徒花シンドローム

Infinity project

植物図鑑00. Prologue

へし折ったパズル

 人は死んだら花になる。それは教科書に載っている方程式のように確実な、どうやってもくつがえされない"当たり前の事実"として人々は周知していた。


 徒花病の発祥起源は、現在公表されている研究段階から考慮するに、1999年1月1日が有力視されている。

 新しい一年を迎えるめでたい門出の日に、満を持して生まれた赤ん坊の左耳に、ちんまりとリンドウの花がのが発見された。

 耳たぶの小さなしこりから芽を出し、陽の光をめいっぱいに浴びるため、葉や茎を耳にしがみつかせ、花が自らの姿をさらけ出すように開いた様は、"咲いている"としか表現が出来ない程に珍妙な姿だった。

 難産を危惧きぐされ「母子の命の保証は出来ない」とまで医者に言わしめた程、その赤ん坊を出産した母親の体は弱かった。

 万が一、子供か母親、どちらかの命を取捨選択しなければいけないと通告された父親が、出産時に何度も病院内の廊下を往復していた様を看護師は目撃していた。

 病室の窓から見える海が綺麗だとか、男の子だから名前は何がいいか、なんて笑顔を絶やさずにたわいない話を看護師に語っていた母親の姿に、彼女も不安がつのった。

 どうか全てがうまく行きますように。そう彼女がこれまでの人生で一度も信じた事などない神にちかい続けて、途方もない程に長い時間が過ぎた。

 そんな中、天に光が差したかのように病院内に響き渡った赤子の泣き声に、看護師と父親はほぼ同じタイミングで立ち上がり、病室へと駆け込んだ。

 最早それは、奇跡としか言い様がなかった。子供はおろか、母親も無事に終えられた出産に、父親の目には光る物があった。

 突然飛び込んで来た看護師に、看護師は驚いたような顔をしながらも「手伝ってくれる」と産まれたばかりの赤子を彼女の手に引き渡した。

 まずは産湯で、と看護師から説明を受けながら、産まれたばかりの命の重みに感涙を浮かべた。

 嗚呼、無事に生まれてくれて良かった。

 そう思いながら、彼女の目がふと赤ん坊の左耳に向いた瞬間。

 彼女は、これ程にもない絶望を全身に感じ取った。

 産まれたばかりの赤子に不調が見られる事はよくある話だったが、赤ん坊の左耳に花が咲いている、なんて現象は看護師として勤めて早4年になる彼女でも初めての事だった。

 赤ん坊を産湯で洗いながら、リンドウの花を爪でぎ落とそうとしても、それは強く根を張っていて、敵わなかった。だが、両親が出産を喜び合う様に水を差す事は気が引けた。

 彼女は周囲の目を盗む様にしてリンドウの花に手を掛けると、それを勢いよく左耳から摘み取り、手中にて握り潰した。

 きっとそれは悪い病気ではないはずだと言い聞かせながら。


 だが、翌日。看護師が赤ん坊の様子を見に向かった際、毟り取ったはずの花は当たり前のような顔をして左耳に咲いていた。

「何で……昨日、確かに摘み取ったのに」

 彼女は誰にも知られないよう、早朝に赤ん坊の元を訪れては、その左耳に咲く花を摘み取り続けた。

 隠ぺいと言えば聞こえは悪いだろうが、彼女はそれが正義の行いであると自分自身に言い聞かせ続けた。

 赤ん坊は周囲の子供と同じように健常であると、そう証明し続ける事が両親にとって良い事であるはずだと過信した。

 だが、そんな彼女の願いも届かず。

 赤ん坊が生まれて6日がたった頃。母親の鎖骨には赤ん坊と同じように桜の花が根を生やし、咲き誇った。

 同じように赤ん坊が生まれた翌日に誕生した子供の左腕に、看護師が発見したのと同じ小さな凝りが発見された。

