【3話完結のモヤモヤ現代ドラマ】糠(ぬか)にコーヒー

なずみ智子

序にあたる第一話

 月曜日。

 一週間の始まり。

 とある事情により、一般事務員の信谷沙彩(のぶたにさあや)にとっては、ここ2週間ほど”いつも以上に”憂鬱な始まりとなっていた。


――……いったい、”あなた”はいつになったら仕事覚えるんですか? そもそも、”あなた”にはやる気自体、あるんですか?


 手元の受注書と眼前のパソコンのディスプレイを見合わせた沙彩は大きなため息をついた。


 信谷沙彩。29才。独身の1人暮らし。

 大学卒業後に新卒にて、クリーム、ピューレ、ペーストやクルミ、ナッツなどの食品原材料の卸を取り扱っている株式会社虹夢商事(にじゆめしょうじ)に入社し、現在は通販事業部に配属となっている。

 役職にはついていないし、これから先も役職につく可能性は0%に近いが、一般事務としてはベテランの域に達していた。

 パン屋等の店舗経営のお客様からのご注文、そしてお菓子作りが趣味の一般のお客様からのご注文を、日々ミスなく正確にさばいていく沙彩。

 正確さを継続させるということ。地道に信頼を――お客様からの、そして社内からの信頼を積み上げていくということ。


 しかし、”しかし”だ。

 今、現在、その信頼をコツコツと積み上げていこうにも、積み上げていくための基盤が”何度言っても”整わない状況にあったのだ。



「あの……腰塚さん。受注書の入力後は絶対に見直しをしてください。また、ここの箇所の入力が間違っているですけど。”ここ”だけじゃなくて、”ここ”も、”ここ”も……あと”ここ”も……」

 椅子から腰を浮かせた沙彩は、隣の席の新入社員・腰塚芙弓(こしづかふゆみ)のパソコンのディスプレイの”合計4カ所”指差していった。



 腰塚芙弓。

 新入社員であるも、彼女はフレッシュな新卒などではなく、沙彩とは干支が一回りも違う12才年上の41才だ。

 約1カ月ほど前に部内の同僚の一人が結婚退職し欠員が出た補充として、そして、これから注文数がますます増える冬の繁忙期(クリスマスやお正月など)に備えて、即戦力として雇われた社員だ。

 まだ右も左も分からない20代前半の社員ではなく、社会人経験もしっかりあり、ある程度の応用や機転が利くであろう40代女性の採用を人事部が決定したのかもしれなかった。


 しかし、やはり”しかし”だ。

 たった1枚の受注書の入力であるのに、芙弓は注文商品の個数ならび納品日、そもそも注文商品自体など、沙彩がざっと見ただけでも4カ所も入力間違いがあった。

 あり得ない。

 しかも、今回が初めてじゃない。

 芙弓の入社以来、沙彩は10回以上にわたり「入力後は絶対に見直しをしてください」を芙弓に伝えていた。それも「絶対に」という言葉を強調しながら。

 普通にあり得ない。


 けれども、とうの芙弓は椅子に座ったまま、沙彩を見上げて「?」と小首を傾げただけであった。


「…………あの、この受注書の入力は腰塚さんがされたんですよね?」

 極めて冷静に話をしようと努める沙彩であるも、自分の口から紡ぎ出されている声は苛立ちに満ち、胸のあたりにはムカつきがどす黒いヘドロの波のごとく、広がっていっていっていた。

 漫画であるなら、今の沙彩の台詞という吹き出しは、トゲトゲの吹き出しとなったいるだろう。


 沙彩と机を向かい合わせにして座っている26才の後輩・安斎璃子(あんざいりこ)が、沙彩の苛立ちを感じ取り、ヒヤヒヤしながら自分の様子をうかがっていることも、沙彩は目の端でとらえていた。


「…………そうだと思いますけど」

 けれども、沙彩のトゲトゲに満ちた苛立ちなど、腰塚芙弓には微塵も伝わっていないようであった。

 間違いを指摘されて慌てるわけでもなく、また、バツが悪そうなわけでもなく、至って暢気そうな声で答えた。

 本当にあり得ないだろ。


――そうだと思いますけど……って、どういうことですか?! ……たった数分前に、自分がパソコンに打ち込んだ入力すら覚えてないんですか…?! ……受注書の入力すら、2週間たっても碌にできていないから、電話応対とか他の仕事ですら、私はまだ教えられないんですよ!! いったい、何なんですか、”あんた”は!!


