中編〜Nocturn〜

第15話 山!川!花火!

 インターホンの音で朝陽は目を覚ました。目を開けると薄く開いたカーテンの隙間から陽光が差し込んでいて、思わずまぶたを狭める。


 やがて眩しさに慣れた頃に起き上がって、眠気を飛ばすために大きく伸びをした。


 母が起きているだろうと踏んで、朝陽は玄関には向かわずにぼーっとしていると、不意に机の上のスマホがブブブと振動する。こんな朝早くに誰だろうと思い起動させてみると、相手は珠樹だった。


 開いてみると、ボックスに二、三通メールが溜まっている。


『ねえちょっと訊きたいことがあるんだけどっ!』

『今から朝陽の家に行くから』

『ねえ今起きてんの?!』


「うわ、まずい……」


 理由はわからないけれど、珠樹が怒っているのだということは容易に想像できた。おそらく、インターホンを鳴らした主も珠樹なのだろう。


 その答え合せをするように、一階から朝陽を呼ぶ母の声が聞こえてきた。手早く私服に着替えて玄関へ向かうと、愛想笑いを浮かべた珠樹が母と談笑している。制服を着ているから、学校へ部活に向かう途中なのだろう。


 朝陽が来たのを確認すると、母はリビングの方へと引っ込んで行った。同時に珠樹から愛想笑いがスッと消えて、眉が内側に寄り、目元は鋭さを持ち始める。


「ねえ、訊きたいことがあるんだけど」

「えっと、なにかな……」

「昨日、朝美姉から聞いた」


 朝美が何か言ったのだろうか。あの人はいつも適当なことを言うから、朝陽の身体は自然と震え上がる。


「東雲さんが、朝陽の家に泊まったって?」

「あ」


 そういえば珠樹に説明していなかったことを思い出す。朝陽は昨日の経緯を伝えた。


「紫乃が今日までしかホテルの部屋を押さえてなかったんだよ。だから別の場所を探さなきゃいけなくて、それなら僕の家に泊まればって」

「思春期の男の子がいる家に女の子を泊めるなんておかしい」

「でも仕方ないじゃん。それに、紫乃は姉ちゃんの部屋で寝たよ?」

「朝美姉の部屋で寝たからって、朝陽が何も出来ないわけじゃないでしょ」

「なんで僕が手を出すこと前提なの……」


 呆れたようにため息を吐くと、紫乃は肩を怒らせながら詰め寄った。朝陽はびっくりして、半歩ほど身を引く。


「ねぇ、私、中学一年の時以来、朝陽の家に泊まってないんだけど」

「それは珠樹がもう大きくなったから……」

「なんだ、自覚あるんじゃん」


 実は、中学生になって大きくなったから、男の家に外泊を許可しなくなったというわけでもない。もちろんそれも一因ではあるが、最大の要因は珠樹が海で溺れかけてしまったということにある。


 あの出来事以来、珠樹の母は娘に対して少し敏感になってしまった。心配をして怒鳴り散らすというわけではないが、極度に不安を抱くようになったのだ。どこにいるのか、何をしているのかを何度も確認してくる。