 不信に思った医師がそれを調べた結果、上腕骨に身を隠すようにして植物の種らしきものが発見された。


 感染ルートは不明のまま、次々と病院内の赤ん坊や妊婦にまで小さな凝りは発見された。

 子供の容体に害はないのか、症状は、治療薬はないのかと人々から寄せられる問い合わせに、病院は一時的に休業をせざるを得なくなった。

 その頃には病院内から市内にまで大きく感染は広がっており、感染源となった病院の当時の院長や看護師達は頭を抱えた。

「……私、私のせいなんです」

 看護師は異常な程に取り乱しながら、その場の全員に自分が一番にその症状を発見したものの、それを黙っていた事を明かした。

 自分のせいだと責め続け、過呼吸に至るまで取り乱した彼女にはしばらくの間、休暇が与えられた。

 ただ天井を眺め、室内に響くニュースを耳にする日々に、心臓がズキズキと痛みを発した。

 自虐にばかりに浪費した長い休暇を終え、病院に復帰した彼女に同僚達は白い目を向けた。

 当たり前としか捉えようがなかった。

 彼女が迅速に報告し、その赤ん坊を隔離するなどの処置を取っていれば、事態は未然に防げたかもしれない。

 重苦しい、息苦しい。

 そんな窒息感を感じながら仕事を続けていた彼女に、鈴の鳴る様な声がその名前を呼んだ。

 振り返ってみるとそこには、あの時の母親がその場に立っていた。

 かたわらに立つ父親の傍らには、幼い少年と少女が不思議そうな顔を浮かべながら看護師を見上げていた。

 風の噂で耳にした彼女の2人目の子供の姿に、看護師の顔には自然と笑顔が浮かんだ。

「今ね、3人目が居るの。出産はとても不安だけど、この子を手で抱いてあげたいから」

 頑張ってみようと思って、と語る彼女からふと目が合った少年の左耳に咲いたリンドウの花に、看護師の顔が曇った。

 自然と俯いた看護師に、母親はニコニコと笑いながら彼女の手を弱々しく握り締めた。

「大丈夫よ、そんなに自分を責めないで頂戴。私たちの事を気遣ってくれたんでしょう?」

 ごめんなさい、ありがとうと笑う彼女に看護師は込み上げた感情に、思わず顔をおおい隠した。

 それは自分の台詞だと言うのに。何て心が綺麗な人なのだろうかと、看護師は涙した。

 遠くから彼女たちを呼ぶ男性の声に、それじゃあまたと、丁寧に頭を下げた彼女に看護師も前を向いた。

 出産が近付くにつれて、不安からか暗い顔を浮かべたり、体調が優れない様子の母親をけなげに励ませば、彼女は弱々しく笑い掛けた。

 その頃には既に感染経路が未だ不明とされた奇病は全世界にまで広まり、不可解な事に死者ではなく、行方不明者の数ばかりが年々増加し続けていた。

 迎えた出産日当日、彼女は目の前の光景に打ちひしがれた。


「……私のせいだ」

 私のせいだ、私のせいだと自虐にしかならないその言葉を、繰り返し繰り返し吐いては、その心臓を抱え込んだ。

 出産前、腹部を押さえ込み苦しげな様子を見せた母親に、看護師がナースコールを押し、医者が到着した刹那。

「あなたは、全然……悪くなんてないの」

 そんな言葉を誰かに向けて最後、彼女の姿が一瞬にして桜の花弁に変わった。

 飲み込まれたとか溶けた、なんて表現も釣り合わない。

 彼女は、桜になったのだ。

 その血肉も骨も、髪の毛の1本すら残さないままに、その病室には大量の桜吹雪が美しく舞い散っては床にひらひらと積もって行った。

「私の、せいで」

 その看護師がその日から4日もの間、無断欠勤を続けた。

