双蛇と箱

刀魚 秋

0.蛇と箱庭

 姉は優しい人だった。

 細い指先が書きかけの脚本を捲る。白い手袋を頑なに外さない彼女に、その潔癖の理由を問うたことは、そういえば一度もなかった。

 紙の擦れる音がする。姉の背から視線をそらさずに、わたしは廊下の気配を探る。たゆたう優しい沈黙を、意地悪い父母の使いが遮ってしまう前に、姉の部屋を出て行かなくてはいけない。

 そうしなくては――。

 姉がまた怒られてしまう。

 きっと、わたしのことを疎む気持ちもあるのだろうに、姉は来訪を喜ぶ。唇に人差し指を当てて、まるで幼子に聞かせるように、いつもと同じ悪戯っぽい声を漏らす。

 ――静かにしてね。

 わたしはいつも、扉を閉めて頷く。姉の空想が満ちた世界で、初めて深く息を吸う。

 同じ家にいるわたしたちは、二人きりのときにしか家族になれない。

 二人になったって、会話があるわけではない。町民の女の子がするような話は、わたしたちには何もない。だからいつも、姉は黙って本と向き合っていて、わたしはその背を見詰めている。

 だからなのか――。

 わたしには、姉をはっきりと思い浮かべることができない。

 女性にしては背が高い方だった。整った目鼻立ちは人形のようだった。行く先々で人目を惹いた。大人しい見た目とは裏腹に、口が立つ人だった。

 目を閉じたって、姿かたちはすぐに思い描けるのに――。

 表情だけが曖昧に淀んで、見えなくなってしまう。

 それでいつも、わたしは姉を振り向かせたくてたまらなくなる。どんなとりとめのない話でもいいから、彼女に語り掛けなくてはいけないような気がしてしまう。

 何か言わなくては、このまま姉が消えてしまうという焦燥が、ずっと心の中で震えている。

 けれど。

 探せば探すほど、わたしの中には何もなくなって――。

 結局、声を上げる前に、口は閉じてしまう。

 本は捲られていく。残りのページは少なくなる。その指先を少しでも止めたいのに、とうとうと流れる竜の涙で作られたという時間の流れは、決して止まってはくれない。

 恋の話ができればよかったろうか。なりたいものがあればよかったろうか。定期市で売られる宝石の話や、誰かの噂話を囁ければよかったのだろうか。そういう言葉で、市井の娘は竜の涙を止めているのだろうに。

 そのどれも――わたしたちには知りようもないのだ。

 何も思いつかないまま、沈黙は流れる。いつものように、わたしが部屋に戻ると言い出すまで、姉は穏やかにそこにいるだけだ。

 だが、その日だけは違った。

 紙の音が止む。椅子を引いて、姉がふと上体を逸らす。

 緑の髪の隙間で、赤い瞳が凛と瞬く。

 そのとき、彼女はどんな表情をしていたろう。相変わらずわたしには思い出せなくて、判然としないまま霞んだ顔が、勝手に笑顔で塗り替えられていく。

 ――ねえ、ルネリア。

 穏やかな声だったはずだ。確かに唇を持ち上げていたはずだ。眉根を寄せたりなんか――きっと、していなかったはずだ。

 その先の記憶ははっきりしている。

 わたしを見詰めたまま、姉は首を傾げた。

 ――私にお兄様がいたって言ったら、信じてくれる?

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