Paradigm zero

狐島 秋

第1話 5 years ago

『──い!先──、─して──』


振りだした雨に打たれて、足元の血溜まりがアスファルトの上に薄く広がっていく。


耳元のインカムから聞こえる声には雑音が混じり、向こうから何を言っているか聞き取ることはもはや出来なかった。


雨垂れの向こうから人影が現れる。

乱反射した街灯の火が、右手に握られた日本刀を銀色に輝かせた。

赤く染まった刀を携え、全身を覆う黒色の装甲の隙間から、男は私を見下ろす。


もはや手も脚も動かせずに、私はその男を睨み返した。


「此処迄だな。拳も握れず膝すら突けず、ただ其処に這い蹲るしか出来ず、肺に傷を負ったままでは声を出して罵る事すら叶わぬのだろう」


なおも私は睨み続ける。


「貴様は勇敢だ。何かを守る強さ、其れは私には無い物だよ。畏れを知らぬ勇猛な獅子であった」


冷えきった雨に打たれ、血は流れ続ける。


「それゆえ敗北を知らぬ。恐怖を知らぬ。生きたいと云う生への執着が足りぬ。だがその強さは、何かを守るために己を省みぬ、鋭さのみの細剣の如き物だ」


雨は激しさを増し、残された視界すらも霞んでいく。


「その瞳だ。死に瀕して尚、生きるではなく守る、

奪おうとする瞳。とことん末恐ろしい娘だよ。願わくは、貴様のような輩とはもう合間見えたくは無いものだな」


そう言い残して、男の足音は遠ざかっていく。

親愛なる後輩からの声も、もう雑音すら届いていない。私の周囲を冷たい雨が満たしていく。


冬の湖の底へと沈んでいくような、そんなイメージが浮かんだ。

真下に広がるのは濃紺の闇。遥か彼方には白くきらめく水面が映る。

冷たい水に満たされた空間を、私の体がゆっくりと沈んでいく。抵抗できずに、抵抗せずに。


その先に待っているのは死なのだと、おぼろげに理解する。それを知ってなお、私は抗おうとはしなかった。


それどころか、沈みゆく私はどこか笑っている。その笑顔は晴々としたような、それでいて切なそうなそんな笑顔。



──あぁ、あっけないものだ。


己に向けた嘲笑だろうか、それとも苦笑だろうか。


そんな私の視界の端に、何かが映る。


手を伸ばす姿だ。

叫ぶように手を伸ばす姿だった。

見慣れた姿だ。

私が愛した姿だった。


──あぁ。


──あぁ。あぁ。あれは。


「蓮……くん……………」







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る