 不審に思った同僚が部屋を訪れると。

 そこには、頸動脈を切り裂いた状態で、血の海に倒れ込む看護師の遺体が発見されたという。

 近くに落ちていた包丁の指紋から自殺と断定された彼女の左胸には、オレンジ、黄色と色鮮やかなマリーゴールドの花が見事なまでに咲き誇っていた。


 それ以来この世の人間は体の一部に種を持ち、その内の殆どが死ぬまでの間に花を咲かせる。

 種から芽が出る原因として、研究員による長年の研究と数々の実験の結果。判明されているものの約8割が、精神的ショックやストレスによるものだった。

 その部分を覆っている肌や、粘膜・骨すらも破り芽が出てしまうと、その奇病は徐々に持ち主の精神的ストレスや寿命を吸って育ち出す。

 芽が出た時点でストレスの原因となるストレッサーを解消すれば、種の状態に戻るものの、一定の大きさにまで成長してしまうと茎や根が体にしがみついて離れなくなる。

 それ程までに症状が進行してしまうと、花をいくら摘んだ所で(その医療行為を摘花と呼ぶ)次の日には同じ大きさまで成長してしまい、ついには人格や記憶にも影響をもたらすという。

 その結果、ストーカーや窃盗、殺人などの犯罪行為を犯す人間もいれば、いじめ・アルコール依存などに溺れる人間や記憶障害や昏睡状態におちいり、寝たきりの状態になってしまう人間もいた。

 最終的には花が精神と体をむしばんで、貪食どんしょくな花は、ただひたすら呼吸だけを行っている主を飲み込む。

 現場には持ち主が宿していた花のみが根を生やし、遺体は姿も形もなく消え去ってしまう。

 そのため行方不明者の捜索依頼数は、全国で年々増加傾向にあった。

 2010年8月までの治療法は種ごと取り除くのみで、目や腕の付け根などの部位や種のある深さによっては切断・失明のリスクを背負わざるを得なかった。それも関係してか、患者数は減る所か年々増加し続けていた。

 それを打開したのが、元々は草花や樹木を始めとする植物の生態について研究していた、東京都 新夏あらなつ区に位置する元・仁井田植物研究所。

 そして、神奈川県横浜市に本社を置く白神川しらかみがわ製薬によって、合同に製作された新薬だった。

 今まで患者に出されていた薬は精神安定剤のみだったが、開発された新薬・アルカディアによって、患者数は大幅に減少した。

 アルカディアは種のある体の部位に直接薬品を投与する事で、発芽・進行抑制効果と種自体の縮小する特性を持つ。種を溶かす、という表現が正しいだろう。

 ただ、目や顔などの皮膚の薄い位置や頭部や心臓付近など、命に支障が考えられる部位への投薬は禁じられており、必ずしも全員が完治出来るわけではなかった。

 ただ、国にその功績をたたえられ、仁井田植物研究所は正式にその病に特化した研究施設への変革を求められた。

 当時研究チームの中で新薬への開発に貢献した研究部主任・白村すみれの発案から、その病は"徒花あだばな病"と名付けられた。

 咲いたとしても身を結ばない無駄な花、という意味を命名した事から、彼女の皮肉が感じられる。

 功績を認められた仁井田植物研究所は、徒花病特別研究センターへと名前を変え、今も白神川製薬と提携を続けながら新薬の更なる普及。そして、危険部位に種子を持つ徒花病患者への新薬開発に努めている。

 徒花病の感染ルートにも研究を続けているようで、今では病院各所にも徒花科が新設され、徐々にその精神病の一種とされた奇病の実態や感染経路が明らかになりつつあった。


 そんな中で1つ、奇妙な点をあげるとするならば。

 徒花病の起源と言われる赤ん坊は、

 



