第6話『メモリーフレーバー』

 午後6時過ぎに沙奈会長と真奈ちゃんは家に帰っていった。

 明日は荷物もあるので、姉さんの運転する車で沙奈会長と真奈ちゃんの家、八神市に住む副会長さんの家に合流し、そのまま旅行に行くことに決めた。

 琴葉を加えて5人の夕食がひさしぶりだったこともあってか、父さんはお酒を呑むと号泣しっぱなしだった。昔は泣くことなんて全然なかったのに。年取ったな。俺も父さんと同じくらいの年齢になったらそうなるんだろうか。

 夕食を食べ終わると、姉さんは旅行の荷物を確認しておきたいからと自分の部屋に戻っていった。なので、僕は琴葉と2人きりで過ごすことに。


「まさか、レイ君のお部屋でゆっくりと過ごせる日がまた来るなんてね」

「そうだね」

「しかも、明日からみんなと一緒に旅行に行けるなんて。夢にも思わなかったよ」

「僕も嬉しいよ。修学旅行にも行けなかったからね」


 2年前の事件が起きたときには想像もできなかったな。あれから、琴葉はずっと意識不明になってしまい、僕は警察に逮捕され禁固刑を受けてしまったから。未来が全然見えていなかった。そんな状況を変えるきっかけを作ってくれたのは、沙奈会長とアリスさんじゃないだろうか。


「そういえば、退院して家に帰ってからも、アリスさんとは会っているの?」

「うん、たまにあたしの部屋に遊びに来てくれるよ。旅行のことを話したら、もしかしたらちょっと顔を出すかもしれないって」

「そ、そうなんだ」


 いつでもどこでも姿を現せる彼女ならではのコメントだな。もしかしたら、今もアリスさんは僕と琴葉の様子を見ているのかも。


「……あっ」


 部屋の中を見渡して、ベッドや机、本棚とかを見てみるけど……盗撮用のカメラはない。どうやら、琴葉が泊まりに来るから監視することはないようだ。


「どうしたの? レイ君」

「いや、前に沙奈会長が泊まりに来たとき、僕が寝ている間に盗撮カメラを仕込んでいてさ……」

「なるほどね。あたしがレイ君の家に泊まるから、様子を確認したくてカメラを設置しているかもしれないと思ったわけだ」

「うん」

「電話をしたときも色々と条件を出されたもんね。お風呂に入るのも寝るのも麻実ちゃんと一緒だから大丈夫だよ。アリスちゃんも逐一見なくても大丈夫だからね」


 琴葉は笑顔で手を振っている。


「これまで、アリスちゃんの魔法を使って、レイ君や沙奈さんのこと見ていたからさ」

「そうだったんだ」


 ミッションが成功するかどうか見守るために、何かしらの手段を使って僕や沙奈会長の様子を見ているか。琴葉のことが大好きそうだから、今日のここでの様子も見ていそうだ。もしそうなら、彼女にも僕のばぶばぶを聞かれていたことに。


