episode.3 決してやましくはないある朝の寝坊の理由

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 前に述べたと思うが、魔術師は毎朝勇者姉を起こしに部屋まで入っている。

 やましいことは何もしていないと、もちろんご理解いただけていることだろう。

 これは、そんなやましくもなんともない、日常的な朝の一コマだ。


「アーネリア、起きて」


 魔術師はベッドに近づき、勇者姉の肩をつかんでゆさゆさと揺らす。

 その力に遠慮や加減は見られない。そんなことをしていたら勇者姉はいつまで経っても起きないのだ。

 以前は半ば三人で暮らしていたようなものであったため、魔術師は勇者姉の寝汚さを充分すぎるほどに理解していた。


「おはよぉ~」


 しばらくゆすっていると、ようやく勇者姉は眠りから覚めたようだ。

 だが、ここからが長いことも魔術師は知っている。

 まだ勇者姉は完全に目覚めてはいない。寝ぼけている状態である。

 その証拠に、まぶたは閉ざされたままだった。


「おはよう、アーネリア。朝食は何がいい?」


 魔術師は身体をゆする手を休めず、音量大きめで声をかける。

 布団はすでに最初の段階ではぎ取ってあった。

 今は春だから、寒さで目が覚めるということは期待できなかったが。


「なぽりたんすぱげてぃ……ぴーまんぬきで……」

「わかった。ほら、起き上がって」


 言いながら魔術師は勇者姉の背中に手を差し入れる。

 少々強引に起こそうとするが、勇者姉は起き上がろうとはせず、ぐずって抵抗すらしてみせた。

 所詮は男と女。二歳の年の差程度で男女の力の差を覆すことはできない。無理やり起こすことも、魔術師にはできた。

 けれど基本的に、魔術師は勇者姉に甘い。

 無理強いすることなく、根気よく身体をゆさぶりながら声をかけ続ける。


「……ね……むい……」


 けれど勇者姉は一向に起きる気配を見せない。

 今日はいつも以上に眠気が強いようだ。

 きっと前日に夜遅くまで仕事でもしていたのだろう。勇者姉は職人気質で、一度集中すると周りが見えなくなる。

 今日は勇者たちと合流するのが少し遅くなるかもしれないな、と魔術師は脳内で冷静に時間を計算していた。

 だから、反応が遅れてしまった。


「わっ」


 一つに結んで前に流していた髪を勇者姉に引っ張られ、魔術師は勇者姉の上に倒れ込んだ。

 ぎりぎりのところで腕をつき、勇者姉をつぶすことだけは避けられた。

 けれどこの体勢、見ようによってはとても怪しい。いかがわしい。下手をするとムーン行きである。

 逃げようと思えばできなくはないが、ふかふかのベッドにその気力が萎えてしまった。

 何より、魔術師のものよりも高い、勇者姉の体温。

 日の光をたくさん浴びて育った野花は、きっとこんな匂いがするだろう、と魔術師は思った。


「いっしょ、ねよ~」


 舌っ足らずなしゃべり方で、勇者姉は提案してきた。

 それは魔術師にとって大変魅力的な誘いだったが、是を返しそうになる口を理性が押しとどめた。

 勇者姉に、規則正しい生活をさせること。

 自分のことに無頓着な彼女の健康のために、魔術師と勇者がずっと気を配ってきたことだ。

 今ではそれは魔術師の生きがいにもなっていた。


「寝ぼけてないで、起きて」

「や~」


 勇者姉の横に身体をずらし、力を込めて起こそうとする魔術師に、勇者姉は思いきり抵抗する。それはもう癇癪を起こした子どものように。

 力いっぱい髪を引っ張られるものだから、痛い痛い。

 いっそのこと魔法でベッドを破壊してしまおうか、と魔術師の脳裏に危険な案がよぎる。勇者がいたら盛大に突っ込まれそうである。


「ふふふふ、まーじゆのかみはきれいよねぇ」


 笑い声をもらしながら、勇者姉はつかんでいた魔術師の髪に指を通す。

 魔術師の黒くつややかな髪が、勇者姉の指の間からこぼれていく。

