第二節 悶着

必死な声

 三百六十度、全方位が暗闇に占拠された落雷跡地、ノロとモカは巨樹に張り付いて背後を守り、周囲を警戒していた。

 ヘンリーとエイモンはその場で剣を抜き放ち、木立の隙間を睨むようにして視線を巡らせている。

 当然、朧げな月明かりでは沈んだ暗がりまでは照らせず、影を退けているのは焚火の炎だけだ。

 しかしそれだけでは頼りなく、闇夜は蠢く存在を認めるかのように、容易く影を引き入れる。

 さながらここは、空と地上の境界が混ざり合い、等しく闇に呑まれた世界であった。

「ジャバウォックめ、ついに嗅ぎつけたか……!」

 恐れおののくエイモンが、忌まわしげに言った。

 名を呼ばれた怪物はいまだに姿を現さず、けれどそこにいるとわかるのは、やかましくも騒がしい鳴声がするからだ。

 せせら笑うような、あるいは口汚く罵るようなその声は、不気味に森にこだまして、どこからともなく聴こえてくる。

「ノロ……」

 どこに銃口を向けたらいいのかわからず、モカが不安げな声を漏らした。

 この状況下で咄嗟に判断を下し、命中率の高い散弾銃フクロウを構えるあたり、オルタナ領でどれだけ真剣に訓練していたのかが窺える。

 また、眼にも強い意志が垣間見えるが、敵の位置が掴めないのでは意味がない。極めて致命的な事態であった。

「……おい、やつのことを教えろ。どんなやつなのか、どんなふうに人を襲うのか、あんたが知っていること全部だ」

 ノロはたまらず舌打ちすると、静かな声でエイモンを問いただした。

 それが彼にとって残酷な質問だということは重々承知の上だ。

 しかし今を生き残るため、ひいてはこの場をしのぎきるため、なによりモカを守るために、すぐそばまで迫り来る敵の情報は必要不可欠だった。

 なにせ相手は、亜種とは言えどあの竜類ドラゴン。生半可なことをしては乗り切れないのだ。

 ならば逃げることを最優先にするべきだが、夜の森を闇雲に動き回るのは得策ではない。

 なんにしろ、今は下手に動けないのである。

「ジャバウォックは四肢有翼種だ。だが飛翔能力は低く、記録ではにわとり程度とされていた。……それも眉唾物になったがな」

 エイモンも同様に今の状況を捉えているのか、意外とすんなりノロに応じた。

 その情報に虚偽があるかは別として、彼の言う通り大陸横断という大移動を成し遂げた今となっては、翼が飾りとは考えにくい。いったいどうやってここまでやってきたのだろうか。

 丁寧な口調が剥がれているが、命あっての物種だということは共通認識らしい、エイモンの情報は続く。

「しかしわたしらが一度逃げきれたのは、狩りに慣れていない幼体というのもあるだろうが、その翼のおかげとも言える。やつの翼は飛ぶというよりも、バランスを取る役割のほうが大きい。と言っても、鈍いわけじゃないぞ。移動速度は遅いが、獲物を捕らえるときは機敏に動く。……それと、やつの好物は人肉だ」

