【女郎屋幸咲屋の禿美代―其ノ參―下】

 追っ手の男達は大人しく引き上げた。

 あたしはお咲という婆さんを、幸咲屋の大女将という人物のことをとんと知らなかったけれど、追っ手や町の人の反応を見て、そして身をもって大層おっかない人物なんだと解った。

 そして、それ以上に大層情に厚い人なんだということも。


「ほらあんた。いつまでそうして座ってんだい。大事な人の亡骸を何時まで大衆に晒しておくつもりだい? あんたの大事な人は見世物じゃあないだろう。急ぎ内の者に死装束をこさえさせるから。その間、体は仕方ねぇけれど頭をこの布にくるんで綺麗にしておいてやんな」

 婆さんは着物の袖から一枚の風呂敷を取り出すとあたしに渡した。すぐに右手を挙げちょいと手招きをすると、若い男衆が数人やって来る。若い衆は婆さんと一言二言話すとまた離れ、通りの奥の見世に消えてった。

 婆さんから受け取った風呂敷は濃紺の質素な色合いだったけれど、布地は決して安物じゃないと手触りで分かる。それも殆ど新品と言えるような綺麗な折り皺が付いていて、まるで糊付けした紳士服のような物だった。

「婆さん、あんたこんな物、私に渡してどうしろって言うのさ」

「誰が婆さんだよ。あたしはそんなばばぁじゃないよ。あたしのことは大女将と呼びな。それと何度も言わすんじゃないよ。その風呂敷であんたの男の頭ぁ包んでおあげ。地べたに転がってたんじゃあ昼間とはいえ寒い思いしちまうだろう?」

「だって、こんなに綺麗な布。汚れちゃうし……」

「綺麗も汚いもあるかい。あんたは気にしなくて良いんだよ。持ち主のあたしが構わないって言ってんだ、風呂敷が汚くて躊躇するってんならまだしも綺麗で躊躇するこたぁないだろう。良いから素直にあたしの言うこと聞いときな。ほら、内のが迎えに来た。とっとと場所を変えるよ」

 婆さん……大女将に促されるまま、相方の亡骸を移した。

 大女将の後に付いて行くと、そこには見たことの無い立派な建物が在った。


 真っ黒な瓦屋根と広い入り口門に大籬おおまがき張見世はりみせは光沢のあるくれないに塗り上げられた格子が馬鹿に横に長く広がる。三階建ての建物は漆黒の総漆喰塗り。趣や格式があると言うより、重厚な威圧感を身に覚える様な随分大きな建物だった。


「ほら、上がんな。阿呆みたく大口開けてんじゃないよ。今葬儀の支度をさせてる。喪主はあんただよ。確りと務めな。それがあんたの内での初仕事だ。ちゃあんと、見送ってやるんだよ。そうだ、まだあんたの名前を聞いてなかったね。何時までもあんたなんて呼んでたら他人行儀で仕方ないよ。名は何てぇんだい」

「……スカーレット。スカーレット・バルンです」

「なんだい、急にしおらしくなったね。先までの威勢は何処に行っちまったんだい。スカーレットねえ。随分ハイカラな名前じゃないか。異国の人は変わった名が多いねぇ。どれ、あんたに新しい名前を付けてやろう。今日からあんたはあたしの娘だ。この幸咲屋に相応しい名前を付けてやるから、これからはそう名乗りな」

「ちょ、名前なんて」

「桔梗」

「え」

「桔梗。あんたの名前は桔梗だ。どうだい? 格好良いだろう」

「そんなこと言われても……。何か、意味がある言葉ですか?」

「紫に膨らむ綺麗な花の名前だよ。風船の様に膨らんで、夜空に耀く星みたく咲く柔らかな花。桔梗。永遠の愛ーーなんて、意味もあるね」

「永遠の、愛。……有り難う御座います。大事にします」

「うんうん。それじゃあ桔梗。喪主頑張んなよ」

「あ、あの、大女将。葬儀って、それに喪主って?」

「ああ、死者の弔い方が違うのかね。でも、あたしは他国の型式は知らないしねえ。桔梗、あんたには馴染みがないだろうが此方の流儀に合わせてもらうよ。喪主はあたしも手伝ってやろう。大丈夫、もう何人も見送ってきたんだ。万事上手くいくよ。喪主を務めたのは一度きりだけれどね」

「いえ、そうではなくて、あたし、葬儀をしてもらっても葬儀代が……」

「はっ、そんなことかいっ。娘がそんな野暮なことを聞くもじゃないよ。親のあたしに全部任せな! あんたは、大切な人を最後まで確り見送ることだけしてりゃあ良いんだ。今のあんたが考えるのは、それだけで良いんだよ。ただし、泣くのは一人になってからにしな。辛かったらそん時ぁあたしが側に居てやらぁ」