 12才も年上の女性を、心の中で”あんた”なんて言ってしまう。

 自分の指導の手ごたえが微塵も感じられないという苛立ちが、沙彩の中で蛇のごとくグルグルと蜷局を巻く。


 でも、沙彩は今日も堪える。

 頑張って、耐え続ける。


「何回も、何回も、何回も言いますけど、入力後は”きちぃんと”見直しをしてください。うち(弊社)から、お客様に納品される商品が違っていたり、数量が違っていたり、納品日が違っていたりしたら、困るのは私たちじゃなくて、お客様なんです。原材料が届かず、お客様の店舗で予定していた商品が作れなくなったりすると、お客様の店舗での売り上げにだって響いてくるんです。うちの会社の商品を選んでくれたお客様に、うちの事務のミスで迷惑をかけるなんてこと、あってはならないんです」


「はい。すいません」

 沙彩の何度目になるか分からない渾身の注意も、いつもの芙弓の「すいません」という言葉で、いや「すいませぇん」という、”いつもの言葉”で締めくくられてしまった。

 芙弓は、何度も何度も自分のミスを指摘されて青くなるわけでもなく、また不貞腐れるわけでもなかった。

 一応、謝っとけば”この場はおさまるだろう”ということが沙彩は見て取れた。



 何も言う気をなくした沙彩は、椅子にドカッと腰掛けた。

 しかし、ここまで沙彩を苛立たせている張本人である芙弓は、気にする風でもなく、先ほどと同じくぼんやりと眼前のディスプレイを眺めていた。


 自分のパソコンのディスプレイに向き直った沙彩は、社内チャットに新着メッセージが届いていることに気づいた。

 その新着メッセージの主は、やはり、向かい側の席で、今の一部始終を見ていないふりをしつつ、しっかり見て聞いていた安斎璃子であった。




(安斎璃子)

 大丈夫ですか?

 先輩、今日こそ、ブチ切れるんじゃないかって、ヒヤヒヤしちゃいましたよ。


(信谷沙彩)

 一応、大丈夫。

 今日も堪えた。なんとかね。

 でも、こう何度も何度も同じ間違いを繰り返されると、私の仕事だって余計増えているんですけどって、キレたくなる。


(安斎璃子)

 正直、あの人、使いモンにならないと思いますよ。

 仕事に慣れれば……ってレベルじゃないと思います。


(信谷沙彩)

 でも、まだ入社して2週間だし……

 私ももうちょっとだけ、頑張ってみる。


(安斎璃子)

 しかし、もう2週間もたったのに、あのポンコツぶりは洒落にはならないですって。

 私なら早くて3日、遅くて1週間でブチ切れてますよ。

 先輩がこの2週間のうちに、どれだけ何度も同じ事を注意したって「す・い・ま・せぇん」で終わらせてますし。

 本当に仕事覚えて、この会社でやっていく気があるなら、もっと必死で覚えようとすると思います。


(信谷沙彩)

 そうなのよね。

 あの人には必死さが足りない。それが一番、腹が立つ。

 いくらパソコンや事務作業が苦手でも、必死で覚えよう&スキルを向上させようとしているなら、まだこの苛立ちはマシだったと思う。


(安斎璃子)

 あの人って、単におばさんの皮をかぶった、ボーッとした子供にしか見えないんですけど。

 顔はともかく、中身はとても私たちより10年分以上の社会人経験を積んだ人とは思えませんよね。


(信谷沙彩)

 璃子ちゃん、それはちょっと言い過ぎだよ。

 でも、あの人、一体今まで、どんな仕事の仕方してきたんだろ。

 結婚したことはないって言ってたから、ずっと専業主婦で社会人経験皆無でパソコンに触ったこともないってわけでもないと思うし。

 多発にも程がある入力間違いだけでなく、簡単な書類の整理すらきちんとできてないし。


(安斎璃子)

 社会には、驚くほどに優秀な人もいれば、驚くほどにポンコツな人もいますよ。

 年がいってるからって仕事ができるわけでもないし、立派な心構えでもないって、割り切った方がいいかと。

 それに、先輩が気を悪くしたら申し訳ないんですけど、先輩があの人の尻拭いをしっかりとしちゃっているから、上の人たちにもあの人のポンコツぶりが伝わってないんだと思います。

 上の人たちだって、私たちの仕事内容や仕事ぶりを隅から隅までしっかりと見て、公平な目で正確に把握して評価してくれているって、信じ込まない方がいいかと……

 早いとこ「あのおばさんの指導は私の手に終えません」って、匙を投げちゃった方がいいですよ。


(信谷沙彩)

 ありがとう。璃子ちゃん。

 璃子ちゃんに、愚痴を聞いてもらって、すこし楽になった。

 今日も頑張る。

 ここ2週間ほど、かなりしんどいけど(泣)



