karma2 時間は大切に
1月8日。梁がむき出しの天井に吊るされたライトが、目を細めたくなるほど
学校の体育館よりも広い室内は、あきらかに空間にゆとりがあるにもかかわらず、異常な暑さを感じた。広い空間の壁に沿って走っている人々が、大きなかけ声を発しているせいでもなければ、熱を持った息と体から放出される温度のせいでもない。かすかな温度変化はあるだろうが、最も大きな影響を及ぼしているのは、壁の隙間から出てくる熱風だった。
この大きな部屋の壁は少し特殊な構造をしている。言うなれば車の冷房・暖房の吹き出し口のようになっており、上下に風向きを調整できる。
この地下には熱を逃がすための管がいくつも通っており、常時熱を地上へ逃がしている。
また、熱を逃がす方向を変えて、この地下10階にある訓練フロアの第三訓練室に送ることもできる。機械が持った熱や室内に溜まった熱など、防衛軍基地から集まった熱を浴び続けながら候補生たちは走っていた。
長い列の先頭を引っ張っている指導官のペースで走る人たち。汗にまみれ、濁った白のアスファルトに汗粒が落ちていく。
「10周目!」
先頭を走っている指導官が声を張り上げた。呼応するように候補生が「オウッ!」と大声を出す。
氷見野は列から遅れながらもまだ走っていた。氷見野の髪はバッサリ切られ、ベリーショートになっている。苦しそうな息を吐きながらも、前を見据えて懸命に足を動かす。
候補生のランニングにはルールがある。
指導官が周回数を言ったら必ず声を出すこと。
指導官に1周遅れにされたら走るのをやめること。
候補生がやる気を示して「やらせてください」と言い張っても、強制的に走りをやめさせられる。周回遅れになったからといって、すぐに退校となるわけではないし、罰としてメニューが増えることもない。
未熟な部分を指摘されたら、それをどう改善するのか考え、改善のために実践したことを電子ノートに書き留め、指導官に提出する義務がある。フィジカルトレーナーやスポーツ栄養士などから個人データと助言が送られ、そのパーソナルデータを元にして日々精進していくことが、候補生の短期目標になっている。
氷見野と同じ年始の時期に入った候補生やまだ月日の浅い候補生のほとんどは、隊列から遅れていた。指導官は容赦なく最初よりスピードを上げている。候補生の走りをチェックしている指導官は、脳髄まで響くような声を上げて候補生を鼓舞する。
氷見野は気力を振り絞り、前へと気持ちで押し出していく。床を蹴る靴音が訓練室で長い時間鳴り続けていた。
氷見野は新居に戻った。一般生活棟とは間取りが違う。お風呂とトイレが別になったのは嬉しかった。
氷見野は部屋の中を進み、疲れ切った体をベッドに預ける。
初日から本当にしんどかった。この先自分がやっていけるのかどうか不安になる。
1周500メートルにも及ぶ25周のランニングを終えてから、場所を変えてダッシュを20本した。“ダッシュ”と言っても全力で真っすぐ走るわけじゃない。
候補生はARの眼鏡を装着し、全長150メートルをダッシュしていく。スタートした候補生の目には、ブリーチャーの10本の触手が自分に向かってくる光景が見えるようになる。
それを避けながら奥にあるゴールラインまで走らなければならない。もし当たったら眼鏡のフレームが赤く点滅する。他の候補生の話によると、ブリーチャーの攻撃を避けられる人ほど指導官の評価は高くなるらしい。
しかし、ブリーチャーの触手を避けるのは容易ではない。四方八方、上下など、ありとあらゆる方向から飛んでくる。
浪人している訓練生でもすべて避けられる人はいなかった。ブリーチャーの触手は並みの反射神経では避けられないと思い知らされる。
その後、腕立て、膝裏で棒にぶら下がって腹筋、ボルダリングの壁のようなところをぶら下がって横移動したり、ダクトの中に入ってほふく前進をしたり。
連なったプレハブ小屋に入って、壁や床、天井にランダムに配置されたセンサーが光った瞬間触れるというメニューをこなした。
光ったセンサーには10回触れなければ小屋から出られない。10回未満でプレハブ小屋から出ようとすると、AR眼鏡が反応して赤く点滅する。そしたら候補生は指導官にプレハブに戻るよう命令されてしまう。
これを30分間繰り返さなければならない。光ったセンサーは1秒後には消えてしまうため、これもかなりの体力を奪う。