 2016年。

 世間では、ある噂が奇妙なまでに広まっていた。


「徒花が咲いた状態で鏡を見ると、自分によく似ている別人が映って、別世界に引き込まれてしまうんだって」

 それって本当なのかな、怖いよね、なんて玄関ホールでヒソヒソと声を潜める女子生徒2人に視線を移すと、彼女は一言「馬鹿馬鹿しい」と一蹴いっしゅうした。

 彼女達のすぐ後ろを、大量に積み上げられたノートを覚束ない足取りで職員室へ運ぶ生徒や、部活に向かうため先を急ぐ生徒が忙しなく通り過ぎて行った。

 彼女もその往来を横目に、噂話に花を咲かせる女子生徒の元へと歩み寄った。

「あなたたち、用事がないのなら早く帰りなさい」

 殺人事件だって起きているんだから、と補足すれば。

 彼女たちは大方、相手が先生だとでも思ったのだろう。ふと彼女の方に目を向けた女子生徒の内の1人は目をあんぐりと見開き、慌てて頭を垂らした。

「す、すみません。先輩、さようなら」

「えぇ、さようなら」

 そそくさと自分たちの靴箱へと向かった2人を見届け、彼女は背後から聞こえる噂話を一切気にすることもないまま廊下の角を曲がり、見えなくなってしまった。

「繰り返します、2年1組 折鶴おりづる華名子かなこさん。折鶴華名子さん。職員室・佐崎先生の所まで至急来てください」

 1年生なのか、少し言葉を詰まらせ不慣れながらも彼女を呼び出す校内放送だけが、その場に響いていた。

 前髪をきっちりとピンで止めた女子生徒は、その校内放送を耳にしながら隣に立つ友人へと声を掛けた。

「やっぱり怖いよね、折鶴先輩。愛想がないって言うか」

 彼女の焦げ茶色の腰まで伸ばされたロングヘアーと、冷ややかな赤色の目と模範通りに着用された制服姿を思い出し、彼女は友達に苦笑いを向けた。

 昨年の生徒会選挙の際、次期生徒会長候補・白村はくむらを出し抜き、前会長・柳瀬から推薦された2学年の折鶴華名子。

 品行方正かつ、成績も定期テストでは常に上位に立つほどに優秀で、生徒会の仕事も完璧にこなす彼女を生徒会役員や教師陣は評価しているものの。

 生徒の中には、あまりに堅物過ぎる彼女に苦手意識を持つ者も多かった。

 それこそ成績や素行、仕事ぶりは彼女に劣るものの、当時の生徒会長候補ともあり、校内中から人徳がある白村が会長に就任する事を求める人間が大半を占めていた中、折鶴が生徒会長に就任してしまった。

 そのためか、折鶴が会長の座を手に入れた事に不満を抱く者が多いこの学校は、彼女自身から見れば居心地の悪い場所へと変化しつつあった。

「確かに、同じ生徒会の中でも私は副会長の方が好きかな。緩いし、優しいし」

 そうだね、なんて笑いながら、女子生徒達は靴を履き替えると校門を出て行った。

 最近開店したばかりのカフェにでも行こうか、なんて話し始めた頃には彼女に注意された事なんてすっかり忘れてしまっていた。

「……分かってるわよ、そんな事」

 キツく下唇を噛み締めそう呟くと、苛立ったように足音を立てながら、依然来室するように訴える放送を耳に彼女は職員室へと歩みを進めた。


 平成28年度第2回 進路希望調査票(3年次)

 3年4組 白村 京羽きょうば

 進学・就職希望(どちらか一方に丸)


 第一希望

 第二希望

 第三希望

(第三希望まで、具体的な企業名と学部。もしくは職種を書くこと)