 そんな母を不安にさせたくないから、あの出来事以来珠樹は外泊を行なっていない。そういう事情があることは、彼女にも分かっている。


「でも、それとこれとじゃ話が別でしょ? 紫乃を泊めなかったら、最悪野宿になってたかもしれないんだよ?」

「それじゃあ、一度私に相談してくれれば……」

「いやいや、珠樹の家はお父さんが厳しいじゃん……見ず知らずの人を泊めてはくれないでしょ」

「うっ……」


 珠樹は言葉を詰まらせる。朝陽もその選択を一度は考えていたが、すぐに候補から外していた。


 勢いをなくしたようにも見えたが、何かを思い出したのかすぐにまた目元に鋭さが宿る。


「昨日、東雲さんと遊びに行ったんだって?」

「まあ、そうだけど……」

「なんで私も誘わなかったの」

「いや誘ったよ。そしたら部活があるって」

「うっ……」


 すっかり忘れていたのか、苦虫を噛み潰したような表情になった。なんだか珠樹を責めているような気分になってきて、朝陽は申し訳ない気持ちになる。


 自分の説明不足だったなと反省した。


「……朝陽くん、どうしたの?」


 そうこう話しているうちに、紫乃が玄関から出てきた。寝起きなのか眠気まなこをこすっていて、朝陽の目の前にいる珠樹には気づいていない。


「なんか、外から朝陽くんの声が聞こえてきて……それで紫乃、気になって……」

「ごめんちょっと珠樹と話してたんだ」

「……珠樹?」


 眠気まなこのままゆらゆらと近付く。目が合うと珠樹は一度会釈をした。しかし紫乃は会釈をせずに目を丸めて、突然ふらっと身体が揺れる。


 すぐにそれに気付いた朝陽は、慌てて紫乃のことを抱きとめた。


「紫乃、大丈夫?!」

「うわ、あ、ごめん」


 朝陽の腕の中にいる紫乃は、何が起きたか分からないといった風に目を丸めて驚いていた。そして自分が抱きしめられているということに気付き、薄っすらと耳が赤くなる。


 珠樹も紫乃へ近寄った。


「ちょ、ちょっと、東雲さん大丈夫?」

「あ、玉泉さん……おはようございます……」

「おはようございます……じゃなくて! もしかして体調悪いの?」

「体調は悪くないと思いますけど……」


 そう言うと、お礼を言った後に朝陽から離れた。珠樹はすぐに、紫乃のおでこに手のひらを当てて検温する。突然手を当てられた彼女は、くすぐったそうに身をよじって目をつぶっていた。


「熱はないね」

「紫乃、大丈夫?」

「あ、うん。全然平気だよ。ほらすごい元気!」


 紫乃は二人の前で腕をぶんぶんと振り回している。なんだか子どもっぽくて可愛いなと感じたが、朝陽はすぐに我に返った。


「ほんとに、隠してない?」

「体調は大丈夫だって。寝ぼけてたからちょっとふらついただけ」

「朝陽、たぶん体調はどこもおかしくないと思うよ」


 その手で検温した珠樹が言うなら間違いはないのだろう。取り越し苦労ならそれでいいのだが、万が一のことを考えてしまうと不安の気持ちが押し寄せてくる。


「てか、ごめん。感情的になってた……玉泉さんも起こしちゃったし」

「僕は気にしてないよ」

「私も気にしてません」


 二人はそう言うが、珠樹は反省しているのか、いつもより身体を縮こませていた。そんな彼女を見て、紫乃は首をかしげる。


「玉泉さんは、朝陽くんと何のお話をしていたんですか?」

「お話っていうか……私が一方的に話してたっていうか……」


 上手い言葉が見つからないのか、なかなか声に乗らずに口の中でもぐもぐしている。珠樹がこんなに言い淀むのは珍しいため、朝陽は助け舟を出すことにした。


「紫乃が無事に眠れてたか心配してたみたいだよ。一応男の僕が住んでる家だし、それに姉ちゃんとかも……」


 紫乃はハッキリとは言わずに、苦笑いを浮かべる。やはり朝美の横ではぐっすり眠れなかったのだろう。


「朝美姉の寝息すごいからね」

「あ、いえ、でも朝陽くんのおかげで結構ぐっすり眠れたんですよ」


 珠樹はキッと朝陽を睨んだ。


「だから違うってば。眠れるようにココアを作ってあげただけ」

「へえ優しいんだね」


 嫌味を言っているかのような、感情のこもっていない声。また怒らせてしまっているのだということはすぐにわかった。


「というか珠樹部活は? コンクール近いんじゃないの?」

「おいなんだ、私が部活に行ってほしいのか?」


 朝陽はすぐに頷く。心の中には他意など一つもなかった。


「今日は行かない。私休む」

「えっ」

「たまには休息も必要だと思うんだ。毎日吹いてると唇が痛い」


 一昨日に十分休んだじゃないかとツッコミたくなったが、朝陽は何も言わずに黙っておくことにした。珠樹は基本的に一度決めたことは曲げないし、しつこく言えば不機嫌になってしまう。今も十分不機嫌ではあるが。


「というわけで今日は三人で出かけよう。紫乃ちゃんはどこに行きたい?」

「あ、え、私ですか?」


 チラと窺うように紫乃は朝陽を見る。

名前で呼ばれたことにやや戸惑っているようにも見えるが、何か伝えたいことがあるようにも見えた。


 とりあえず、紫乃の判断に任せるよということで、一度首を縦に振った。


「あの、私は、どこでも……朝陽くんと玉泉さんの行きたいところで……」

「紫乃ちゃんそんなにかしこまらなくていいよ。あと私のことは普通に珠樹でいいからね!」


 いつものように、珠樹は恐れることなく相手との心の距離を一気に詰める。朝陽としては二人が仲良くなってほしいし、紫乃にも友達が出来て欲しいため、珠樹の性格に感謝していた。


 しかし紫乃はまだ打ち解けることが出来ないのか、やや戸惑いの残った表情で不器用に微笑んだ。


「じゃあ、珠樹さん」

「よしきた! それじゃあ山行こう! 川行こう! 花火しよう!」

「え、本当に山に行くの?」

「タリメーだろこら! ほら朝陽、十秒で支度しな!」

「いやいや無理だって……せめて二十分ぐらい時間ちょうだいよ」


 そう言いつつも、珠樹が急かすため十分以内に用意を済ませて玄関前に戻ってきた。


 そして珠樹は紫乃の手をガシッと掴み、先導するように歩き出す。その強引さに紫乃は目を丸めていたが、やがて自然な笑みがこぼれ始める。


 二人が打ち解けられそうで、朝陽も安心した。

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