4-6

「あ、ちょっと! 待ってよ、これどうしたら……」


 慌てて砂糖菓子の包みを拾い上げ、リンも転がるように駆け出した。

 草を踏む軽やかな足音がレグルスの耳に届く。何やらぷりぷりと文句を言っている声まで聞こえ、苦笑交じりにレグルスが振り向きかけた――その時。


 空を切る、音がした。


「! な……っ!?」

「レグルス!」


 短く叫んだリンが、躊躇うことなくレグルスの背中を突き飛ばす。

 不意打ちに体勢を崩したレグルス諸共、勢いついて坂を転がり落ち、リンが手にしていた砂糖菓子は辺り一面に散らばった。咄嗟にリンを庇って身を翻したレグルスは、坂下で漸く止まった時強か地面の石で背を打ち付ける。

 ぐっと歯を食いしばって堪えると、リンの肩を掴んで問うた。


「リン! 何だ今の、無事……」


 身じろぎひとつしないリンの様子に、ぞくりと悪寒が走った。


「……リン?」


 薄暗い月明かりの中、レグルスは恐る恐るリンの背に手を回す。じっとりとブラウスを濡らす冷たい液体は、色も臭いもなく、血ではない。体温や脈は、元からない。


 ちょうど左胸の裏側辺りには、深々と突き刺さった矢が一本。


「! おい、これ……お前」


 レグルスの胸にしがみ付いていたリンは、けほ、とおかしな咳を漏らす。


「だいじょぶ……ちょっと、痛いだけ」


 途切れ途切れ、そう言って笑おうとしたけれど、どうにか浮かんだリンの表情は笑顔からは程遠いものだった。


「大丈夫、って、お前、何言って」

「言ったでしょ、わたしが守るって。……なんて大口叩いてこれじゃ、笑っちゃうわよね」

「馬鹿、笑えるか! おいこれ、血、ではないけど、こんな……」

「いいの。焼かれでもしない限り死なないわ。さ、わたしが引きつけておくから――」

「……っ、ほんっとお前、……馬鹿か!」


 死ぬことはないと聞き、正直なところ少し安心したレグルスだったが、ホッとしたら今度は急に腹が立ってきて、ぎゅっと眦がつり上がる。


「死ななくても! そういう問題じゃねえだろ! 大体痕残ったらどうすんだよお前、一応女なんだからそっちこそ自分の……ああくそ、そうじゃなくて、俺は、だから……!」


 ぎり、と歯噛みして、レグルスは出かけに手渡された剣を抜いた。


「……逃げるぞ。痛いだろうけど、少し我慢してくれ。立てるか?」


 あまりの剣幕に唖然としていたリンは、急に話を振られて、びくりと肩を跳ねさせる。

 えっと、とか、あの、とか、しどろもどろに呟いた後、やっと彼女は頷いた。


「う、うん……何とか……走るのは、ちょっと、無理かもしれないけど」

「分かった。離れんなよ」


 手負いのリンを空いた方の腕で支え、レグルスは姿勢を低く取る。

 突破口を探して目を眇めたレグルスに、リンが小声で囁いた。


「見えれば、いけそう?」

「……できるのか?」

「まかせて」


 笑おうとして一瞬顔を顰めたものの、リンはしっかりと頷く。

 震える指先が空を切り、唇は歌うように呪文を紡ぐ。仕上げに大きく円を描くと、彼女は自分の指を唇に押し当て、空中に浮かんだ魔法陣に、口づけのように、触れた。


「……目、閉じて!」


 刹那、凄まじい光が空へと昇って弾け飛ぶ。

 突如昼間のように明るくなった周囲へ、レグルスは素早く視線を走らせた。

 光の弾をまともに見て一瞬怯んだ敵が、包囲の薄い場所目がけて駆け出した二人を口々に罵って追い始める。

 半端な人数、そしておぼつかない足取りながらも統制のとれた敵の動きに眉を顰めたレグルスは、緊迫したリンの声でハッと我に返った。


「レグルス! 後ろッ」

「掴まってろ!!」


 放り出されないよう首にしがみついたリンを左腕で抱き込み、振り向きざまに相手の剣を薙ぎ払う。

 剣のぶつかる音と共に、右腕がジンと痺れた。予想外に一撃が重い。

 ただでさえ怪我人を連れているのだ、これは下手に相手をせず逃げた方が利口だろう。そんなことを考えている間にも矢が飛んできて、頬や肩を掠めていく。


 幸い、少し離れた場所に置いておいた馬には気づかれずに済んだらしい。

 繋いでいた紐を叩き斬ると、馬の脚で追手を振り払い、一目散に宿へ駆け込む。


 盗賊の類とは様子が違ったが、暗闇から矢を射かけるような後ろめたい連中には違いない。人の集まる場所へまでは追ってくるまいとレグルスは踏んでいたし、結果見事に予想は当たってくれた。