「どうしたの、レイ君。ちょっと顔が赤いけれど……」

「……随分と恥ずかしいことを言っちゃったなって」

「あぁ、ばぶばぶのこと? 思ったよりも可愛かったけどな。……ばぶばぶ」

「……今のはかなり可愛かったよ」


 きっと、沙奈会長もばぶばぶ言ったら可愛いのだろう。旅行中に2人きりになったときに、気が向いたら頼んでみようかな。


「明日からの旅行が楽しみだね、レイ君」

「そうだね。無理をせず、体調に気を付けながら旅行を楽しもう」

「うん! たくさん楽しんで、たくさん思い出を作りたいな」

「……僕もだよ、琴葉」


 僕は琴葉の頭を優しく撫でる。そのためか、琴葉も嬉しそうな笑みを浮かべている。このことはしてもいいですよね、会長。

 ――コンコン。

 ノックをするとすぐに扉が開き、姉さんが部屋の中に入ってきた。


「荷物、用意できたよ。夕ご飯を食べ終わってすぐにお風呂のスイッチを押したから、もう入ることができるんじゃないかな。ひさしぶりに一緒に入ろうか、琴葉ちゃん」

「うん、分かった!」

「玲人はどうする?」

「僕は2人の後にゆっくりと浸かるよ。沙奈会長から琴葉とのお風呂禁止令が出たからね」

「あと、一緒に寝ることもね」


 そう言う琴葉は特に不満そうな様子なかった。むしろ、可愛らしい笑みのままで。ひさしぶりに逢坂家に来られて嬉しいのだろう。


「なるほどね。まあ、恋人ができればそうなるか。分かった。じゃあ、今日はあたしと一緒にお風呂に入って、一緒ベッドに寝よっか、琴葉ちゃん」

「うん!」

「僕のことは気にせずに、ゆっくり入ってきてね。そうだ、琴葉の荷物……姉さんの部屋に置いておこうか」

「うん、お願いします、レイ君」


 それ以降はほとんど……僕は1人の時間を過ごした。今日は沙奈会長や真奈ちゃんも家に来て誰かと一緒にいるときがほとんどだったので、たまにはこういう静かな時間を過ごすのもいいだろう。


「あははっ!」

「面白いね、麻実ちゃん」


 隣にある姉さんの部屋からは、琴葉と姉さんの楽しげな声が聞こえてくるし、


『明日は楽しみだね、玲人君』


 などという沙奈会長からのメッセージが届いてくるので、寂しさはあまり感じなかった。色々な想いが詰まった明日からの旅行……思い切り楽しむにしよう。そう心に決めて今日は普段よりも早めに眠るのであった。




 何だか不思議だ。

 沙奈会長と一緒にいるのに、感じる匂いは琴葉のものだから。周りを見渡しても琴葉の姿はなく、見えるのは嬉しそうな沙奈会長だけだ。

 沙奈会長が目を瞑って顔を近づけていく中、視界が真っ白になった。



「夢、か……」



 ゆっくりと目を開けると薄暗いけど部屋の天井が見える。もう朝なのか。昨日はいつもより早く寝たからかスッキリとした目覚めだ。


「レイ君……」

「……えっ?」


 気付けば、僕のすぐ側で僕の方を向いてぐっすりと眠っている琴葉がいた。沙奈会長が側にいるのに琴葉の匂いがしたのはこのためだったのか。


「だけど、どうして琴葉がここに……」

「どうしているんだろうね? 玲人君」

「それはこっちが聞きたいですよ……って、沙奈会長!」


 ベッドの側に、鋭い目つきで僕のことを見つめてくる沙奈会長がいた。昨日とは違ってワイシャツ姿だ。


「どうして沙奈会長がここに……」

「一応、彼女として様子を確認しにここに来てみたの。15分くらい前かな。そうしたら、あら不思議。何と玲人君と琴葉ちゃんが、一緒のベッドで寄り添ってぐっすりと眠っているではありませんか。起こそうとしたけど、2人の寝顔がとても可愛かったから起きるのをじっと待っていたんだよ」

