5話 希望〈サイド:シンディ〉



(一体、どんな料理が運ばれてくるのか……)


 噂を聞きつけた頃から健康食堂に通うようになったが、シンディは橙也の料理がいつも楽しみだった。


 グランドメニューはもちろんあるが、今のようなイレギュラーな時でも彼は嫌な顔をせず対応してくれる。

 見た目は若々しいが年は三十を超えているらしい。

 そのため、年の近い兄のような感じだ。

 少し、実妹である桃香が羨ましい。


 ホットミルクの気遣いもありがたいものだったし、本当によくできた料理人だと思う。


「お待たせ。持ってきたよ、シンディ」


 そんなことを考えていると、シンディのところへ橙也がやって来た。


「いや、待っていないよ。それに、先にくれたホットミルクのおかげで少し痛みはおさまっているし。……それでどんな料理を持ってきてくれたんだ?」

「これだよ」


 そう言って目の前に置かれたのは、土鍋と取り皿、そして小鉢だ。


「ほう、また珍しい」


 この街では土鍋をそのままテーブルの上に出すような料理はないのだ。彼の故郷でもあるニホンという国の料理なのかもしれない。


 橙也はニホンの料理――和食(ワショク)と呼ぶものを出すことが多かった。


 聞き慣れない国の料理であるため、最初は挑戦という気持ちが強かったが彼の人の良さと香りや見た目から食することに。


 それからというもの、シンディは和食を愛するようになった。米を炊いたご飯もこの街の主食とは違うが大好物である。


「では、どうぞ……」


 橙也が熱さ対策のために布を敷き、土鍋を置く。

 ふたを取り上げると、ほのかな湯気とともにいい香りが広がった。



(こ、これは……!)



 鶏がらベースの香りがシンディの鼻に届く。

 深く吸い込みたくなるほどダシの効いた香りで、これだけで腹を満たせそうだった。


 そして、中央に見えるのは、鮮やかな卵の黄色だ。上にネギが乗っていて、見た目も十分に美しい。


 シンプルな色合いの雑炊の横で、緑の小鉢も映えている。


「胃に優しい卵雑炊と、モロヘイヤのおひたしのだよ」


 おひたし自体は見慣れたものだったが、普段はひんやりと冷たい小鉢が、今日は温められていた。


「おひたしが温かいみたいだがなぜ?」

「冷たいと胃に刺激を与えてしまうから。熱すぎず、冷たすぎず、食べやすい温度に調整したつもりなんだ」


 本来冷たくして出すものを温めるのはなかなか難しいところだろう。


 一般的に、色味がいいほうが美味しそうに見えるため、温めて行ってしまう変色を嫌うはずだ。


(それでも私のために温めてくれたというのだな。ありがたいことだ……)


 シンディ自身もそうだが、大半の人間はそこまで大層な舌をしているわけではない。


 おいしいかおいしくないか程度はもちろん分かるが、評価の大半は舌以外の知識やイメージに左右される。


 そんな中で見栄えはかなり重要な要素だ。個室でない以上、他の客が目にしないとも限らない。


 また、単純に手間でもあるだろう。それでも自分のために、わざわざ温めてくれたのだ。


 そんなことを考えながら、シンディは土鍋に向かい合い、取り皿へと移す。


 そしてまずはスプーンで一口。


 スープとご飯、卵がさらさらと流れ、口の中に広がる。


「おいしい……」


 熱すぎない、温かなご飯は口の中で柔らかくほどけた。


 鶏がらの旨味が口の中に染み渡っていく。


 味付け自体は決して濃くないものの、ご飯一粒一粒にスープが含まれているため薄すぎるとは感じない。


 シンプルではあるが、時間をかけて作られた鶏がらスープはそれだけで十分な旨味を含んで奥行きを感じさせる。


 柔らかめの卵も口の中でほろりととける。


 すっと胃の中に雑炊が落ちていくと、ほっこりとした温かさを感じられた。


 小鉢に入ったモロヘイヤのおひたしも、適度な温かさがあって優しさを感じる。

 調味液が控えめで一見味が薄そうに感じるが、そんな不安に反してしっかりと塩味を感じることができた。


 シンディの顔は自然と穏やかになっていった。


「ありがとう。とてもおいしい。君の料理は本当に魔法のようだ。少し食べただけでさらに楽になった気がする」

「きっと体が食べ物を欲していたからだよ」

「そうだな。どんなに辛い時も人は食べないと生きていけない。食に強い興味があるわけはないが、君の料理を食べるとついつい気になってしまう」

「気になってしまうとは?」

「まずは、どうしてモロヘイヤを出したんだ? 君のことだ、意味があるんだろ?」

「そうだね……。先程ホットミルクも出したけど、モロヘイヤに含まれる栄養素も胃の粘膜を保護する働きがあるんだ」

「なるほど。何気ない副菜のように見えるがそんなところまで考慮していたのか。そして、この土鍋に入った……ゾウスイと言ったか?」

「うん。簡単に言えば、米をダシなどで煮た食べ物だよ。シンディはお米が好きそうでしたし、煮ることで食べやすくしてみたんだ」


 一度も米が好きだとは口にしていないが、それだけの観察力というものを持っているということか。


「少しは楽になった? やはり空腹では何もすることができないしね」

「食欲があまりなかったから見送っていたが、やはり良くなかったのだな」


 シンディの言葉に橙也は頷いた。


「体調や状況にもよるから一概には言えないけど、やっぱりバランスを考えて三食しっかり食べるのが一番いいんだ。古い言葉だけど、医食同源という言葉あるくらいだからね」

「そういうものか。確かに普段から、食事回数はわりと不規則だったな」


 プレッシャーが掛かるときは食べる気にならないし、そうでなくても面倒だったり、気乗りしなかったりで食事を抜くことはあった。そういう行動も、胃を痛めやすくする原因だったのだろうか。


