第8章 忘れられない瞬間(3)




「守屋さんからのお話の前に、もう一つ重大な話があります」

 椎名はそう前置きしてから、ずばりと言った。

「東郷正将さんも他殺の疑いがあります」

「…え?」

 一番前に座っていた、一志が一言声をあげて腰を浮かせる。

「父が? え……でも」

「最初は事故ということでしたが、今回の浩二さんの事で、そうではない可能性もあると言う事です」

これには全員が顔を見合わせ、ざわついた。

「ははっ! やっぱりだ。じゃあ父さんは事故じゃないわけだ! これで遺言は無効なんでしょ? そうでしょ守屋さん!」

 万沙子が勝ち誇ったように、立ち上がった。

 そうなのだ。

 僕は、ちらっと円香を見た。遺言では正将氏が、「老衰、事故、病気」の場合に円香が遺産のすべてを受け継ぐ事になっていたのだ。もしそうではなく、他殺――あるいは自殺の場合は、万沙子の言う通り遺言は無効になる。

 円香は財産全てを受け継ぐ事に、躊躇していた。

 だが、円香は何も言わず、じっと俯いている。

「守屋さん! もう一つの遺言状を見せて下さいよ!」

 一志の必死な声が聞こえて、僕は視線を一志と守屋に向けた。

「刑事さんの言う通りで、正将氏が他殺か自殺の疑いがありますので、最初の遺言は無効になる可能性があります」

 守屋の言葉に、まだ立ったままの万沙子が「それみろ」と言わんばかりの顔で、一志や円香を見下ろしている。

 二つあった封筒のうちの一つを、守屋がゆっくりと開き、中から白い紙を取りだし広げた。

 部屋の中にいる全員の視線をあびながら、守屋がはっきりとした口調で読み上げた。



「遺言状。私こと東郷 正将が自殺、あるいは他殺の場合、私の孫である円香に全ての遺産を相続させる…」

「見せて!」

 守屋が言い終わらないうちに、万沙子が大股で近づき、遺言状をひったくった。

 それにしても――――遺言状の内容は、なんと同じものだったとは。

 安心したように、妻の悦子と顔を見合す一志とは対照的に、万沙子の顔はみるみる蒼くなっていく。

「馬鹿にしやがって!」

 突然の事だった。

 万沙子は手にしていた遺言状を、いきなり二つに裂いた。

「万沙子! やめろ!」

 蒼白になった、一志と賢三に両脇から押さえられ、二つに切れた遺言状が、守屋の足元に落ちた。

 守屋はそれを拾い上げると、軽く頭を振った。

「何という事を…」

「煩い! ちくしょうめ! こんな事あってたまるか――!」

 万沙子の目は血走り、太った体を揺すり、必死でもがいている。そんな万沙子をちらりと見て、守屋は言い難そうに口を開いた。

「……残念ですが。もし異議を申し立てても、財産分与の権利がなくなる可能性がありますよ」

「え…?」

「万沙子さんは、法定相続人ですので…」

 守屋の言葉を聞いたとたん、万沙子は小さく震えていた円香に掴みかかろうとした―――が、まだ押さえられたままだったので、上半身だけ突き出した格好で悲鳴のような声をあげた。

「お前が…! お前が父さんをたぶらかして書かせたんだろ!」

「わたし…」

 円香は必死になって首を振る。

「義姉さん、ご自分でなさった事でしょう? 円香のせいにするなんてお門違いもいいとこだわ」

 追い討ちをかけるような悦子の台詞に、万沙子はいよいよ暴れだし、一志達に代わって二人の息子と夫の基が、万沙子を引きずるようにして部屋から出て行った。



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