第38話

「おはようございます!」


元気よく飛び込んだ局のオフィスには、なんだか徹夜明けっぽいように疲れ果てた横田さんと市山くんに、芹奈さんがいた。


そして、全くの着崩れなく1ミリの誤差もない、完璧な状態の長島少年の姿。


どんよりとした空気が、部屋を支配している。


「昨日は、よく眠れましたか?」


少年はその笑顔だけでなく、声まで透き通っていた。


「はい」


そう答えた私の隣で、横田さんはげっそりとした顔を両手でこする。


「何か問題でもあったんですか?」


「いえ、全て順調に進んでいますよ」


私の問いかけに、透明な少年はにっこりと微笑んだ。


それなのに市山くんはうつむいていて、さくらは横を向いたまま黙っている。


「僕は、明穂さんに感謝している人間の一人なんです」


長島少年は言った。


「人生におけるライフイベントを、連続型確定変数として表すとすると、その大前提は、全ての人間は善であるということになっています」


少年は、細い腕に白い杖で歩く。


芹奈さんだけが、だまってその話を聞いていた。


「かつて、ハーバードの成人発達研究、ロバート・ウォルディンガーが行った、史上最長と言われる幸福の研究がありました」


始まった。


PP3000の謎発言。


私は居心地の悪さに、周囲を見渡す。


「相関関係があるという結論の精度に、確信的信頼がおけるのならば、それに因果関係があるのかどうかということは問題になっても、予測することには大いに役立ちます」


みんなが疲れているのは、こんな話しに一晩つき合わされたからなのかな。


「信頼できるデータを数多く集める事ができるならば、統計学的判断は数学的に行えますけど、その信頼できるデータ収集はとても難しいのです。特に暗数がからむと」


だから、こっちにそんなかわいくウインクされても反応に困る。


とりあえず愛想笑いをしておく。


「いや、すみません。僕は実際には、これは数学の問題ではなく、哲学の問題だと思っているのです」


彼は、冷たく光る透明な笑顔を浮かべた。


「ソクラテス以降、ずっと議論されてきたことが、現代になってようやく膨大なデータを元に立証されようとしているんですよ、これが落ち着いていられますか?」


だから、どう返していいのかが分からない。


「そうなんですか? すごいですね」


「ありがとう。分かってもらえなくても結構です」


彼は、見た目にはしっかりとした足取りで、くるりと背を向けた。


「とにかく、この調子でお願いしますよ。僕はいま、とても楽しんでいます」


ひらひらと舞った彼の白い手に、横田さんのパソコン画面が、不規則にゆがんだ。


「この画面の揺れ、まだ直ってないんですね」


私がそう言うと、少年はパソコン画面に視線を向けた。


小刻みに揺れるその画面は、一定時間を経て、元に戻る。


「あぁ、まぁ、システムに問題はないのですが、確かに気にはなりますよね、後で改善しておきます」


そう言い残して、杖をつく彼の後ろ姿が扉の向こうに消えた。


その瞬間、ようやく開放された緊張から、安堵のため息が広がる。


さくらが立ち上がった。


「ま、コーヒーでもいれるわね」


「いや、胃にきそうだから、お茶でお願いします」


みんなもそれに同意して、さくらは全員分のお茶をいれ始めた。


「なにかあったんですか?」


「別になにも!」


珍しく疲れたような芹奈さんが、肩をすくめた。


「なにかが起こるのは、これからだ」


横田さんの厳しい目つきが、じっとパソコンのモニター画面から離れない。


何があったのかは分からないけれども、何かがあったのは間違いない。


七海ちゃんが立ち上がり、芹奈さんに何かを話しかける。


そこに横田さんも加わって、なにかの相談を始めた。


私はその大切な何かがあった時に、ここには居なくて……。


さくらはぐったりと放心状態だし、市山くんは机に顔を埋めて寝ている。


聞くに聞けない雰囲気に、私は口を閉ざすしかなかった。

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