バブルなんて知らない銀行員・・・

まつえゆう

最初の思い

最初の思い 


 私の部下が自殺した・・・・・。


 その影響は大きく、自分としての責任と銀行に対する不信感や卒業したい的な複雑な気持ちが芽生え、結局私は退職した。


 私の勤めていた東西産業銀行は全国展開していた銀行だが、田舎と都会では全然雰囲気が違い。田舎はのんびり、都会はハードであった。その中でも、丸の内支店は、新人の配属があるにもかかわらず5年でほとんどが辞めたり、自殺者が出るほどハードな支店であった。でも、まさか自分がその関係者になるとは・・・。ただ、なぜだかわからないが、予感はあった。


 私自身はこのときはバリバリの課長としてやっている自負もあった。そこで新人の田辺が配属されることになったのだが、配属された田辺は頭はいいが、コミュニケーション能力は優れているとは言いがたく、いつも私から指導を受けていた。


 なかなか、お客さんとの関係も構築できず、悩んでいたのは確かだったと思う。指導も厳しくなるし、かといってパワハラには出来ないしという私自身もジレンマの毎日だった。


 当日も、外出したが予定していた時間よりも帰りが遅く、少し不安を感じている中、警察から電話が有った。そのときは、ドキッとして嫌な予感がよぎったが、やはり自殺ということであった。


 その後は、理由原因の解明のため、私や部下を含めた聞き取り調査なるものが頻繁に行われ、私も、部下も心身ともに疲労を感じ始めていた。私は、その年の年末支店長室を訪れた。開口「退職させてください。」支店長は、必死に引き止めてきた。新人がやめるのは多くいたが、バリバリの課長が辞めるのはレアで、私の為か、自分の人事評価の為かはわからなかったが、相当な引止めが有った。


 支店長は、「あれはお前の責任ではない。それは、会社としても調査の上わかっている。」、また「少し考えろ、まだ、退職の受付はしない。」と言って1回では了承されず突き返された。おかげで年末は、中途半端な気持ちですごした。


 家族には年末最後に伝えたが、妻からは「辞める必要があるのか?生活はどうするの?」といった当たり前の言葉がでて、私はこのときから家族との溝が出来た気がした。つまりは、私と結婚したのでは無く、銀行員の私と結婚したのだ。


 だから私の心配よりもお金が心配の方が大きいんだという現実的且つ自分本位な感情に落胆したということだ。私的には家族の意見はもっともだし、ドラマのように「あなたを信じているから頑張って」等言ってくれるはずも無いと思ってはいたが、やはり淡い期待は裏切られた。そこで家族には「心配するな」しか言えなかった。


 年が変わり、新年の挨拶時に支店長に再度気持ちは変わらないというとわかったと言われ、人事部に連絡してくれた。ただ、そこからがまた大変で人事部からもすぐ面接され、人事部長面接となった。私は、そこまで優秀な人間とは思ってはいなかったが、一連の動きに少し困惑気味でも合った。さらにいうならこの引止めの面接がどうしても納得いかなくなっていた。


 人事部長は私に、「辞める必要は無い、貴方は悪いわけではない」、「会社としても是非残って力を貸してほしいし、それなりのポストもある」。私は、言われればいわれるほど冷静になり残るつもりは微塵もなくなっていた。


 「とにかく、自分なりに責任をとりたい。部下も私も、好奇な目で内部的にも見られていて誰かが責任を取ったほうがいいと思います。」それでも納得してもらえず更に一週間が過ぎた。そこで人事部長宛に変わらない気持ちのメールをするとやっと了解され、今後に期待していますとのメールが届きようやく終わった。



 本当に終わったという感じとこれでこの銀行を卒業するんだという感じの二つだった。25年勤めてそろそろ次のステップを考えたかった私に訪れた突然の事件だった。ただ、私が抱えていたのは、この事件だけでなく東西産業銀行という組織の限界でもあった。何かを変えたいという気持ちと、硬直した組織に悩んだ半生でもあった。



 私が入社した1990年代半ば25年前は、バブルも崩壊した後の就職氷河期で自分のなりたいものとなれるものの葛藤の中就職活動をしていた。本当は、小学校の教員になりたく教職課程は終わっていた。しかし、教育実習なと就職の面接が重なった時、公務員試験の合格する自信も無かったので、就職を選んでしまった。