途中で水分補給ができるからまだ助かっているが、筋力トレーニングメニューでの評価は、何回繰り返すことができたかにかかっている。水分補給をおこたって回数を稼ごうとした新人候補生は、途中で倒れて離脱していた。
氷見野はこのままでは寝てしまうと思い、シャワーを浴びようとベッドから起き上がった。引き出しから着替えやバスタオルを取り出し、ベッドに置く。汗臭い服を脱ぎ捨て、バスルームに入った。
入校から3日目、サバイバル生活に必要な知識を学ぶ講義が行われた。食用や薬になる草と花があることは知っていた氷見野だったが、覚えている種類は少ない。
また、体の仕組みや動きに関する運動力学や栄養学、更にはウォーリアやブリーチャーの生態について勉強する1日となった。
ただ、ウォーリアやブリーチャーのことについて、おそらく日本で一番知っているであろう防衛軍でさえ、まだわかっていないことが多くあるようだ。
1日跨いで、5日目はまた同じ基礎体力訓練をし、6日目にはSITやSATの任務に長年就いている警察官から、様々な体術を学ぶ講習を受けた。この1週間のメニューを何度も繰り返していった。
ЖЖЖЖЖ
1ヶ月が経った。地上では記録的な積雪を観測し、大変なことになっているらしいと風の噂で聞いた。しかし、地下9階ともなると寒さもわからない。まったく別世界だ。
氷見野はベッドの上で仰向けになっていた。
今日の訓練は休み。こういう時、どこか気晴らしに出かけるのもいいんだろうが、そんな元気もなかった。
筋肉痛が治ってはまた再発を繰り返し、だるさと疲労感が全身を巡っているような感覚。こうしてベッドの上で大の字になって、何の変哲もない白い天井を見ていた方が楽だと、氷見野のナマケモノがささやいていた。
でも、ずっと寝ているわけにもいかない。少しずつ時は流れている。40年以上も同じ
シンプルな木製の机に置かれたノートパソコンを開き、電源を入れた。起動している間にラグカーペットの上に長方形の薄いマットを敷く。
氷見野はノートパソコンに近づき、手慣れた様子で操作していく。
女性の声がパソコンから流れてきた。画面の中でタンクトップに7分丈のパンツ姿の女性が
氷見野も同じようにマットの上で胡坐を掻き、姿勢を正して目を瞑った。
画面の中の女性は、動きの説明をしながら両肩を上下させる。氷見野も女性の指示通りにゆっくりとした呼吸で同じ動作をしていく。女性が首を回せば、氷見野も首を回す。動きは徐々に体全体に及ぶ。しなやかな動きが連動していく。
激しい訓練の中で、氷見野は不安を抱いていた。
テストを受けるためには、1年間の訓練を終え、訓練の中でテストを受けられる要件を満たす必要がある。だが、テストまでにこなせる体力が身についても、体が悲鳴を上げてしまったら元も子もない。
完全に怪我を防ぐことはできないだろうが、大怪我につながって入隊への道が閉ざされてしまうことは避けたかった。
怪我をしたから当分休んでリハビリに時間を
スポーツが基本得意ではない氷見野の唯一の自慢は、体が柔らかいこと。ところがどうだ。ヨガをし始めてすぐ、自分の体が思ったよりも硬くなっていることを認識させられた。
そりゃそうだ。結婚してからは家事ばかりで、空いた時間は手作りお菓子や料理を作っては写真を撮り、ブログに載せるくらいしかしてこなかったのだから。
運動は苦手意識があったし、恥をかきたくなかった。それが溜まりに溜まって、ツケが回ってきている。
ランニングも最後までついて行けたことがないどころか、周回遅れにさせられている。いつもみんなより遅く訓練を終えるような醜態を
時には同じ候補生から頑張れと励まされる始末。マラソン大会でゴールし終えたみんなから、残った自分が応援される忌み嫌う思い出が甦り、逆に頑張らなきゃと思えた。
氷見野の動きが止まった。体のだるさはどこへやら、少しスッキリした気分。氷見野は立ち上がり、パソコンの動画を閉じる。
マウスのそばにある透明な箱の蓋から、シアン色の羽の髪飾りが氷見野を見上げていた。
中島から貰った髪飾りは眠らせている。守ってもらってばかりじゃダメだと思い、本当に大切な時まで大事に保管しておこうと思った。それに、これからは守る側に回るのだから、意識作りをしていくのも大事な気がしたのだ。
体も心も強くなって、いずなの想いに応えてあげたい。髪飾りに目を奪われ、物思いに
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