「……そうですか」


 僕の寝顔は知らないけど、琴葉の寝顔は確かに可愛らしい。そのおかげで叩き起こされずに済んだのか。


「どういうことなのか説明してもらおうかな、玲人君」


 すると、沙奈会長は両手で僕の首を押さえてくる。段々と苦しくなってきた。説明してもらおうとしている人の首を絞めないでしょ、普通。


「昨日の夜、寝る前に琴葉と姉さんに一声かけて……このベッドで1人で寝ました。それからは……ついさっきまで一度も起きることはありませんでした」

「……ほんと?」

「本当ですよ、沙奈会長」


 むしろ、僕もどうして琴葉がここで眠っているのか知りたいくらいだ。きっと、沙奈会長は昨日の夜、このベッドで僕と琴葉がイチャイチャしたと考えているんだと思う。


「……嘘をついているようには見えないかな」


 沙奈会長はようやく首から手を離してくれる。


「けほっ、けほっ……そう思っていただけて嬉しく思います」

「でも、今もなお琴葉ちゃんがここで眠っている。これは琴葉ちゃんから話を聞かないといけないね」

「そうですね」


 すると、沙奈会長は艶やかな笑みを浮かべて、


「……じゃあ、琴葉ちゃんが起きるまでの間、キスしよっか」


 小さな声だけどしっかりとそう言ってきた。

 そんな沙奈会長にドキッとして、僕は彼女のことを抱き寄せてキスする。琴葉の温もりもいいけど、唇から伝わる沙奈会長の方が僕にとっては最も愛おしい。

 唇をゆっくりと離すと、


「止めちゃ……やだよ」


 間髪入れずに沙奈会長はそう呟き、彼女の方から唇を重ねてくる。

 やがて、沙奈会長の舌が僕の中に入り込んできて。僕と琴葉が一緒に寝ていたのを見たことで抱いた不安を、少しでも晴らせているといいな。


「ううん……」


 琴葉の声が聞こえたので、沙奈会長は僕から唇を離した。

 そして、琴葉はゆっくりと体を起こして目を擦る。


「……あれ、どうして……レイ君がここにいるの? あと、見間違えていなければ沙奈さんも」

「玲人君のことが気になって、今は7時ちょっと前だけれど様子を見に来たの。そうしたら、玲人君と琴葉ちゃんが一緒のベッドで寝ていて……」

「……本当だ。ここ、レイ君のお部屋ですよ!」


 ようやく事態が把握できたのか、琴葉は目を見開いた。


「琴葉ちゃん。どうしてレイ君のお部屋にいるのかな。さっき起きた玲人君に訊いたら、昨日の夜……玲人君は1人で寝たから何も知らないって言っていたよ」

「ええ。麻実ちゃんの部屋の扉を開けて、おやすみって言っていました。それから30分くらい経って、あたしは麻実ちゃんと一緒に寝ました。それで……あっ!」


 すると、何を思い出したのか琴葉は頬を赤くする。


「夜中に起きて、お手洗いに行ったんですよ。それで……寝ぼけていたのか、レイ君の匂いがする方に歩いて行って、レイ君のお部屋に入ってしまったんです。それで、レイ君に寄り添う形に眠ってしまったのだと思います。昔はレイ君と2人きりで寝るか、麻実ちゃんと3人で寝るときもレイ君の隣だったんで……」

「じゃあ、寝ぼけていたことで昔の感覚になっちゃって、このベッドに戻っちゃったってことだね」

「……はい。ごめんなさい、約束を破ってしまって……」


 琴葉は沙奈会長に対して深く頭を下げる。


「ごめんなさい」


 琴葉と一緒に寝てしまったことは事実なので、僕も会長に頭を下げる。


「2人とも顔を上げて」


 沙奈会長がそう言うので、ゆっくりと顔を上げるとそこには彼女の笑みがあった。


「琴葉ちゃんも本当のことを言っているみたいだから、約束は破ったけど不問にするよ。まあ、一緒に寝ている琴葉ちゃんが羨ましいと思ったから、その分、玲人君には旅行中に甘えようと思っているから。それに、昨日は私のわがままで玲人君にばぶばぶ言ってもらったからね! 昨日、帰ってから何度もその声を聞いたもん」

「……あ、あの声を録音していたんですか?」

「うん、スマートフォンで録ったよ。玲人君のばぶばぶが聞けるチャンスなんて、この先きっとないと思ったから」

「……そうでしたか」


 あのばぶばぶが録音されていたなんて。今までそれを疑わなかった自分が情けない。真奈ちゃんも嬉しそうだったから、音声データは真奈ちゃんのスマートフォンにもありそう。


「……後であたしにそのデータをくれませんか?」

「もちろんいいよ」


 沙奈会長と琴葉は握手を交わし、頷き合う。今日から旅行だし、2人の関係が険悪にならずに済んで良かったよ。ばぶばぶと言っておいて良かったと初めて思うのであった。

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