侵入

* * * * *



 鈴を手に入れば鉄を持っていようとも森へ侵入できることを知ったまほろばの男は、切れ長の目元を細めて立ち上がった。


「皆を集めよ。森へ行って確かめる」


 主が口端を上げて発した命令に近侍が素早く返事をし、傍にいた兵を動かした。


「今からですか」


 そう尋ねた私に、男は笑う。


「試すのだ。その鈴だけでどれだけの力があるのか」



 有無を告げる暇も与えられず、半ば強引に未だに闇の中にあるような霧雨の降る森へ連れ出された。

 まほろばの男は自らの傍に近侍を侍らせ、鈴を持つ私を先頭に他の兵数名に鉄の大きめの武器を持ち込んで踏み入れさせたが、やはり一人の時と違わず鉄を持つ兵を連れても森に入ることが出来た。

 そこから侵入する兵の数を増やして同じことを繰り返し試みた。しかしひとつの鈴で侵入できるのは二十人が精々で、それ以上になると鈴から離れたところで雨風に流され、雷が降り注ぎ、樹が燃え盛り、死に触れられたことによる遺体が転がった。そして私以外の者が鈴を手にしても鈴の力は発揮されないようだった。そうしてまた地に転がる遺体の数が増えた。

 複数の死体が横たわる森の入り口を見ても、まほろばの男はまるで物を眺めるかのように冷静な面持ちで首を傾げた。


「なるほど、巫女の血筋か」


 私が巫女を出す一族の者だから、この鈴は力を発揮するのだろうか。

 足元に視線を落としたら、目眩がした。森への侵入を試みた回数は十回にも満たないのだが、精神が痩せ細ったかのような憔悴が感じられた。

 早く終わらないだろうか。人が死ぬのを見るのはもう沢山だ。誰かが音なく倒れるのを見ると、まるで己がその人間の殺めたような心地になった。


「ならば他の鈴ではどうだ」


 男の声で意識が引き戻された。近侍から作られたばかりと見て取れる鈴が渡される。

 震える腕を伸ばして鈴を手に持ち、私は再度顔を真っ青にさせた兵たちと共に森へ足を踏み入れた。だが社で巫女に使われいたこの鈴のみが特別であったようで、見掛けが同じものを作っても森の祟りや死を防ぐものにはならなかった。そうして先程よりも多くの死者が出た。


「もうひとつ、カミのために作られた鈴があると言っていたな。持ってきているか」

「こちらに」


 近侍が差し出した鈴が暗さの中で煌めいた。私が持つ物と全く同じに作られていたが、それの方がやや古かった。その鈴は沙耶が巫女として森の社に入る前に屋敷で持っていた物だ。もともと大巫女のもので、巫女の道具に慣れるためにと譲られたものだったが、社でカミを癒すために使われていた物であることには変わりなかった。

 これを大事に持っていたのは母だった。


「与一、これを持って森に踏み入れてみよ」


 古い鈴に持ち替えて鉄を手にした兵たちと共に入り込む。

 緊張感が一体を支配している。誰かが死ぬかも知れない。死が近くにいるかもしれない。今にも自分たちに触れるかも知れない。

 しかしそんな私の緊張とは裏腹に沙耶の鈴と同様、少しの抵抗感があるだけで森へ入ることができた。鈴はカミのために使われた物、もしくは巫女が使った物でなければならないようだ。

 この鈴も使えるのであれば、森に持ち込める鈴は二つとなる。鈴一つにつき二十人を守れるのだとすると、二つで四十の人間を鉄と共に入れることが出来る。

 私が戻るなり、まほろばの男は端正な顔を僅かに傾げ、自らの顎に手を当てて「なるほど」と呟いた。


「あれはまだか」


 男に尋ねられた近侍が「まもなく」と答えた。

 次に何をやらされるのかと途切れ途切れに息をしていると、聞き覚えのある子供の泣き声が背後から聞こえた。何故こんなところで子供の声がするのかと徐に振り返って見えた光景に愕然とする。

 兵に抱かれて後ろから連れられて来たのは自分の娘だった。


「沙世……!」


 母親から引き離されたらしく、癇癪を起こして泣き喚き、兵の腕に抑えられながら顔を真っ赤にして手足を大きく揺らし暴れている。子供を抱き慣れていないらしい兵は無理に幼い子供を押さえつけていた。あれでは痛みがあるに違いない。