「っ……」

「こら! 泣くんじゃないよ! 今言ったばかりじゃないか。あーほらほら。……仕方ないねぇ。泣き虫な娘を拾っちまったねぇ」

「大女将ぃ……お、かあ……さん。あたし、あたし……大事な人、だっ……たの。ずっ、ずっ、と側に、居て……居てくれ……て」

 あたしは大女将の胸に、背は小さいけれど確りとしていて柔らかな大女将の胸にしがみついて泣きじゃくった。

「うんうん。そんなこたぁ、あの散り際の言葉ぁ聞いたら分かってるよぉ。……良い、男だったんだねえ。今時珍しい、男気の太い良い男だったんだろうさ」

「うっ……ぐすっ。ぁ……あい。良い……大、ず、ずぎな、人、だった……でずっ。……っ」

 左手でぽんぽんと背中を優しく叩いて、右手で頭を撫でてくれた。

 会ったばかりの人の胸で泣きじゃくって、それでもこんなに安心出来るなんて思わなかった。あいつの胸の他に、こんなに安心出来る場所が、このあたしに出来るだなんて。

 こんなあたしが、また、誰かに大事に想ってもらえるだなんて。

 思ってもいなかった。

「こんなことぉ言っちゃ仏さんに悪ぃけれどさ、あんたもあたしも、亡くなった仏さんに感謝しなくちゃいけねいねぇ」

「……っ……えぇ?」

「仏さんのお陰で、あたしとあんた。おっと、あたしと桔梗は、出会うことが出来たんじゃあないか。あんた達が無事に逃げ仰せていたら、きっとあたしは桔梗と一生会わずに人生を終えていたよ。こんな綺麗な、人を想える子に出会えたことを、仏さんになっちまった桔梗の好い人に感謝しようじゃないか。ねぇ」

「っ……、ぁい……」

 うんうん、と頷きながら大女将は暫くそうしてあたしを抱き締めていてくれた。


 あたしが落ち着いてから、相方の葬儀を万事滞りなく大女将と終わらせた。

 数日が経ち、見世というのがどういう場所なのか私は知った。あたしは、あたしのこれからの身の振りを決めなくちゃいけなかった。


 大女将は、自由にしてくれて構わないと言った。

『あたしの言葉に絶対に逆らうんじゃないよ』

なんて言っていたくせに、自分の身の振りを自分で決めろと言う。

 有り難い筈なのに、どうしてだか胸が苦しかった。

 あたしは自由にして良いんだ。あたしは自由なんだ。

 これからどうしよう。この見世で働く訳にはいかないのか。

……あたしが、あの人以外に抱かれるのか。

 嫌だ。そんなこと、考えられない。

 愛想を振り撒くくらい容易い。芸も持ってる。芸鼓ではどうか。下働きでも良い。そうだ、そうしよう。まだ若いあたしなら、働き手としては申し分ない筈。

 思い立ったらすぐに大女将の部屋に押し掛けた。


「大女将。私を、この見世で雇ってください」

「……桔梗。それは、女郎になるってことかい?」

「い、いえ、私は女郎にはなりません」

「じゃあどうするんだい」

「私は芸ができます。体も丈夫です。ですから芸鼓でも、下働きでも構いません。この見世で雇ってくれませんか」

 三つ指を突いて頭を下げた。

 この数日で礼儀は一通り覚えた。見世に遊びに来る客にも遊女にも愛想を振り撒いて、あたしを気に入ってくれる人も多い。

 下働きでも芸鼓でも、きっと申し分無い。

 後は大女将の許しを貰うだけーー。


「駄目だよ。桔梗をこの見世で働かせる訳にはいかないね」

 まさかの言葉だった。

「ど、どうしてですか? 私、この数日で色々覚えました。お客さんへの礼儀も、芸鼓の身のこなしも、遊女の姐さん方の技だって。だからきっとお役にーー」

「だからだよ」

「ええ……?」

「桔梗。あんたはね、器用過ぎるんだ」

「……はあ」

 これまた思いがけない言葉。

 不器用で断られるなら仕方ないけれど、器用で断られるとは思いもしなかった。

「よく分かってないようだから、ちゃあんと話すよ? よぉくお聞き」

 こくこくと頷いて、耳をかっぽじって大女将の言葉を一語一句聞き逃すまいとあたしは居住まいを正した。


「いいかい、此処は女郎屋だ。遊びだの恋だのと、何のかのと言っても客は女を目当てにやって来る。この見世は、お国でも一番と言われるような所だ。上客も沢山いらっしゃる。相手をする女郎達も半端な者は少ない。はっきり言って、一流だよ」

