第32話 綾坂彩の真実

「初めまして、と言った方がいいんですよね朝陽さん。私は綾坂彩の妹の、綾坂乃々と申します」


「あ、えっと、初めまして……」


「うちの姉が、これまたずいぶんとお世話になったようで」


 乃々はチラリと布団にくるまっている彩を見た。突然視線を投げかけられた彩は、びっくりしたのか再び顔を布団の中へと隠してしまう。


 そんな彼女の姿を見て、乃々は人差し指を唇の下に当てながら納得したように頷いた。


「こうやって面と向かってちゃんとお話しをするのは、朝陽さんと同じく初めてですよね。レシピエントとその家族は、ドナーの個人情報を一切知らされないのでわかりませんが、昨日の電話から察するに、あなたの名前は東雲紫乃さん?」


 レシピエント、ドナー。その聞き慣れない単語に首をかしげる。しかしそんなことよりも、彼女が綾坂彩のことを東雲紫乃と呼んだことに朝陽は動揺を隠せなかった。


 だって、彼女は……


「待って、乃々さん。彼女は綾坂彩さんだよ。だって東雲紫乃は……」

「東雲紫乃さんは、交通事故で死んでしまった。そういうことですよね?」

「あ、うん。そうなんだけど……」

「その辺の話をするために、乃々はこちらへやってきたんです。でもまずは、お姉ちゃんなのか、紫乃さんなのかをハッキリさせなきゃいけません。あなたは、東雲紫乃さんですか?」


 そんなこと、あるはずがない。


 昨日、彼女は東雲紫乃ではなく、綾坂彩であるという結論が出たのだから。だけどそんな結論を、布団にくるまっている彼女はいとも簡単に覆す。


――紫乃は、布団の中でコクリと頷いた。


「え……嘘でしょ?」

「ごめん、朝陽くん……ずっと、黙ってて」

「待ってよ……紫乃は、だって、紫乃は……」

「落ち着いてください朝陽さん」


 そう言われても、落ち着いていられるはずがない。乃々だって、朝陽と同じはずだ。彼女が東雲紫乃であるならば、姉である綾坂彩はどこへ行ったのだという話になる。


 しかし当の彼女は、この場にいる誰よりも落ち着いていた。


「そうですね。まず何から話しましょうか」


 一度息を吐いた後、乃々は紫乃に視線を向ける。紫乃は、サッと彼女から視線を外した。


「では最初に、お姉ちゃんの病気についてお話ししますね。電話でもお伝えした通り、お姉ちゃんは幼い頃から拡張型心筋症を患っていました」

「それは、もう治ったんだよね?」


 朝陽は医学の知識がないため、拡張型心筋症と言われても具体的な症状を思い浮かべたりすることはできない。ただ、とても重い病気だということは、学校の保険の授業でチラと耳にしたことがある。


「そうですね。拡張型心筋症は、今年めでたく完治いたしました。ところで、朝陽さんは拡張型心筋症の治療法をご存知ですか?」

「いや、名前ぐらいは聞いたことがあるけど……薬をずっと飲んでいれば、治るんじゃないの?」

「薬物治療は、基本的には悪化を遅らせるということしかできません。特にお姉ちゃんは年々病状が悪化していたので、薬を飲み続ければいずれは、というのは期待できませんでした」

「じゃあ、どうして完治したの?」


 朝陽が質問すると、乃々はそれ以上もったいぶることをせずに、真面目に答えた。


「症状が悪化して、もうどうにもできないという重篤な患者には、心臓移植しか残された道はないんですよ」

「心臓移植……」

「といっても、そんな簡単に移植が出来るわけではありませんよ。いろいろな条件が適合して、初めて心臓移植が出来るんです。それに適合したのは、日本のどこかで交通事故に遭い、脳死状態になった女の子だとお医者様から聞いてます」

「まさか、それって」

「ご察しの通り、そういうことになりますね」


 朝陽は布団にくるまったままの紫乃を見た。彼女はただ申し訳なさそうに、視線をそらす。心の奥に形容することのできないモヤモヤとした感情が溜まり、この気持ちをどこに吐き出せばいいのか朝陽には分からなかった。