 ※提出日5月17日 各担任に提出


「将来、使う事がない」の一言で解決してしまうほど、何のタメにもならない退屈な授業を終え。学生たちが部活だ、遊びだ、噂話だ、寄り道だと羽を伸ばす中。

 1人の人間が災難に巻き込まれようと、他人がそれを気に掛ける事はない。

 現に彼女・折鶴華名子はホームルームが終了した途端、3年4組の担任かつ陸上部顧問の佐崎に呼び出されるまま、職員室に足を踏み入れた。

「折鶴、何で呼ばれたのかは……分かっているな」

 彼女の氷のように冷ややかな赤色の目にたじろきながら、佐崎はいつもの様に彼女の返答を待っていると。折鶴は呆れれた様子で口を開いた。

「どうせ、また使えない副会長の尻拭いなんでしょう?」

 担任の机に置かれた、自分の物ではない白紙の進路希望調査票を一目見た後、折鶴はそう答えた。

 心の底から面倒だと語る彼女の姿に、佐崎の口元には苦笑が浮かんだ。

 いつも悪いな、と返答すると折鶴は本当に厄介だとでも言う代わりに、小さく首を振った。

 佐崎はそんな姿を見せる折鶴に苦笑を浮かべ、反省の色が全く見られない進路志望調査票の持ち主・白村に、本日何度目か分からない溜め息を吐き出した。

 東京湾に面する新開発都市・新夏区は、政府が新たな商業施設"ocean color town"や芸能事務所"ススミプロダクション"を初めとし、大手金融機関 "雪柱ゆきばしら信用金庫"、書籍や教育器具の販売を行う"文宝ぶんぽう出版" 、そして新たに24区目の区長として選出された玉城おうじょう将一郎が束ねる新夏区役所などの大手企業の移動とともに、東京都の大規模な人口移動を測った。

 四方を海に囲まれた新都市には、お台場や葛西臨海公園駅をつなぐ海の上を通るモノレール"うみすずめ"と、新台大橋にて行く事が可能だ。

 さらにアイドルやミュージシャンのライブ会場、野球の試合会場にも使われる"日ノ出ドーム"や大型テーマパーク"キャンシィランド"が開業された事もあり、今日現在新夏区の人口は20.34万人にまで及んでいる。

 そんな新夏区に開校された皇明こうめい学院高等学校に赴任してもう3年になる体育教師・佐崎潮は、去年から担任として世話を焼いていた2年4組を引き続き受け持つ事になった。

 佐崎が教師になって、初めて卒業生を送り出す事となる。

 というのにだ、佐崎にとって不安要素が2点ほどあった。

 まず1点は、最終学年になったというのにクラスに落ち着きがない事。

 2点目は白紙の進路志望調査票を叩き付け、尻尾を巻き逃げた白村の事だった。

 2年生の時から生徒会副会長を務めている白村を、佐崎は一目置いていた。学業成績は2年の11月から急激に低下し、正直頭を悩ますものだが。体育祭や文化祭になると、クラスをまとめあげてくれるムードメーカーのような存在である事。 そして、その人徳には佐崎も驚かされるものがある。その一方で、まるで幼子のように気まぐれで面倒臭がりな面や、時に見ている方を冷や冷やさせるような行動をよく犯してしまう危うい面が玉にきずだ。

「具体的に書くよう言ったんだがな。提出期限の明日までに再提出、と伝えてくれ」

 空欄の進路希望調査書は、本来の意味を何一つ成していない。

 それを折鶴に突き返してやると「またですか」なんて、あからさまに不服そうな声を上げた。

「先生から渡す方が効率的だと思いますが」

 そう訴える様にして佐崎を睨み付けるが、佐崎にそれを相手にする余裕はなかった。 机の半分以上を支配しているプリントの山を叩き、佐崎が疲労の色を顔ににじませながら口を開いた。

「あいつは俺が口 うるさく世話してやるより、折鶴や生徒会の先生が言った方がしっかりやるよ」

 抵抗も虚しく空振りで終わった折鶴は、渋々白村の進路志望調査票を手に職員室を出て行った。

 そんな彼女に「悪いな」と声を掛け、苛立ったその背中を見送ると、佐崎は時計を見上げた。

 15時41分、果たして明日の何時までに来るか。あの白村じゃ放課後までかかるだろうななんて推測し。佐崎はもし持ってこなかったり、提出期限を過ぎたりしたら学年主任になんて言われるかと後ろ向きな事を考え痛み始めた頭をまぎらわせるようにして、垂れ下がって来た前髪をかき上げた。