「あと、雑炊に使っている卵にはナトリウムが入っているからあえて塩味は薄味にしたんだ」

「ああ、優しい味がいいな……。ほかにはどんな魔法があるんだ?」

「魔法と言うか、食物繊維がたくさん入っている食品を使用しているから、予め細かく切ったり、柔らかく煮たりしたよ。食物繊維は体の調子を整えるのに役立つ反面、胃腸の消化機能が弱い場合はかえって消化不良を助長することがあるからね」

「この野菜一つ一つに意味があるんだな」 


 ほかに注意点があるらしく、燈也は続けた。


「ただ、今痛みが収まっているのはあくまで一時的なものだからね。根本的な解決にはなってないから、症状や続くときや酷いときは、ちゃんとお医者さんに行くんだよ」

「ああ。酷いようならそうしよう。……酷いようなら」


 シンディは小さく顔を歪めながら呟いた。

 あまり医者が好きではないからだ。薬は苦いし、注射は痛い。



 できればそんなことにならないよう、三食しっかりとろう、と思った。



 気分の方も今はかなり落ち着いている。


(彼の温かな料理のおかげだな……)


 これなら今日の試験も問題なさそうだ。


 体の中から温まったことも関係あるのか、シンディの気持ちも大分上向きになっている。


 食事を終えたシンディは軽く伸びをする。


「やはり、トーヤの料理は特別だ。ここに来てよかったよ」

「何度も言うけど、俺は医者じゃないからね? 今度具合が悪そうだったら引っ張ってでも医者に連れて行くから」

「わかってるよ。だけど、おいしい料理まで食べられて元気になることもできるんだ。最高じゃないか」


 これまでも彼の料理に助けられてきたことはあった。


 かつて自信を失いかけていた時も、彼の料理のお陰で自分を見つめ直すことができたのだ。


 そして今も、辛さや緊張が吹き飛んで、こうして前向きになっている。


 入ってきた時の辛さはどこへやら、今はすっかり元気になっていた。


(これなら、上手くやれそうだ!)


 多くの人の期待に応えるためにも絶対に結果を出さないといけない。

 シンディは立ち上がり、橙也の方を見た。


「ありがとう、魔法使い。君のおかげで自分の力を発揮できそうだ」


 元気な声でそう言うと、シンディは立ち上がる。


 その姿はもううつむいていた時とは違い、しっかりと前に向いていた。


 いつもどおりの、キリッとした姿のシンディだ。


 食事と支払いを終えたシンディは、きっちりと背筋を伸ばして店を出ていった。



   §



 シンディの背を見送った橙也は厨房へと戻っていく。


 その元気そうな足取りに、とても安心した。


「シンディさん、元気になったみたいだね」


 桃香も心配して、経緯を見守っていたようだ。


「本当に兄さんの料理はすごいよ。ねえ、知ってる? 兄さんの料理がなんて言われているか?」

「え? わからないなぁ」


 桃香は胸を張って、嬉しそうに言うのだった。



「――魔法の料理。栄養についても考えられているし、何よりもおいしくて食べただけで元気になれるからだって」



 桃香の言葉に橙也は胸が熱くなった。

 元いた世界では当たり前のことが、この世界では特別。

 ありふれたもので幸せを感じられるのだから、もしかしたら元の世界にいた時よりも幸せなのかもしれない。


「こうなってよかったのかもな」


 元の世界では得られなかった充実感を得られている。 


 最初は暗い顔をしていたお客さんが、自分の料理で笑顔になって帰っていく。


 やっぱり料理はいいな、と満足感を抱き、頬が緩んだ。


 健康食堂は基本的に、お客さんが料理を選んで注文する普通の食堂だ。


 お昼ともなれば多くの人が訪れ、せわしなく賑わう場所になる。


 それだけ多くの人が自分の料理を楽しみに来てくれるのは、とてもうれしい。


 さらにこういう少し空いた時間なら、一人ひとりに向き合って料理を出すこともできる。


 一対一の、人間同士として。


 それは橙也にとってとても大切なことだった。



 ここへ――この異世界に来て、叶うようになったこと。



 前は、そうじゃなかった。


 その頃はきつい事が多かったな、と思い出す。


 今は遠い昔のように感じた。それだけ、この世界に来てからの生活は濃く、橙也にとって価値の大きいものだった。何年分もの充足感を抱くほどに。




(こんなふうに人生が変わったのもあの時からだ……)



 落ち着いた厨房で、橙也は異世界に来た時のことを思い出すのだった。

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