「……でも仮に、紫乃の心臓が綾坂さんに移植されていたとして、じゃあどうして紫乃はここにいるの。紫乃は……交通事故に遭ったんだよね……?」

「ここからは、全て乃々の憶測みたいな話になるのですが、それでも朝陽さんは聞きたいですか?」

「……聞きたいよ。聞かなきゃ、全然納得出来ないんだから」

「そうですよね。じゃあ、乃々が自分なりに調べたことを、朝陽さんにお伝えしたいと思います」


 乃々は座布団の上に正座をして姿勢を正した。「これからは、少し長い話になります」そう彼女が前置きをしたため、朝陽も座布団の上に腰を下ろす。


 彼女は一つ一つ、ゆっくりと語り始めた。


「これは心臓移植をした患者にたびたび見られる変化なのですが、手術をした前後では好きな食べ物や趣味、性格などに変化が起きることがあるらしいんです」


「それは、心臓を移植したことによって、ドナーの性格が患者に移るから?」


「そう言われていますが、どうしてそのような変化が起きるのかは未だ解明されていませんね。これは先ほど乃々が言ったように、レシピエント――この場合はお姉ちゃんのことになるのですが、お姉ちゃんとその家族には、ドナーの個人情報は一切知らされません。だから、確かめる術がないのです。

 それに記憶が脳に宿るのか、それとも心に宿るかなんてのは、分かるはずがないんですから。でも、そういう事象が起こるということは、人の心には魂が存在する――かもしれない、ということなのでしょう」


 朝陽はふと、あることを思い出す。それはネットの海を漂っていたときに偶然見つけた記事だった。


 魂には重さがある。


 昔、ある人が、人間の死の前後の体重を測ったところ、二十一グラムだけ重さが減っていたらしい。この結果から、人の魂の重さは二十一グラムだという仮説が生まれた。


 その話自体に信憑性があるのか定かではないが、心臓移植をすることによって性格の転移が起きるというのならば、魂には重さがあると言えるのかもしれない。


「人の心に魂があると仮定した場合、もちろん生きたいと望めば魂は強く反応するでしょう。紫乃さんは、心の底で生きたいと願った。もしくはやり残したことがあったのかもしれません。その思いがこんな奇跡を起こしたのだとすれば、ちょっとロマンチックじゃないですか?」


 唐突に年頃の女の子のような笑み浮かべたため、朝陽は反応に戸惑った。


「……どうして君は、そこまで詳しいの?」

「乃々は、ずっとそばでお姉ちゃんのことを見てきたからですよ。心臓移植が成功して数日が経ったとき、お姉ちゃんは突然病院のベッドの上で悲鳴をあげました。そして、今の紫乃さんのように布団へくるまって、誰とも話をしようとしなかったんです。かと思えば、しばらく経てば元通りになっていて、お姉ちゃんにその時の記憶はありませんでした。こんなことが起きれば、さすがに不安になっていろんな可能性を検討しますよね」

「あの時は、本当にびっくりしちゃって……」


 今まであまり喋らなかった紫乃が、控えめに話に入ってくる。ここから先は、彼女からも話を聞かなければいけない。


「それじゃあ、綾坂さんは二重人格になったってこと?」

「二重人格という言い方は、実はあまり正しくはありません。正確にはDID、解離性同一性障害といいます。乃々も初めはお姉ちゃんがこの病気になったのかなと思ったんですけど、おそらく違いますね」


「どうしてそう言い切れるの?」


「お姉ちゃんは心臓病を患ってはいましたが、いつも前向きで笑顔を絶やさない人でしたから。周りにいた入院患者の方も良い人たちばかりで、DIDを発症する原因になる心的外傷を負うことは、ただの一度もありませんでした」