「何故娘を連れてきたのです!」


 慌てて尋ねると、男はさも当然であるかのように馬上から私を見下ろした。


「あの童も巫女の血を引く娘だろう。鈴を扱える者が多いに越したことは無い」


 娘に鈴を持たせ、森に入れろということか。血の気が引いた。


「娘はまだ年端もいかぬ幼子です。役には立ちませぬ」

「血筋によるものか否か、確かめねばならぬ」


 背筋が凍るようだった。


「耳障りな泣き声だ。離してやれ」


 うんざりとした主の声で解放された娘は、地面に手を突きながらも立ち上がり、一目散に私に向かって駆けてきた。


「沙世!」


 私は駆け寄って泣く娘を抱き上げ、小さな身体を自分の腕の中に押し込めた。自分が守らなければならなかった。

 屋敷では娘を強引に連れて行かれたユキが血相を変えて心配しているに違いない。もしかすればユキも捕らわれているのでは無いだろうか。息子や母を人質にでも取られているのでは。


「試すだけならば良かろう。鈴を持たせ、森に数歩踏み入れれば良いのだ」


 冷たい声だ。血族でその鈴の力が発揮されるかは定かでは無い。もし間違っていれば沙世は森の祟りで命を落とすかも知れないというのに、その虫けらを見るような視線は何だ。この子が死のうがなんとも思わないのか。

 そこまで考えてはたと思い至る。

 その通りなのだ。何とも思わないのだ、この男は。

 森に入り、カミを殺めることだけが目的で有り、そのための駒である他の誰が死のうが知ったことでは無い。まほろばの兵であれ、近侍であれ、私であれ、沙世であれ。どれだけ遺体が転がろうと知ったことでは無い。あの死体はあの男にとって単なる物でしかない。

 自らが森に入ることはないから自分が死に関わることは無い。ただ虎視眈々とカミを殺め、沙耶を取り戻して大王に引き渡すことだけを考えている。


 己のために。



 娘を強く抱き締めながら、馬上の男に視線を向けた。

 あれは、恐ろしい男だ。


「……恐れながら」


 私は娘を隠すように抱いたまま、まほろばの男にはっきりと告げた。


「娘はまだここに連れてこられた意味も分かっておりません。森へは私が向かいます。故にどうか、娘のことはお見逃し下さいませんか」


 男は眉を顰めた。


「この場に来て何を言うのだ、与一」


 愚かだと言わんばかりに彼は嗤った。


「そなたが行っては試す意味がなかろう。そなた以外の者に行かせて鈴のことの確証を得なければカミとは戦えぬ」

「巫女の一族の血筋ならば、年端もいかぬ娘でなくとも、もう一人おります」


 増した己への嫌悪感に吐き気がした。

 私は娘が危険に陥るのが嫌で、他を犠牲にしようとしているのだ。


「私よりも、娘よりも一族の血を最も受け継いでいる者が最も相応しい。私とその者で森に向かえば話はうまくまとまりましょう」


 そこまで告げると男ははたと思いついたような顔をした。


「そなたの叔父か」


 喉の奥に固い何かがあるような感覚だった。飲み込めずにずっと声帯あたりにこびり付くような。腔内が渇く。喉の筋肉がひくつく。見開いた眼球が渇いていく。身体が震え出すようだった。

 しかし幼い手が自分の胸元の衣を掴んだ気配に後押しされるかのように、私は一度だけ深く頷いた。


 そうだ。

 私が娘の代わりに犠牲として出したのは自らの叔父だ。巫女の一族の直系に当たる父の弟。一族の者ではない母やユキの血を半分継ぐ私や沙世に比べれば、叔父は誰よりも巫女の血が色濃く流れている。