でも思いは、


『社会に貢献できるような銀行員になりたかった』



 東西産業銀行に入社しても最初は地方の鹿児島支店に配属だった。何もかもが新鮮で新しいスタートだったが、やはり東京で働きたかった思いがずっとあり、ついつい職場の歓迎会の挨拶時に、「鹿児島支店に配属になるとは思わず残念です。」などと生意気なことを言ったのを覚えている。初めての会社生活で何もかもわからなくて、「トイレ休憩があるか?」とか、「外に出てもいいか?」など、馬鹿なことまで聞いたりしていた。


 基本的には、朝は8時半から、勤務終わりは17時30分。但し、タイムカードは無く適当で月末に残業をまとめてシートに記載し上司に了解してもらうやり方で管理していた。残業は20時くらいは普通であったが、今と違いセキュリティも甘かったことから、持ち帰り仕事はよくして(させられて)おり、時には上司の家で部下全員仕事ということもあった。


 今と違って、パソコンが無くワープロか手作業であったから、持ち帰りも大きなカバンに書類をつめて大変だった。社内のシステムは今のようにLANでつながれているものでなく、作業もほとんど手書きだった。また、セキュリティのミスについてもまだあまり厳しくなく、Faxの間違いをしても、お客さんに「すみません送りなおします」や、「間違った分は捨ててください」が平然と通っていた。仕事の持ち帰りもの時の資料についても、今みたいに持出や持込禁止ではなかった。


 鹿児島支店時代はリクルーターで採用してくれた先輩達には恵まれていたが、上司はそれほどでは無かった。パワハラな戸田次長が、「明日朝一で机の上に稟議をおいておけ」と意地悪くいうとつまりは持ち帰って仕事しろということだ。もっとあからさまに「夜10時くらいに課長の家に見に行くから」など言われることもあった。そうした日は持ち帰り残業で、上司の前田課長の家に集合となる。


 われわれ部下4名は、一旦家へ帰宅し着替えてご飯食べた後、午後8時くらいに集まり仕事始める。上司に恵まれることはあまりなかったが、この前田課長だけは非常にやさしく仕事もやりやすかった。軽い感じだが、明るく常に前向きで怒られることもほとんどなかった。持ち帰り残業は入って5年ほど続いたが、その後は急にセキュリティが厳しくなり持ち帰り仕事は禁止になった。


 今では大問題になるようなパワハラも横行していた。パワハラで有名な戸田次長はよく、部下を自分の机の前に1時間はゆうに立たせて説教をするのだ。


 ロックオンされていた50才過ぎの仕事のできないおじさん等が脂汗をかいて本当に汗が次長の机に落ちたときは「汚ねえんだよ。机早く拭けよ」と今ではありえないようなことを平気で言っていた。


 更にすごいのは、夜9時くらいに携帯にかけてきて、今飲んでるが私にも来いと誘ってくる。しぶしぶいやいや行って2時間位お相手をすると翌日次長は平気で「割り勘だからな」と請求してくるのだ。


 また、最悪なのは課長と相当詰めてきている案件を当初はやろうと言っていたのに、自分の機嫌が悪くなるとやるのは止めろといい出したときなどはあきれて本気で喧嘩したこともある。


 次長に「役に立たないからもう帰れ」といわれたときなどは「わかりました。帰りますよ」と言い、反抗して別室で仕事していた。その次長が今度は前田課長に人事評価を落とせといったのを覚えている。私の銀行人生は最初からつまずいていた。後日談で更にすごいのは、戸田次長が支店長になったと聞いたが、ミスした担当者を取引先の社長の前で土下座で謝らせた等いろいろ武勇伝は続いていたらしい。


 鹿児島支店での最初の担当は預金業務であった。新人のうちは、システムの入力で打鍵と呼ばれていた作業や、現金を日銀に預けたり、払い出したりする仕事だった。銀行に現金は必要な分しかおいておらず、大きな金額はないのが現実だ。


 高金利定期の満期を迎え始めた時期であったことから、多額の現金が満期を迎えるときは、何億というお金を取りにいくのだが、日銀の職員が白衣を着ているのがとても珍しかったのと、現金はとても重くかさばるため、1億でもジュラルミンケースにいっぱいになることから、銀行強盗などとても出来ないなと思ったのを覚えている。

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