 つまり、彩と紫乃は病気などではなく、偶然にもそういうことが起こってしまったと捉えるのが正しいのだろう。


「紫乃は、どうやって綾坂さんと連絡を取ってたのかな。今までの話を聞いた限りだと、直接お互いに話すことはできないよね」

「……これ」


 紫乃はガサゴソと身じろぎして、布団の中からあるものを取り出した。それを見て、朝陽はなるほどとすぐに納得する。


 それは彼女が頻繁に操作していたスマホだった。


「彩ちゃんが、紫乃にこれで話しかけてくれたの」


 つまり、身の回りで起きた出来事をスマホを介してお互いに伝え、意思の疎通を行なっていたのだろう。


「そうですね。お姉ちゃんは、最初こそみんなに不審がられていましたが、それもすぐに気にならなくなりました。乃々は、それからも疑ってたんですけどね。ところで一つ訊きたいのですが、今からお姉ちゃんと話すことはできないでしょうか。入れ替わりの方法が分からないので、待ってくださいと言われれば待ちますよ」


 乃々は決して怖い顔をせずに、常に人懐っこい笑みを浮かべている。きっとどんな人にでも、その笑顔を振りまいているのだろうと朝陽は思った。


 しかし、紫乃はそんな乃々を見て途端に唇を引き結び、今にも泣き出しそうな表情を浮かべる、


「交代は紫乃の意識を沈めるようにしたら、すぐに出来るの。でも朝起きた時から、全然彩ちゃんが出てこなくて……!ねえ朝陽くん。昨日、彩ちゃんと何があったの……?」

「昨日……」


 朝陽は未だ色濃く覚えている昨日の出来事を、二人へ話した。


「昨日は、紫乃……綾坂さんと一緒に、学校の吹奏楽を見に行ったんだ。その後はお祭りを楽しんで、父さんのやってる屋台の手伝いをして……本当は途中から花火を見に行けるはずだったんだけど、代わりの人が来れなくなって……」


 それから手伝いが終わった後、二人で川辺の方まで走った。だけど彩が転んでしまい、花火は終わってしまう。そして彼女の正体を聞こうとしたら、突然倒れるように眠ってしまった。


 その一連の出来事を、朝陽は説明した。


 話を聞いていた紫乃は、だんだんと表情がけわしくなっていったが、乃々はどこまでも落ち着き払っている。自分の姉の話だというのに。


「そういうことが、あったんだ……」

「綾坂さんが出てこなくなった理由、紫乃にはわかる?」


 紫乃はコクリと頷いた。


「お祭りの時は、元々紫乃が表に出てくるはずだったの。だけどそれを彩ちゃんに譲って、紫乃は花火だけ見られればいいと思ってた。それでいいと、思ってた……」


「だけど事情があって、紫乃さんに花火を見せることができなくなった。それどころか正体まで知られることになって、きっとお姉ちゃんはパニックになったんでしょう。そして、自分さえいなければと思ってしまったのかもしれません」