 そんな後ろ向きな事を考えるのはやめよう。多分、白村はやる時はやってくれる男だ。

 なんて言い聞かせるように心に念じると、佐崎の紫黒色の髪が職員室の蛍光灯の元、黒々と光った。

「現場には男女5人の遺体が残され、いずれも首を鋭利な刃物で切られたような跡があり、司法解剖の結果、5人全員が即死と判断されました。

 また、全員が新夏区 祭園さいえんの篠倉中学校の卒業生である事が、警察の調べで分かっており。

 3年前からの同様の未解決事件6件と犯行手口が酷似している事と、同じように篠倉中学校の卒業生が殺害されているから、同一犯と見られています。

 これで被害者数は17名に及んでおり」

 3年前から未解決のままの残酷な連続殺人事件についての続報を伝えるニュース番組を目にした後。

 彼の鉄紺色の目には、山積みになったプリントの一番下に押し込められたその日授業で行ったバスケットボールの試合結果が映った。

 さて、やるか。

 そう呟いた後、ジャージの袖を捲り上げ佐崎はそれらを真剣な表情で眺め始めた。


 職員室を出てすぐ折鶴は白紙の進路志望調査票から視線をらし、教室を出る前に慌ててポケットに押し込んで来たスマートフォンを取り出した。

 "白村京羽"という名前で登録された電話帳を眺め、通話ボタンを押すものの、5コール目になっても彼が電話に出る様子は一向にない。

 どうせいつもの事だと折鶴は一方的に電話を切ると、自分のクラスの2年1組がある2階へと向かった。


 まとめ考査が終了した昨日からは、学校内の至る所で部活動の喧騒が聞こえる。

 実際クラスメイトの多くは帰りのホームルームが終了した途端、足早に各々の部室へと向かっていた。

 そんな彼らの熱意が表れているのか、グラウンドからの金属バットの高らかな声と、吹奏楽部による"エル・クンバンチェロ"の軽快なリズムにはもう夏が近い事を予感させた。まだ春の陽気の残る5月中旬だというのに。

 折鶴は教室の窓から見える東京湾を眺め、教室内に残り談笑する数名の生徒を尻目に自席に置いていた鞄を持ち、昇降口へと足を早めた。


「俺、欲しかったんだよね」

 "生徒会長"で登録された番号からのたった30秒の不在着信履歴を眺めながら、彼・白村京羽は自分の目の前で懸命にノートパソコンを広げ、何かを探し続ける男子生徒の背中へそう声を掛けた。

「突然何だ」と素っ気なく返事をする彼に、白村の顔には思わず苦笑が浮かんだ。

「何って猫だよ、にゃんこ。今探してるじゃん」

「お前は何一つ役立っていないがな」

 相変わらず鋭い指摘に白村が圧倒されている間にも、手加減を知らない太陽が彼らを照らしていた。

 頭上を飛び立って行くかもめが、白村のまるで宇宙を閉じ込めたかのような紫色の瞳に映りこんだ。

 意志を持っているかのように跳ねている黒髪は、本人が言うには生まれ持った癖毛のようで。年中無休そして毎朝、白村はそれと格闘している。

 一見優等生らしく見えはするが、彼の服装や素行・成績を見れば、それは一瞬にして砕かれる。今現在も副会長の立場を保てているのが不思議な位だ。

 ズボンの中からすそが飛び出した、だらしない黒色のワイシャツのボタンは上から2つ目まで緩められ、隙間からは青色のTシャツが覗いていた。恐らく、去年の文化祭に制作された2年4組のクラスTシャツだろう。

 数分前「暑い」と近くに脱ぎ捨てた白色のブレザーを拾う事もせず、彼は校門の岩塀に背中をくっ付け紺色のタータンチェック柄のズボンに包まれた足を投げ出した。

 お気に入りの黒色のスニーカーに包まれた踵が、パコパコとリズミカルにアスファルトを叩き、きつく結ばれた星柄の靴ひもが揺れた。

「……なぁ白村。

 お前は何故、進路志望調査票を白紙で出したんだ?」

 ぐるりと自身の方を向いた男子生徒・雛津ひなづ よりの見透かしたような青色の目に、白村は一瞬たじろいだ。

 季節外れの雪のように白い髪は全体的に跳ねや癖毛がなく、ペッタリと頭に張り付いているような印象を受けた。 長い襟足には彼なりに何かこだわりでもあるのだろう。

 制服を一切着崩さず、青色と黒色の線が交互に入ったストライプ柄のネクタイを緩めることは疎か、この暑い中でも学校指定の灰色のセーターまで着ている彼に、白村は眉をひそめた。