「気に食わぬ男ではあるが、確かに最も巫女の一族の血が強いのはあの男だろうな。与一もその娘も、母が一族のものではない故に巫女の血が薄まっているはずだ」


 面白そうに男は顔を綻ばせる。


「良い。連れてこさせよう」




 それほど時間が経たないうちに、縛られて捉えられた叔父がやってきた。叔父は髪や髭も整えぬまま、引きずられるようにしてまほろばの男の前に連れ出された。

 口を塞がれ言葉を発せないようでありながら、獣のように獰猛な眼差しを男に向けている。


「そう息を荒げるな。こうして改めて見るとまこと獣のようだな」


 叔父を見るなり、まほろばの男は感心するように言った。


「口を解いてやれ」

「誰がお前どものカミ殺しに加担するものか!!勝手にカミに殺されてしまえば良いのだ!」


 口が自由になるや否や叔父が叫んだ。


「そなたで試せば良いと提案したのはそなたの甥だぞ」


 まほろばの男のゆったりとした口調に弾かれるように叔父は私を見た。大きく見開かれた目に自分が映る。気まずさに顔を背けたくなった。

 誰よりもカミ殺しを反対していたのはこの叔父だったのだ。


「本来ならあの童で試すつもりだったのだが、父親の与一が嫌だと言って頷かぬ。故にそなたを出した」


 腕の中にいる沙世は小さくなって怯えていた。顔を真っ青にさせて、私から決して離れようとしない。その様子を見た叔父はすべてを察したように再びまほろばの男を静かに見据えた。


「あれほどの幼子に鈴を持たせて森へ入らせようとはさすがに獣のそなたでも思うまい」


 男は叔父を嘲った。


「あれほどの幼子を頼りにしょうとしたお前どもの気が知れぬ」


 叔父も歯を剥き出すように嗤って答えた。まほろばの男は怪訝な顔をしたが、左手をすっと上げて私の腕に治まる沙世を指さした。


「そなたが行かなければあの幼子が森へ行くことになるぞ。それを避けたいのであれば与一から鈴を受け取り、鈴のことを証明せよ」


 叔父は苦虫を噛み潰したような顔をしつつも私に歩み寄り、小さくなっている沙世を見てから鈴を受け取った。


「叔父上、何と謝ったら良いか……私は、私は……」


 謝罪するなり叔父はすべて分かっていると言うように少しだけ優しく笑んだ。

決して私のことを責めなかった。


「……沙耶のものだな」


 鈴を手にするなり、叔父はこの上なく悲しげな表情をしてそれを眺めた。

 巫女であった沙耶が使っていたもの。親族であった叔父もまた、沙耶がこれを使って舞っていた姿を目にした者だ。


「沙耶の舞は美しかったな」


 叔父の声はこの上なく優しさと懐かしさに溢れていた。その声をそのまま表情にしたような叔父の姿に、目頭が熱くなる。その熱に耐えられなくなった私は目を伏せた。


「あの子の歌は、何よりも優しかった」


 叔父の手元で鈴が鳴った。

 沙耶の声が聞こえる。暖かい光が灯る。それに伴って娘の震えが止まった。静かに瞼を開けると、暗がりにあるはずの世界は我々三人の周りだけ仄かに明るいように感じた。

 この鈴の音は春を呼ぶ。どれだけあたりに闇が立ちこめても、冬に凍えようとも、その音が聞こえるところは春に満ちた。叔父も沙世も、同じものを感じたに違いない。雨雲に包まれる天を三人が仰いだ。

 鈴の音に春を聞くことができるのは、おそらく私たちだけなのだ。


「その子を行かせるわけにはいくまい」


叔父は意を決したように足を踏み出し、まわりの兵たちに促されて森へ入っていった。




 叔父によっても鈴の力は発揮された。

 これで巫女の一族の血を引き、なおかつ巫女がカミのために使用した鈴を持っていることが森への侵入の条件であると証明され、このことから私と叔父のカミ殺しへの同行が決定した。

 霧雨が降る中、薄暗い世界で私はその命令がまほろばの男から下されるのを漠然と聞いていた。




 じっとりと濡れて重くなった衣に寒さを感じながら、屋敷への帰路を兵たちに囲まれて向かっていた。

 いくつかの死体が共に武器を乗せた荷車と共に運ばれていく。その轍を踏み、遠くにうっすらと浮かぶまほろばの男の馬の影を霧の中に眺める。鎧の当たる音がする。鉄同士がぶつかる嫌な音も。誰も語らない。声を発さない。生きているということを「死」から必死にひた隠すように皆が呼吸の音をも抑えている。