 剣先を目ぼしい方向に動かしながら、エイモンが言う。

 先ほどまで気にならなかった樹々が、なんだかおどろおどろしく感じられた。

「火は吹かん。やつの武器は爪と顎だ」

 それっきり、これで全部だと言わんばかりにエイモンは黙った。

「……わかった」

 まだ充分とは言い難いが、ノロはそう言うと、ちらりとモカの肩の上にいるフィローネを見やる。

 ここにきてやっと、自分らが誰にあざむかれていたのかを悟ったからだ。ノロは暴こうとする相手を間違えていた。

 エイモンたちがジャバウォックに出くわして、フィローネが出くわしていないわけがないのだ。

 それにジャバウォックのことを聞いたとき、彼女はその存在をあらかじめ知っていたようだった。

――そういうことか。

 ノロはひらめく。つまり彼女はこうなることを望んでいたのだと。

 どこから仕組まれていたのかはわからない。出会いは偶然だったはずだが、山に入るときに見つかっていれば、やはりこうなっていただろう。

 そうなれば、蝶を捕まえるのも、飛べなくなったのを理由にそれを郷まで運ぶようけしかけるのも、もののついで、予定調和だ。

 彼女は最初から、最近突如としてテリトリーに現れた、自分らが敵わない怪物に、誰かを仕向けるつもりだった。

 山のなか、この場所に案内したのも、ジャバウォックとの遭遇率を少しでも上げるためだと考えれば合点がいく。

 一つわからないのは、なぜエイモンたちに同調しなかったのかという点だ。

 山越えには時間がかかる。遅かれ早かれ、それが今日でなかったとしても、ノロたちはジャバウォックに襲われていたはずなのだ。ここにいるエイモンたちのように。

 それに、彼女がこうして今も一緒にいることもよくわからない。

 彼女の身体は小さく、翅がうまく機能せずとも逃げることは容易であるように思えた。

 好物の人肉がここに四つも並んでいるのだから、腹を満たすのならより大きな獲物を選ぶのは必定、自明の理だ。

「……モカ、俺がやつの注意を引く。その間にディアトリマたちの手綱を解いておいてくれる?」

 ノロが小声で囁く。フィローネがどう思おうとも、もはや関係なかった。気持ちを汲むには、相手が悪すぎる。

 だが、フィローネが何かを言うことはなかった。

 それならそれでいい。この場で気を割いておきたいのは、非力な小人フェアリーではなく、エイモンたちのほうだ。

 彼らの態度、なるべく会話を引き延ばすような振る舞いをしていたことから、狙いはおそらく食事などではなく、最初からジャバウォックを押し付けることが目的で声をかけてきたはずなのだから。

「……わかった。今度はわたし、撃てるからね」

 モカも小声で答えた。

 雰囲気に気圧されているのか、それともちゃんとノロの意図を理解しているのか、神妙な面持ちでうなづく。

 ノロはモカの返事を聞くと、音を立てないよう静かにツバメを鞘に戻した。

 そして一歩前へ出ると、右腰に吊り下がったイタチの柄頭を右手で突っぱね、鞘に収まったままの切っ先を、グイっと上に向ける。

「やりあう気か?」

 それを見てヘンリーが問いかける。ノロは無言だ。

「剣を抜いておけ」

 めげずにヘンリーが忠告した。ノロからの返事はない。

「そんな妙な形をした剣で大丈夫なのか?」

 気を悪くしたのか、ヘンリーはしつこく絡んできた。だが、ノロがそれらに応えることは、ついぞなかった。

 もうすでに、ノロは前へと跳んでいたからだ。

「――おいッ!」

 瞬発力。その一言に尽きる。

 足の爪先に力を込め、次の瞬間には地面を蹴っていた。

 後ろでヘンリーの焦った声が聴こえるが、そんなことに気を取られている余裕はない。

 なぜならジャバウォックもまた、それと同時に茂みから飛び出してきているのである。

――こいつがジャバウォックか……!

 焚火に照らされ、人喰いの怪物がその全貌をあらわにする。

 赤く爛々と光るまんまるな眼、牙の生え揃った口には門歯が目立ち、その両端、口角からはだらしなく垂れ下がるヒゲと、額でゆらゆら揺れる触角に、背鰭のような襟巻きまであった。

 闇に溶ける黒い体躯は全体的に細く痩せており、後肢に比べ長い前肢は枝のようで、まるで蝙蝠こうもりなまずを足したような印象を受ける。

「危ないっ!」

 そう叫んだのはフィローネだった。

 ジャバウォックがボロボロの飛膜翼を広げながら滑空し、筋張った前肢の長く鋭い爪を振り下ろしたのだ。

 エイモンの情報通り、奇襲からの流れるような機敏な動きだった。

 ノロはそれを懐に潜り込み間一髪でかわすと、ポッコリと出た下っ腹、その脇腹に狙いを定めてイタチを抜く。

 四肢有翼種の多くは、肋骨や背骨の突起を翼に変化させているためだ。ジャバウォックがもし前者なら、脇腹には肋骨のない箇所があるはずである。しかし。

「やつの弱点はそこじゃない! 第二頸椎から第四頸椎の間だ!」

 エイモンが声を張り上げる。ノロは先に言えよと思った。

 イタチの刃は硬い鱗に阻まれ、致命傷はもちろん、斬ることさえままならずに外皮を上滑りする。

 竜類ドラゴンは種によって信じられないほど硬いと聞くが、無翼種ならまだしも、まさか軽量化されているはずの有翼種がこんなに硬いとは想定外だった。移動速度が遅かったり、鶏程度の飛翔能力と評されているのはこのせいか。