「そんな、綾坂さんは何も悪くないのに……」


「そうですね。お姉ちゃんは何も悪くありません。だけどお姉ちゃんは、そういう人なんです。人一倍自己犠牲精神が強くて、優しくて、だけど……」


 そこで初めて乃々は言い淀む。だから朝陽にはその姿がとても印象強く残ったが、彼女はすぐに笑ったため、意識はそちらへと向けられた。


「彩ちゃんは、もう戻ってこないのかな……」


「そんなことはないと思いますよ。お姉ちゃんの身体はどこまで行ってもお姉ちゃんの身体ですし、きっとどこかで引っかかっていると思います」


「そうだったらいいんだけど……そうじゃなかったら、紫乃は……」


 ポロリと、綺麗な瞳から一筋の涙が落ちる。


「大丈夫だよ。綾坂さんは、きっとまた戻ってくるから。だから、一緒に解決策を考えよう」

「そうですね。乃々もしばらくはここにいるので、三人でお姉ちゃんのことを考えましょうか」


 乃々はそう言ったが、聡明な彼女ならばもう答えは出ているのだろう。朝陽にも、彩を救う手立てはすでに思い付いているのだから。


 だけどそれを突きつけるのはあまりにも酷なことで、だから朝陽はその手段から目を逸らした。


 乃々は一度、大きく手を打ち鳴らす。


「はい! それでは乃々、しばらくお外へ行きますねっ」

「えっ、どうして?」

「いやですねー朝陽さん。決まってるじゃないですか! 観光ですよ観光!」


 そう言って、嬉しそうに微笑む。自分たちを気遣ってくれたのだと、朝陽はすぐに理解した。乃々も理解してくれたと察したのか、その笑顔のまま手を振って部屋を出て行く。


 しかし最後にチラと、あとで報告をよろしくお願いしますねと言うように朝陽へ目配せしていった。


「あの……」


 どういう風に切り出せばいいか朝陽は迷う。彼女とは今までも話していたが、真実を知って話しをするのは緊張が伴う。


 紫乃は、交通事故に遭って死んだのだ。


 だけどいつまでもそうしているわけにもいかないため、一度息を吐く。


 話すべきことが、たくさんあった。


「とりあえず、布団の中から出てきなよ。姉ちゃんが来たら追い払うから、普通にしてても大丈夫だよ」

「うん……」


 ノソノソと、紫乃は布団の中から這い出てくる。そして礼儀正しく、その場で正座をした。


「もしかしてだけど、家にいるときは基本的に綾坂さんが表に出てたのかな」

「うん……紫乃、人見知りだから……」


 人見知り。


 十年前も紫乃は人見知りで、朝陽が部屋にやってきても布団の中に引きこもる女の子だった。それでも今は二人で外へ出かけられているから、彼女は以前に比べて成長した。その事実が朝陽は嬉しかった。


 もしかすると、彼女が自分のことを『私』と呼んでいる時が『綾坂彩』で、『紫乃』と名前で呼んでいる時が『東雲紫乃』だったのかもしれない。


 彼女は朝陽以外の人間がそばにいる時は、自分のことを私と呼んでいた。つまりは、そういうことだったのだろう。


 何か話さなければと思い考えを巡らせるが、話したいことがたくさんありすぎるため、朝陽はどれから手を付ければいいのか分からなくなる。


「今まで普通に話しができてたのにね。なんだか、どうやって会話をしてたのかわからなくなっちゃった」

「……ごめん」

「紫乃は悪くないって。僕が、気付いてあげられればよかったんだから……」

「それでも、紫乃は隠してたから……」


 お互いに自分のことを責めてしまう。このままでは話が平行線を辿ると考えた朝陽は、彼女が傷つかないようにと話を変えた。


「僕は別に怒ってないんだけど、どうして紫乃はずっと正体を隠してたのかな。本当のことを話してくれれば、もっと早くに相談に乗ってあげられたのに」

「だって、朝陽くんに迷惑がかかると思ったから……本当は、満足したら……花火が終わったら、紫乃の方から居なくなるつもりだったの……」

「何も言わずに、居なくなるつもりだったの?」

「うん……だって、死んでるのに朝陽くんとお話ししてるなんて、絶対におかしいもん。それに、彩ちゃんにも迷惑がかかってるし……」


 それはどうなのだろう。


 少なくとも綾坂彩という人物は、紫乃の手助けを底抜けな善意でおこなったのだと朝陽は考えていた。紫乃はあまり自分を表に出さないため、自分から会いに行きたいとは言えなかったのだと思う。


 だから、自分を救ってくれた東雲紫乃という女の子の役に、彩は立ちたかった。


――彼女は、私の命の恩人だから。


 これまで綾坂彩としての彼女と話したことはない朝陽だが、彼女の考え方は容易に想像出来た。きっと紫乃と同じく、とても優しい女の子なのだろう。


「綾坂さんのことは本人に聞いてみなきゃわからないけど、僕は迷惑というより、今の話を聞いてちょっと怒ってるかな」

「……ごめんなさい」


 俯いて瞳を潤ませる姿を見て、少し意地悪をしてしまったと反省した。


「紫乃が勝手にいなくなったら、それこそ困っちゃうから」

「……え?」

「子どもの頃、紫乃が突然いなくなって、本当に悲しかったんだよ。いなくなるなら、引越しをするならちゃんと言ってほしかった。紫乃も、突然友達がそばからいなくなったら、とっても心配するでしょ?」