 沙彩も璃子も、事務員として経験を積むうちに、その速度も正確さも極めたタイピングにて、社内チャットでの秘密の会話を終えた。

 沙彩は思う。

 腰塚芙弓が自分たちのように、顔色一つ変えず、カチャカチャと高速で秘密の会話を行うには、数年の月日を費やしそうになりそうだとも。

 いや、数年の月日を費やしても、腰塚芙弓には無理かもしれない。


 気が重い。

 手ごたえが微塵も感じられない腰塚芙弓の存在は、沙彩の中に日々蓄積されていく苛立ちだけでなく、これからの未来にも重しのごとくのしかかってくる存在となっていた。



 沙彩の重たく憂鬱な日々は、この月曜日だけでなく、火曜日も水曜日も木曜日も続いた。

 毎日、何回も同じことの繰り返し。「糠に釘を打ち続けること」の繰り返し。

 腰塚芙弓からは同じ「すいませぇん」という言葉を聞き、その度に向かい側の安斎璃子がヒヤヒヤとしていた。


 そして、金曜日。

 本日でトータル2週間、”糠に釘を打ち続けていた”沙彩は、金曜日の14時前にはぐったりとしていた。


 株式会社虹夢商事の通販事業部は、土曜日、日曜日、祝日は休業となる。

 よって、電話、FAX、ならびメールで届いた今週分の注文は13時30分で締め切りだ。締め切り後、同日の14時30分までに入力ならびチェックを終わらせ、出荷業務担当者へとピッキングリストを渡さなければならない。

 出荷業務担当者は、14時30分から定時の18時までの間に注文商品のピッキングと梱包を完璧に終わらせ、土曜日である明日の朝に虹夢商事まで集荷にやってくる佐々山急便指定の場所に出荷荷物を下ろしておかなければならない。



 14時前の今現在、出荷業務担当者へピッキングリストを渡すまでまだ30分以上、時間に余裕はあるといえばある状態であった。

 だが、腰塚芙弓が行っている受注書の入力には100%に近い確率で間違いがあるはずだ。それどころか、沙彩が横目でうかがうと、芙弓はまだ”カタッ……カタッ……”という具合で、入力作業を行っているようであった。

 仮に沙彩なら、20枚前後の受注書であるなら、どれだけ時間がかかったとしても10分弱で”カチャカチャカチャカチャ”という具合で、入力を終えることができるというのに。



 ――この人、本当に”私たち”と同じ星で生きてきた人なんだろうか……


 沙彩が教えれば、乾いたスポンジが水をみるみるうちに吸収するがごとく習得度を最初から見せていた後輩・安斎璃子と比べると、新入社員・腰塚芙弓は別の星に住んでいる生き物のようにしか思えなくなってしまっていた。


 そして、ついに腰塚芙弓に対する苛立ちには”嫌悪すら”混じってくるようにもなっていた。

 その容貌や立ち振る舞いを見ているだけで、苛立つようになっていた。

 皺やシミを隠すためにファンデーションをしっかりと塗るよりも、ミスなく仕事をしてくれ、と思うようにもなっていた。

 コンビニで買ってきたお弁当と小さなスイーツを美味しそうにほおばる前に、ミスなく仕事をしてくれ、と思うようにもなっていた。



 ”腰塚さん、今日、入力した受注書を見せてください”と、苛立ち+嫌悪を押さえて芙弓に向き直ろうとした沙彩であったも、鞄の中のスマホがバイブレーション機能によってブルブルと震えていることに気づく。

 こっそりと身をかがめ、スマホ画面をチェックする沙彩。


 震えるスマホは、母からの3件の電話の着信と1件のメールの受信を知らせていた。

 3回電話をかけたが、娘の沙彩と話をすることができなかった。だから、今度は母はメール送ってきたのだろう。

 母だって、この時間は沙彩の勤務時間であることは知っている。それにもかかわらず3件もの電話の着信と1件のメールを送らざるを得ないという事態。

 

――いったい、何があったの?


 何かの緊急事態が、ここより遠く離れた実家で起こったには違いなかった。

 沙彩の手が震えた。

 いやスマホを持つ右手だけでなく、自身の喉のあたりからも震えは広がっていっていた。


「!!!!!」

 メールを開いた沙彩の心臓がドクンとさらに大きな音を立てて、瞬時に全身を覆い尽くしたショックともに脈打った。

 母からのメールに書かれていたのは――


――沙彩、おばあちゃんが今日の昼過ぎに倒れました。すぐに救急車を呼んだのですが、もう危篤状態であるとのことです。運ばれた病院は、おばあちゃんかかりつけの長崎◇×病院です。知らせを聞いた親戚の皆も集まってきています。沙彩も、荷物をまとめて長崎県まで…… 

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