「依くん。

 それってさ、猫よりも大事な事?」

 嗚呼、そうだった。

 ある事実を思い出すのに多少の時間を要してしまった事を、雛津は口に出してしまってから後悔した。

 幾ら白村に正論を投げ付けたとしても、彼の前ではまるで紙くずのように無意味な代物でしかない。

 大空を悠々自適に飛ぶ鳥のように、自分の人生を身軽に生きている白村は拘束や規則、不自由をこよなく嫌った。

「……何かに自分の進路を決められたくないだけだよ」

 まるで子供のような言い訳を零し、白村は重い腰を上げて雛津の元へと歩み寄り、その場にしゃがみこむと、雛津の膝に置かれたノートパソコンの画面を覗き込んだ。

 そこには、無料通信アプリ"Myittey"のyuinaというアカウントのツイートが表示されている。

 パフェやケーキといったデザートの写真や、可愛らしいキャラクターのグッズの数々と、学校での愚痴などを呟いているそのアカウントを凝視し、白村が小さく息を吐いた。

「さっき着信があったみたいだが。生徒会長じゃないのか?」

 自分のスマートフォンで"Myitter"の画面を開き、手早く操作を始めた白村に何と声を掛けるべきか悩んだ結果。雛津はそう問い掛けた。

 すると白村はケラケラと、いつもの様におどけた表情で笑い始めた。

「そうそう、折鶴ちゃん」

「出てやらないのか」

「折鶴ちゃん、怒ってもそれ程怖くないけど説教が長いからね」

 子供か、と雛津は彼の言い訳を蹴り上げた。

 きっと白村はここでどんなに雛津が正論を掲げ彼を諭そうと、一切聞く耳を持たないだろう。

 彼を正しい方向へ進ませる説教やら説得なんてものは、彼には不可能だ。

 生憎、雛津依という男は自分の技量の足らない範囲に関して手を出す程、愚かではない。

 だからこそ、不得意分野に関しては頼りになる生徒会長と。頼れる白村の幼馴染にして、長年の世話係に任せるしかない。

 そんな事を雛津が考えていた時だ。

 ふと2人の元に迫る足音に気が付いた白村が、困ったように肩を竦めた。

 白村はスマートフォンから顔を離し、自らを見下ろす女子生徒へ目を向けた。

「白村先輩、こちら明日までに再提出のようです。

 確認お願いします」

 傾斜の厳しい丘に立つ皇明学院と新夏海岸を結ぶ勾配こうばいのある坂道を一気に駆け下りると、太陽の光を反射させ光り輝く東京湾が一望出来る。

 その日当たりのいい新夏海岸沿いで、白村はよく野良猫と共にぐうたらとサボりながら、日光浴をたしなむ。

 佐崎もそれを知っていて折鶴に押し付けるのだから、よほど面倒事が嫌いなのか。

 それとも、彼が言うようにほとほと気まぐれな彼に参っているのか。

「俺の進路よりもさ、折鶴ちゃん達に手伝って欲しい事があるんだ」

 手中に押し込められた進路志望調査票を見下ろし、そう嘆いた白村に折鶴と雛津は顔を見合わせた。

「手伝って欲しい事って……何です?」

 そう訊ねた事を、折鶴はすぐ様後悔した。

 既に白村の張った罠にかかったと自覚するのは、その言葉をとっくの昔に喉から吐き出した時だった。

 時既に遅し。

 満足そうにヘラヘラと笑う白村の姿に、折鶴と雛津は呆れたように彼の手に握られた進路志望調査票を見下ろした。

「猫探しだよ」

 彼の背にほんの一瞬、大輪の向日葵が見え隠れしては5月の太陽にかき消された。

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