 その様子を魔術師はじっと見つめていた。


「そんなこと言うのは、アーネリアくらいだよ」


 ぽつりと、魔術師はつぶやいた。

 小さくて、頼りなげで、いつもの彼らしくない声音で。

 困ったように微笑む魔術師は、どこか泣きそうにも見える。

 けれど、寝ぼけている勇者姉はもちろんそんなことには気づかない。


「わたし、すきよ、まーじゆのかみ」

「髪だけ?」

「もちろん、まーじゆがだいすきよ」


 ふんにゃり、と勇者姉は笑顔を浮かべてみせた。

 その安心しきった表情に、魔術師の中の、普段は厳重に鍵をかけてある欲が反応を示した。


「ねえ、アーネリア。そんなに無防備だと、襲うよ?」


 勇者姉が聞き逃さないように、魔術師は彼女の耳元でささやく。

 寝ぼけたままの勇者姉の、はちみつ色の巻き髪を一房すくい取って、口づけた。

 反対の手で勇者姉の頬にそっと触れると、くすぐったかったのか彼女はふふっと笑みをこぼした。


「まーじゆはおそえないわよ~」


 少しも動揺することなく、それどころか眠気が失せることすらなく、勇者姉はそう返した。

 勇者姉は得意顔をしていた。

 寝ぼけていて、目は完全に閉じているのに、とても表情豊かだ。

 どこか憎めない表情を見て、魔術師はくすりと笑った。


「……襲えない、ね。たしかに」


 魔術師はため息と共にそうこぼす。

 図星を指されて、手を出してしまおうかという気は急速にしぼんでいった。

 男として見られていないようで複雑ではあるが、理解されていることが面映ゆくもある。

 何があろうと、魔術師には勇者姉の望まないことはできない。

 それがどれだけ忍耐力を必要とすることであっても。勇者姉のためなら我慢する苦しみすら甘美に感じられる。

 勇者姉を第一に考えるのは、魔術師にとって当然のことであった。


「ね。だから、ねよ~」

「……まったく、アーネリアは」


 自分を共犯者に仕立て上げようとする勇者姉に、魔術師は苦笑してしまう。

 ベッドはふかふかで、勇者姉の隣は心地よく、二度寝とはとても抗いがたいものだ。

 勇者姉の誘惑に、魔術師の理性が負けた瞬間だった。

 魔術師が勇者姉を抱き寄せると、ぬくもりはおとなしく腕の中に収まった。

 目を閉じれば、感じるのは日だまりのようなあたたかさと、健やかで可憐な野花の匂い。

 こうして一緒に寝るのはいつぶりだろうか、と魔術師はぼんやり思案する。

 それは別に答えを必要としている疑問ではなく、浮かんですぐに消えていった。

 あとに残ったのは、幸福だ、という強い実感だけ。 


「朝食が遅くなるのも、僕があとでユースに怒られるのも、アーネリアのせいだからね」


 魔術師は勇者姉に責任をなすりつけるが、すでに夢の中へと旅立っていた勇者姉には聞こえていない。

 勇者姉が寝ていると知っていて、魔術師は彼女の額に口づけを落とした。

 それだけで満足したようで、魔術師も本格的にベッドに身を沈めた。

 すうすうという穏やかな寝息をBGMにしていると、ゆるやかに眠気は訪れた。




 結局、二人が二度寝から目を覚ましたのは昼ごろだった。

 魔術師は昼食を作ってから勇者一行の元に戻り、当然ながら勇者に雷を落とされた。

 連絡すらよこさないでいったい何をやっていたんだ、という勇者の当然の問いに、魔術師は正直に寝ていたと答えた。

 それが誤解を呼び、魔術師は危うく聖剣の錆になるところだった――と言うほど危うくはなく、魔術師はあっさり勇者の攻撃を防いでいた――が、誓ってやましいことはしていないと言った魔術師に、勇者も剣を収めた。


 そう、やましいことは何もしていない。

 たとえ一緒のベッドで寝ようとも、たとえ髪や額にキスをしていようとも、たとえ「襲うよ?」とか言っちゃったりしていようとも。

 R指定になるようなことはしていないのだから、決してやましくはないのである。

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