっ!」


 耳を引っ張らない代わりに一文字ごとにこめかみを叩かれる。


「分かったやるから!」


 震える指先で首元から一か所ずつボタンを外す。細い首、なだらかに隆起する鎖骨が順に現れる。白い肌は磨かれた大理石のように曇りがない。

 直視してはいけないと心で繰り返して、作業に集中する。


 はだけた胸元の隙間から、青地の花柄が露わになったところで、ようやくストップがかかる。

 なんというか……いやらしい。全裸よりいやらしい。


 ヤバい。これはヤバい。なんかもう……ヤバいしか出てこない。

 語彙力が引っ込み、代わりに分泌されまくりの生唾を飲み下す。


「胸の真ん中あたりに手の付け根を置いて、もう片方の手を重ねるぴよ。指を交互に組んだら肘を伸ばしたまま圧迫を始めるぴよ」


 平静でいられない僕に冷静な説明が続けられるが、全然頭に入ってこない。


「時間がないからすぐに手を置くぴよ!」


「はっはい!」


 命令されるがままに右の手を胸の真ん中——ブラジャーの左右をつないでいる部分から少し上に置く。

 禁忌に触れているような背徳感。酸素を吸って思考を落ち着かせるが、腕の震えが止まらない。


「あとは五センチほどの圧迫を繰り返すぴよ。一分間に百から百二十回が目安だけれど、回数や時間は気にせず早いリズムを意識する方が上手に圧迫できるぴよ」


「お前、詳しすぎないか?」


「心肺蘇生法の手順なんて知ってて当然ぴよ」


 つくづく何なんだこのひよこは。鰐の飼い方にも詳しいし。


「始めるぴよ」


 震える手に鎮まれと願いながら大きく息を吸った。

 両腕に力を入れたその瞬間。


「くすぐったいから手を放してくれない」


 どこにもなかった声が静かに響いた。


「な……っぅおあっ⁉」


 腕に体重をかける直前に声が聞こえたと思ったら女子の胸骨が膨らみ、逆に僕の手を押し上げる。僕は驚きのあまり、オーバーリアクションでしりもちをつく。


「ねえ」


 心臓の止まっていた女子が口を開いた。


「私、もう死んだ?」


「……は?」


 指の一本も動かさず、目を閉じたまま問いかけてくる。


「ここは天国? それとも地獄? もしくはそれらの区域に類する場所?」


「ええと……どれでもなくて、地上で蘇ったというか」


「そう」


 女子が瞼を開いた。陽光を受けた目は鬼灯ほおずき色のビー玉のように煌めく。


「残念。死んでいないのね」


 何事もなかったかのように立ち上がると、池を見つめる。腰まで流れる黒髪の先から滴る雫が、ぽたりと地面を穿つ。


「息はしていなかったのに、どうし……」


「質問はしないで」


 未だに立ち上がれない僕を、関節の細い五本の指が制する。見下すその目には生気を感じない。

 ん? いま一瞬、視線が……。


「息は止めていただけ。心臓は動いていたでしょう」


「えっ」


 慌てていたし、自分の手も震えていたので分からない。


「胸の谷間で小刻みに振動する手が我慢できなかったの」


 言いながら僕が外したボタンを一つずつ止め直していく。


「楽になれたと期待したのに……駄目ね」


 憂いを帯びた声は木々のざわめきにかき消された。


「なんで死の」


「だから質問しないでと言ったでしょう。日本語が理解できないの?」


 再び言葉を断ち切られるが癇に障る言い方を容認できず、怒りで噛みつく。


「そ、そんな言い方ないだろ」


「伝えておくから」


 それでも強引に要求を突きつけてくる彼女の言葉は明確で強く、鋭く冷たい。


「今度私が死ぬときは邪魔をしないで」


 口元に微かな自嘲。深く沈んだ鬼灯色の瞳は、落ち行く夕焼けのような寂寥せきりょうを駆り立てる。その先に光はない。僕の心を切なさが侵食していく。これ以上、瞳の夜に吸い込まれると、悲しさで心臓が潰されてしまいそうだ。

 たまらず目を逸らす。感情の読み取れない彼女に、僕は何と答えるべきなのか。


 言葉を探しているうちにチャイムが聞こえてきた。昼休みの終わりだ。


「じゃあ」


 置くように挨拶を残して、彼女は校舎へと歩き始めた。浸水したローファーが歩くたびにぐゅりと悲鳴を上げる。背中は語り掛けることなかれと、無言の圧力を放つ。

 そういえばワニはどこへ行ったんだ……いや、それよりも何か言わなきゃ。


「待つぴよ!」


 箱庭にピヨの叫び声がこだまする。


「どんな事情でも自分で命を絶つなんて駄目ぴよ!」


 今まで見せたことのない憤り。本気で怒っている。


「それでも死にたいって思うならまた邪魔するぴよ、何度でも何度でも邪魔してやるぴよ……絶対に死なせないぴよっ!」


「いくら怒鳴っても聞こえないって」


 お前は僕以外の人間に認識できないんだ。それに邪魔するのは僕なんだろ……と言いたいが、今のピヨに茶化すような差し込みは出来ない。


「絶対に、見捨てないぴよ……」


 怒りは急速にしぼみ、か細いつぶやきに変わる。ピヨの怒りが前に出たおかげで、僕の感情はニュートラルに戻りつつあった。


「急にどうしたんだ? あの女子に何かあるのか?」


「……別に何もないぴよ。午後の授業が始まるからさっさと戻るぴよ」


 何かあるような口ぶりだけど、聞き直したところで答えてはもらえなさそうだ。

 戻ろう。校舎へと続く女子の靴跡をたどる。


 一歩を踏み出すと、外履きが吸い込んだ水をぐぎゅうと吐き出す。

 ぐえぇ忘れてた……。

 すねから下にまとわりつく、陰惨な感触を踏みしめながら、僕は箱庭の森を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る