 はい、はい。と真剣に相槌を打つ。

「そんな一流の女郎達をね、あんたは飛び越えちまうんだ」

「は? ……大女将、何を冗談を」

「黙ってお聞き!」

 はい! と勢い良く返事して、あたしは口を一文字につぐむ。

「あんたはねえ、このあたしが見ても、この幸咲屋の看板背負しょってるあたしが見ても、天才だよ。それも、礼儀や愛想や技だけじゃあない。面構えまでこの上無いときてる。その切れ長の目、薄桃色の頬、凛とした鼻筋に柔らかな唇。異国の者とは思えない綺麗なあでの有る黒髪。男だけじゃなく女すら魅了しちまうことだろう。だからね、桔梗。あんたを此処で働かすとなると、見世に出さないと、女として見世に置かないと、客が黙ってないんだよ。あんたの耳に入らないようにしてたからあんたは知らなかったろうけれどね、もう、方々名の有る旦那からお声が掛かってるんだ。それに、大御所からも一度顔を見せるようにと催促の文が届いてる。この、たった数日で、だ。あの時、出会いの場がおおっぴら過ぎたのが仇んなっちまった……。だからね、あんたをこの見世で働かすんなら、あんたは女郎に、女になるしか道が無ぇのさ。こればっかりはあたしでもどうしようも無ぇ。此処はそういう所なんだからね。……だから、自由にして良いと言ったんだよ。忘八ぼうはちと呼ばれる女郎屋の女主人のあたしだけれどね、愛した男は死んだ亭主一人だけだった。あたしは、あんたに自分の姿を映しちまってる。あんたが女郎に成んのが嫌なんだ。これはあたしの我が儘だよ。でも、あんたが女郎になるってんなら、あたしも心を鬼にする。本気であんたを売り出して、あんたを一番高く売り込む。それくらいの気位もあたしは持ってんだ。……だからね、桔梗。あんたは、この幸咲屋の看板を背負うか、この見世を去るか、決めなくちゃいけない。あんたは賢い子だから、分かるね?」


「はい」


 一瞬の間の後。あたしは返事した。


「お義母さん。あたしを、女郎にしてくださいまし」


 三つ指を突いて、深く、長く、御辞儀した。


「……あい。分かった。あんたが決めたんなら、あたしはもう何も言わない。それに、明日から稽古始めるよ。良いね?」

「はい。承知しました。宜しく、御指導御鞭撻願います」


***


「そうしてあたしは女郎に、そして花魁に成った。自分で言うのも何だけれどね、瞬く間だったよ」

「でも、桔梗の姐さんは、何方どなたの所にも身請けされなかったのですね。きっとお声は多かったのでしょう?」

「そうだねぇ。大御所の側室に、なんてのも有ったよ。ただねぇ、あたしは、誰の物にもなりたくなかったんだ。あたしは大女将の、お義母さんの物んなったからね。他の誰かに所有されんのなんて、あたしは真っ平だった」

「それで、大女将が亡くなってからも独り身を貫いてらっしゃるんですね?」

「そう……だね。それもあるね。でも、それだけじゃあないんだよ」

「他にも?」

「うん。あたしの身体は大女将のもんだけれど、あたしの心は、今でもずっとあの人の、あの人だけのもんなんだよ」

 言いながら、姐さんの目端には涙が粒になっていた。

「色んな男の女になったし、色んな男と偽りの愛を語らった。それも、あたしにとっちゃあ大事な時間。でも、それでも、あたしん中には、お義母さんとあの人、消せない二人が居るんだよ」 


「…………」


「……はい。これであたしの身の上話は終いだよ。あんまり楽しい噺でも、美談でもなくて御免なさいだったね」


「そんなことないですよ。本当です。あたしが一生得られない様な出来事を聞かせて頂きました。それに、女郎としての大事なものも学ばせてもらったように思います。桔梗さん、有り難う御座います」


 私と桔梗さんのこの話のずっとずっと後、桔梗さんは大女将と呼ばれることになるのですが、それはまた、別のお噺ーー。


 女郎は若くあって見世を彩り街を飾る。

 命は短い。恋をしなさい華なのだから。

 偽りの恋とはなから知っていても。

 求めずにいられない愛しい刻よ。

 嗚呼、此度こたびの出逢いは奇縁だけれど。

 嗚呼、何でこの心を震わすのか。

 何時か去りゆく貴方と知っていても。

 何で愛しく思ってしまうのか。

 それは私が女郎だからだろうか。

 それとも、本気で貴方を想っているからだろうかーー。


(次話へ続く)

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