 屋敷への帰路はとてつもなく長く思えた。

 疲れていた。ひどく、身体が重かった。抱きかかえる小さな暖かみだけが私の理性と現実を一本の細い糸のように繋げていた。

 不意に、すぐ右側を歩いていた叔父が、私の腕で眠る沙世を気遣って己の衣を無言で掛けてくれた。


「……ありがとうございます」


 私が娘に深く衣を被せ直しながら叔父に声をかけると、相手は歩を進めながらゆっくりと視線をこちらに向けた。

 父には似ていないと思っていたその瞳の奥に自分が映る。一瞬、父に見られているような心地になった。


「今回のこと、なんと謝ればいいか分かりません。あなたを巻き込むつもりはなかった」


 本当のことだ。叔父はカミに畏怖の念を抱き、愛していた。カミ殺しに加担する私を止めようとしていた。そんな叔父をこの戦いに巻き込むことは叔父にとって何よりも酷なことのはずだ。

 しかし、その代わりに戦いに引きずり出されそうになったのは己の娘だった。


「愚かなことだと分かっていても、これが世の流れだと言い聞かせてここまで来ました。しかし、どうしてもこの子を巻き込むことだけはできなかった」


 己がどうなろうが、カミというものを無くせるのなら何でも良かった。だが娘が泣きながら連れてこられた時、驚くほど簡単にその決意は砕けたのだ。

 叔父は軽く息をつき、私の肩を叩いた。


「お前も父なのだ。気にすることはない」


 妻を持ち、子が生まれ、彼らが大切になればなるほど私の決断は鈍った。たとえそうでも娘や息子が何よりも愛おしい。今腕の中ですうすうと寝息を立てる娘が危険に晒されることを考えるだけで身が割かれんばかりの恐ろしさを覚えた。


「……この子は沙耶に似ているな」


 沙世に沙耶を見ているのだろうか。叔父の慈しむ眼差しは、かつて亡き父が幼い沙耶に向けていたものと瓜二つだった。私は叔父の言葉に、娘を抱き直しながら頷いた。


「だからこそ余計に守らなければと思うのかも知れません」


 己が守れなかった妹のようにはさせまいと。


「沙耶も、森で母となったのだろうか」


 遠い目で告げる叔父の横顔を見て、私は押し黙った。

 沙耶がカミとの子を出産したのなら、沙耶は森で細やかに暮らしているのだろうか。その子は人の形をしているのか。どんな顔を、どんな声をしているのか。私が化け物と呼んだその子に対して、私が娘に向ける感情と同じものを抱いているのだろうか。


「これも世の流れなのかも知れぬ」


 私の返答を待たずして叔父は静かに呟いた。


「この森のカミが死ぬとは決して思えぬ。ただ、これが避けられぬ道であるというのなら、この先のことを私はこの目で見届けなければならぬ。巫女の一族に生まれた者として」


 私と叔父で鈴を持ち、まほろばのカミ殺しの兵たちを森へ導くのだ。果たして生きて帰れるのか。


「鈴を持っていたとしても、森の奥へ行くのであれば我々もどうなるか分かりません。もしかすれば死ぬことも……」

「それならばそれまで。命が尽きるとなれば私はあの男を殺して兄の仇討ちをしてから死ぬことにしよう」


 叔父は最後に悪戯を企む子供のように笑って見せた。


「私は生きすぎたのやも知れぬ」


 雨音は叔父の囁くような弱い声とともに地に落ちて消えていった。




 私が沙世を連れて戻ってきたのを認めると、妻は泣きながら走り寄って娘を胸に抱き締めた。話を聞くに、やはり沙世と無理に引き剥がされたのだという。娘が目を開けて母を呼ぶと、ユキは更に泣いた。


「明日の夕暮れに、森へ向かう」


 娘を抱き締めたままの妻に私はそう告げた。

 傍で雨の音がする。人の涙が天から落ちているようだ。

 いくつも。いくつも。止むことを知らないように。


「私と叔父上で、先導する」


 はっと息をのんだ妻の瞳が、私と叔父を見つめた。

 どうなるかは分からない。カミが殺せるのかも、沙耶が戻ってくるのかも、そこに生まれた子のことも。私と叔父が無事に戻ってこられるかも。森のカミが殺された後のムラのことも、何もかもが不透明だ。


 すべては動き出し、止まることはない。どれだけ昔を懐かしんでも、これから生きていく中でそれが戻ってくることは決して無く、それを分かっていながらも我々は過去を偲びつつ流されるままに自らの意思を持ちながら先へ行くしかない。

 最早、誰にもこの世の流れを止めることはできなかった。


「母と子供たちのことを頼む」


 ユキは、目を伏せて俯いた。

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