光を求めて

ごんぞう

第1話平凡な日常と突然の転機

 午後4時半の学校。昇降口から校庭を見下ろすと、部活帰りの生徒たちが小さな群れを作って楽しそうに話している。風に混じる笑い声や遠くでボールを打つ音が、なんとなく穏やかな気分にさせる時間だった。


 廊下を歩いていたこうたは、窓の向こうに赤く染まり始めた空をぼんやりと見つめていた。授業も終わり、特に急ぐ理由もない。鞄を肩にかけたまま、ゆっくりと歩いていた。


 「晩ごはん、とんかつだといいな……」


 こうたは小さくつぶやいた。中学生の彼にとって、「とんかつ」は単なる食べ物以上の存在だった。衣のサクサク感、肉のジューシーさ、そしてソースの甘辛さ――すべてが完璧なバランスで、自分の世界を少しだけ特別なものに変えてくれる。そう、今日の一日は「とんかつ」で締めくくるべきだ、と心の中で決めていた。


 「おい、こうた!またぼーっとしてんのかよ!」


 背後から声をかけてきたのはクラスメートのユウスケだった。サッカー部のエースで、いつも元気なやつだ。こうたと同じ帰り道を歩くことが多く、自然と一緒に帰る仲になっていた。


 「いや、別に。ただ、ちょっと腹減っただけ。」


 こうたは軽く笑いながら振り返った。その顔には少しばかりの疲れと空腹が滲んでいた。


 「腹減っただけって、絶対またとんかつのこと考えてたんだろ?」


 「うるさいな……いいだろ、別に。」


 ユウスケのからかうような口調に、こうたは照れ隠しでそっぽを向いた。


 二人は校門を出ると、夕暮れの街へと歩き出した。風が少し冷たくなり、遠くから聞こえる自転車のブレーキ音が耳に残る。


 「こうた、最近よくぼーっとしてるけど、なんか悩みでもあるのか?」

 ユウスケが少し真剣な声で問いかけた。


 「いや、別に。考えてたのは晩ごはんくらいだよ。」

 こうたは苦笑いを浮かべながら答える。悩みなんて特になかった。ただ最近、時々妙な既視感に襲われることがあった。それは、夢でも見ていたかのようなぼんやりとした感覚。だが、それを言葉にする気にはなれなかった。


 「ふーん。じゃ、またな!」

 ユウスケは軽く手を振り、自転車に飛び乗ると去っていった。


 こうたは一人、自宅に向かって歩き出す。路地裏を曲がるとき、またふと既視感が襲う。「……なんだろうな、これ。」軽く頭を振って追い払うが、その時、足元でカラスが何かをついばんでいるのが目に入った。