 ノロはそのまま身を低くして、着地したジャバウォックの股座またぐらを抜け、長い尻尾に注意しながら距離を取る。

 そのとき試しにあちこち斬ってみたが、結果はやはり同じだった。

 捕食に失敗したジャバウォックは、翼を逆向さかむきに地面に突き立て、自重を支えている。

 その体高はノロの三倍はあろうかという巨体。これで幼体とは笑わせる。

「弱点は首だと言ったな」

「そうだ! 第二頸椎と第四頸椎の間、頭に近いほうだ!」

 言われてノロは首を見た。

 さっきまでは近すぎてわからなかったが、ジャバウォックは思いのほか頭でっかちだ。もたげる長い首が重そうにしなっている。

 これならまだ幾分か、対応できそうな気がしないでもない。が、突然の銃声。驚いたジャバウォックが衝撃を受けた方向へと注意を向ける。

「ノロ! 準備できたよ!」

 モカだった。まだ不安が拭いきれていない様子だが、その行動は確かに、あのときとは違う。

「わかった!」

 後肢で進み、翼で巨躯を支えながら、ジャバウォックがモカに迫る。ふらふらと愚鈍な歩みだ。

 ノロは素早くジャバウォックを追い抜かすと、嘴を打ち鳴らして威嚇するディアトリマに飛び乗った。鍋などどうでもいい。この場に残されたほうが獲物となるのだ。

 エイモンが「やられた!」と表情を歪ませるが、所詮は関係ないことである。ジャバウォックの遅さなら、彼らもまた逃げきれるだろう。

「行くよモカ!」

「えっ!? わ、わかった! こっちだブサイク!」

 なぜかモカがジャバウォックを焚き付けるが、ディアトリマの足なら問題ない。

 ノロがそう思って走り出すと、モカもディアトリマの羽を膝の裏で挟み込み、走れの指示を送る。だが。

「ごめんね……ごめんなさいノロくん! さよならモカっ!」

 フィローネが、モカの肩から落ちた。いや、自ら飛び降りた。

 このときになって、ノロはようやく彼女の心情に触れられた気がした。でも、残念ながら、その望みに応えてはやれない。

「フィーネさん!」

「ダメだモカ! 戻って!」

 フィローネを追って、モカがディアトリマから飛び降りた。条件反射でノロも飛び降りる。

 この機を見逃さなかったのはエイモンだ。調教が染みついたディアトリマたちを指笛で呼び寄せると、モカたちと入れ替わりその背に飛び乗る。

 実はエイモンは、ジャバウォックを押し付けることよりも、これを狙っていたのである。

「すまない若人わこうどよ! しかしわたしも使命なのだ! 若様! 行きましょう!」

 言い残し、駆け去ろうとするエイモン。促され、ヘンリーも苦々しい顔をしながらそれに従う。

 しかし、そんなヘンリーが振り返って目にしたものは。

――女?

 自分と同じ歳の頃をした、うら若き少女の姿だった。

 極限状態にあり気にしている暇がなかったが、今思えばの声、名前もではなくと呼ばれていた。

 華奢で小柄で、普通で平凡な、田舎臭い女の子。そんな少女が、銃を構え、勇敢にも怪物に立ち向かおうとしているではないか。あの小人フェアリーを追って。

――僕は何をしている……っ!

「エイモン! お前が僕に教えた剣は、乙女を見捨てるためのものなのか! もしそうであるならば! 僕はこの剣と同様すでに錆びている!」

「若様! なりません!」

 彼らもまた、繰り返しだった。

 ヘンリーはディアトリマから飛び降りると、収めた剣を再び抜き放ち、怪物に向かって高らかに声を響かせる。

「我が名はヘンリートッド・ウェスクス! ウェスクス伯領が長子、いずれ領主を継ぐものだ! 一度は背を向け逃げた非礼、今詫びよう!」

 エイモンが、肩を落として天を仰ぎ見た。

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