 足音を殺して部屋へ滑り込んだレグルスの姿に、出迎えたヨナは目を瞠った。


「これはまた……派手にやりましたね」

「小言なら後にしてくれ。こいつの身体、止血って必要あるのか?」

「……一応やっときますか。こちらへ」


 痛みと疲労の為か、ぐったりとした様子のリンは、いつも以上に生きているのか死んでいるのか分からない。


 ベッドに俯せに寝かせ、背中から慎重に矢を抜く。

 うっ、と小さく呻き声が聞こえたが、薄ら目を開けたリンは、青ざめたレグルスの顔を見て弱々しく微笑んだ。


「……大丈夫、……傷なら、すぐ塞がるわ。止めなきゃいけないような、血も、ないし」

「何言ってんだ、血じゃなくたって傷から何か……」


 眉を寄せたレグルスの肩に、ぽんと手を置いて、ヨナが苦笑する。


「応急処置は僕が。殿下はご自分の手当を優先して下さい。それと、汚れた服は着替えて……後で処分しておきますから、そこに出しておいて頂けますか」

「あ、ああ……」


 納得いかないながらも頷いて、レグルスは二人に背を向けた。

 汗と血糊でべたつく服を脱ぎ、細かな傷を自分で拭き清める。

 そうして、上手く動かない片腕に気付くと、眉を顰めた。


「……」


 両腕共に脱力感のようなものは感じるけれど、左側の感覚は更に鈍く、指先は冷たく痺れていた。

 さっきまでその腕が抱えていた重み。リンの脆い輪郭を思い出し、レグルスは息を吐く。

 ……ともかく今は、彼女が元通り元気になればそれでいい。


 崩れるように椅子に座りこんだレグルスは、膝の上に手をついて、床の木目を見つめた。


(何なんだ、あいつら……待ち伏せか? けど、出てきたばっかだぞ、俺たち)


 王都へレグルス達が向かうという情報がどこかから漏れたのだとしても、急遽決まった旅程がその日のうちに誰かへ伝わり刺客が送り込まれるなど、いくらなんでもあり得ない。

 リンにもレグルスにも、本来この街に立ち寄る予定さえ無かったのだ。

 何しろ陸路を行くと決めたこと自体、レグルスが魔法に弱いからと今朝――


 誰が、提案した?


「終わりましたよ。今日のところはあまり動かさない方がいいでしょうから、リンはこのままで……殿下? どこか酷い怪我でもありました?」


 心臓の音が、うるさい。


 確かにヨナは胡散臭いことこの上ない。

 しかしここまであからさまでは、旅程を組んだ者が真っ先に疑われることくらい馬鹿でも分かる。そんなに「馬鹿」ではない、と断言するには彼のことを知らなさ過ぎるが、ヨナには自分自身がどう見られているか自覚している節がある。


 死人扱いの元王子と不死の魔女。どちらかを邪魔に思う者があるのなら、おそらく王を治療できるリンの方だろうけれど、それならわざわざレグルスに剣まで持たせて迎えに行かせる意味も分からない。

 そもそも彼が王に回復されて困るというなら、リンとレグルスに病状を伝えなければ良かったのだ。


 限りなく怪しいが、繋がらない。それ以上の結論は出そうにない。

 じっとこちらを見つめ返す濃紫にも、やっぱり何の答えも見出せず、レグルスは黙って目を伏せた。


「……いや。何でもない」


 肝心なところで、言葉はやはり出てこない。

 確証もないのに問い詰めたって仕方ない。確かにそれもあるけれど。


(……言い訳だよな)


 向けられる同情、困惑と怯え、周囲に溢れる無関心。

 そんなものに囲まれて生きてきた「子供」の自分が、目蓋の裏で首を振る。


 拒絶することすら「拒否」されてきたのに、この上。

 知ることで傷つくのも、傷つけるのも、怖くて堪らないのだと。

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