「紫乃は……」


 何かを言いかけて、紫乃は言い淀む。きっと大切な友達のことを思い浮かべたのだろう。彼女は俯いたまま、涙を流した。朝陽は泣かせるつもりなんて、傷つけるつもりなんてなかったのに。


 いや、朝陽にとって紫乃は大切な人であるからこそ、文句の一つでも言いたかったのかもしれない。何も言わずに街を去り、再び何も告げずにそばを去ろうとしていたのだから。


 もっと、自分に自信を持ってほしかった。自分が居なくなることで、悲しむ人がいるのだということを知ってほしかった。


 抑えきれない感情が心から溢れて、口元が思わず揺れてしまう。それを抑え込むのも、そろそろ限界だった。


 朝陽はゆっくりとその場から立ち上がる。怒らせてしまったのだと思ったのだろう。紫乃は泣きそうな顔をしながら、朝陽のことを見上げた。


「大丈夫だよ。ちょっと、頭を冷やしてくるだけだから」


 もっと話をしたいのに。話したいことが、話をするべきことがたくさんあるのに。時間はおそらくそれほど残されてはいないのだから。


 廊下へ出ると、部屋の中の話し声が聞こえないほどの位置に乃々が立っていた。朝陽の表情を見て、しょうがないですねぇといったように、控えめに微笑む。


「今のうちに、泣いておいたほうがいいですよ。泣いてしまったら、心がスッキリするんです」

「……僕よりも、君の方が泣くべきなんじゃないかな。大切な姉が、戻ってこないかもしれないんだから」

「お姉ちゃんは、いなくなったりはしませんよ」

「どうしてそんなことが言い切れるの……?」

「拡張型心筋症は、重度の場合だと五年生存率はそれほど高くないんです。でもお姉ちゃんは、ドナーが見つかるその時まで、必死に生き続けました」


 乃々は朝陽の問いに、やはりあっけらかんと答えた。それが当然だと言わんばかりに。


「お姉ちゃんは、人一倍自己犠牲精神が強くて、優しくて、だけど誰よりも生きたいと、強く願う人でしたから……だから、乃々に何も言わずにいなくなるはずがないんです」


 紫乃の前では敢えて濁した言葉。乃々も、おそらく朝陽と同じことを考えていたのだろう。それは片方を生かし、片方を殺してしまうという犠牲の上に成り立つ方法。


 そんな犠牲の上に成り立つ物語は、本当の解決じゃない。


 だから、みんなが救われる道を見つけ出さなきゃいけない。


 やっと再開できたのに、彼女はもう死んでいるなんて、あまりにも残酷すぎる。部屋の中で過ごすしかなかった紫乃がようやく外へ出られるようになったのに。


 誰よりも世界を美しく見ることができる女の子であるのに、世界はどこまでも彼女に対して酷い仕打ちを続けた。やるせない思いが朝陽の心の中に積もって行く。


 少しでもその苦しみを肩代わりできれば、紫乃が傷つかなくて済むのに。


 知らず知らずのうちに、涙が溢れていた。それはとどまることなく、朝陽の頬を濡らしていく。


 そして、気付いてしまった。


 気付かなかければよかったのにと、今更ながらに後悔する。


 自分は東雲紫乃か、それとも綾坂彩のどちらが好きなのか。きっとそれを理解してしまえば、片方に強く生きてほしいと願ってしまう。


 誰も、愛する人がいなくなってほしくないのだから。もちろん二人とも救われる道があれば、それを願わない理由はない。でも、片方しか救えないのであれば……


「朝陽さん」


 唐突に名前を呼ばれる。乃々はいつの間にか、朝陽の顔を覗き込んでいた。


「少し、乃々とデートをしましょうか」

「いや、今は……」

「気分転換に、デートをしましょう」


 強引に腕を掴まれる。


 部屋の中にいる紫乃のことが気になったが、朝陽は断り切ることが出来なかった。

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