 妙に黒光りする石がカラスの嘴で転がり、その表面が一瞬だけ青白く光るのをこうたは見た。


 「なんだ、これ……?」


 こうたが足を止めてじっと見ると、カラスは短く鳴き声を上げてその石をくわえたまま飛び去っていった。


 「……まぁ、いいか。」

 首を傾げながらも、彼は再び歩き出した。目の前にあるのは、自分を待つ「とんかつ」だけだ。



 家に帰ると、リビングの明かりがこうたを迎えた。台所からは揚げ物の音が聞こえ、香ばしい匂いが漂ってくる。こうたは自然と笑みを浮かべた。


 「ただいまー!」

 玄関で靴を脱ぎながら元気よく声を上げる。


 「おかえり、こうた。今日はとんかつよ。」

 キッチンから返ってきた母親の声は、いつも通りの穏やかなものだった。


 「やった!今日は大当たりだな!」

 こうたは鞄を適当に放り投げ、洗面所に向かった。手を洗う間も、とんかつの香りが鼻をくすぐる。


 テーブルに座ると、皿の上に乗った黄金色のとんかつが目に飛び込んできた。衣のサクサクとした輝き、立ち上る湯気、甘辛いソースの匂い――どれをとっても完璧だった。


 「めっちゃうまそう!」

 こうたは嬉しそうにフォークを手に取った。その時だった。


 不意に、部屋の中が静かになった。


 油が揚がる音が消え、時計の秒針すらも聞こえなくなった。まるで世界全体が音を失ったような感覚に、こうたは違和感を覚えた。


 「……え?」


 フォークを持つ手が止まる。こうたの耳に、どこからともなく声が聞こえてきた。


 「……こうた……」


 それは囁きのように弱々しいが、どこか必死な響きがあった。


 「誰だ?」

 こうたは顔を上げて辺りを見回すが、母親の姿はキッチンのぼんやりした影の中に消えているように見えた。


 「生きろ……」


 再び声が響く。今度はよりはっきりと、こうたの頭の奥に直接届くような感覚だった。その声は女性のようで、でもどこか馴染みのある響きだった。


 「……生きろ?」

 つぶやいた瞬間、頭に鋭い痛みが走った。


異変が加速する


 「……っ!」


 フォークが皿にカタカタと当たり、こうたの手から滑り落ちる。視界が揺らぎ、身体の力が抜けていく。


 「こうた?どうしたの?」

 母親の声が近くで聞こえるが、次第にその声は遠のいていった。耳鳴りがし、まるで深い水の中に沈んでいくような感覚が押し寄せる。


 「生きて……逃げて……」


 声が続く。その言葉の切実さが、こうたの意識にしがみついてくるようだった。しかし、次第に暗闇が意識を覆い尽くし、こうたは完全にその場で意識を失った。



 「こうた!ちょっと、返事して!」

 母親が肩を揺さぶり、必死に呼びかける。だがこうたの身体は力なく、何の反応も返さない。


 最後に聞こえたのは、母親の泣き叫ぶ声だった。



 こうたは暗闇の中、冷たい地面に倒れていた。草の感触、風の音、二つの月――目に映るすべてが現実離れしている。しかし、それ以上に胸の奥を締めつけるような不安が、彼を動けなくしていた。


 「なんだよ、ここ……」

 周囲を見回しても答えは見つからない。ただ、頭の中で囁くような声が聞こえてきた。


 「……聞こえる?」


 こうたは息を飲み、周囲を見渡した。だが、声の主らしき姿はどこにもない。


 「誰だ……?」

 こうたが小さな声で問いかけると、声は少しだけはっきりした響きで答えた。


 「私はリヴ。君を導く者……そう考えてくれればいい。」


 その声は奇妙な親しみを帯びていて、こうたの混乱した心を少しだけ落ち着かせた。しかし同時に、その名前の響きにどこか覚えがあるような気がして、胸の奥がざわついた。


 「リヴ……?」

 こうたは呟き、声の正体を探ろうとしたが、次の瞬間、空気が震えるような低い唸り声が耳を打った。


 遠くの空が揺れ、草原の向こうに巨大な影が現れる。それはまるで闇そのものが形を持ったかのようで、赤い瞳が不気味に輝いていた。やがてその影は黒い鎧の男へと姿を変えた。


 「誰だ、あいつ……?」

 こうたは呟きながら立ちすくむ。その男はゆっくりとこちらに歩み寄り、冷たい声で言った。


 「お前は……弱い。」


 その声に、こうたはなぜか胸が痛むのを感じた。まるで自分の心の中の何かを突かれたような――そんな感覚。


 頭の中でリヴの声が響く。

 「逃げて!今の君じゃ、彼に勝てない!」


 「勝てないって、何なんだよ!?あいつは誰なんだよ!」

 混乱するこうたをよそに、影の王はその手を伸ばし、こうたの足元に影を這わせた。影はこうたを縛るように絡みつき、動きを封じようとする。


 「足掻いても無駄だ。お前は所詮、何も変えられない。」

 影の王の言葉は冷たく響き、こうたの心に刺さる。だが、リヴの声がそれをかき消すように響いた。


 「君は違う。君は……超えられる!」


 こうたの手のひらから、白い光がほとばしる。その光は影を切り裂き、影の王に向かって一直線に放たれた。だが、影の王はその場から動かず、ただその光を見つめていた。


 「悪くない。だが、お前には足りない。」


 影の王は冷たい笑みを浮かべると、再び闇を広げた。こうたはその場を走って逃げ出す。


 息を切らしながら、こうたは頭の中でリヴに問いかけた。

 「誰なんだよ、あいつは……!」


 リヴは静かに答えた。

 「彼は……君が超えなければならない存在。」

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