第5話
例えば、ビアンは偏食家という性質を持ち合わせていない。
ビアンの出身地コトンは、綿の名産地である。この国においてほぼ唯一衣服の元となる綿の需要は大きく、かなりの出荷数を誇るコトンの村。田舎町ではあるが、経済的にはそれなりに裕福と言える。
綿の生産によって大量の銀貨がもたらされ、その銀貨でコトンの人々は余所の地方の食材を求める事が出来た。ボーネの豆、オライザの米、その気になればヴェネーシアの貴重な塩だって取り寄せる事が出来た。その土地で生産せずとも、食材はいくらでも用意できたのだ。いくら綿が取れたとしても、その綿を食べて生きていく事は出来ず、綿は仕事の種でしかない。だから、積極的に外との流通を行う。その結果、コトン出身者は、余所の地方の食文化にも馴染みがある。
しかし、フィオーレ村出身の姉弟がそうであるとは限らなかった。花の村として有名なフィオーレも根本的にはコトンと変わらない。花を育てて出荷する。が、フィオーレ村の多くの人達は、その傍らで野菜作りもしており、自給自足によって生活している。つまり、その土地でできた物を、自分達で消費する。地産地消が主であり、他に食を求めない。フィオーレの土地で作られる限られた食材で、彼らの食生活は成り立っている。
すぐ隣にボーネ村があったのも原因の一つかもしれない。ボーネでは、三大穀物である米、小麦、玉蜀黍に次ぐ代表的な食物である豆が豊富に獲れた。遠くの地へ求めずとも、食うに困らない分は近場で用意できたという訳だ。その為に、他の地方で作られる食材を知る機会に恵まれなかったのだ。
その一例として、ライゼルは玉蜀黍を初めて見たと話す。ベニューも染料としては触れた事があったが、食材としてそれが香ばしく焼かれているのを初めて見たという。曰く、食欲が湧かない、と。だから、ビアンが美味しそうに食べているそれを、自分達も食べたいとは思わなかった。
「なんだか、がっかりだよ」
「どうしてだ?」
「美味いものが食えるって聞いて楽しみにしてたのに、あるのはヘンな物ばっかりじゃんか」
王国最大の食の街を相手に随分な言い様である。ライゼルの物言いは、この国の美食の全てが集まるミールにいる人間の言葉ではない。確かに食文化は一番生活に根付いている物であり、その差異は俄かに受け入れられないという事はよく分かる。だが、いくらライゼルが世間知らずと言えど、言って良い事と悪い事がある。少なくとも、ビアンはそう感じる。
「バカ言え。焼き玉蜀黍は屋台の定番中の定番だぞ。この香ばしい匂いに鼻孔をくすぐられ、齧れば濃厚な旨味が口の中に流れていくんだ。食わず嫌いしてないで、お前達も食ってみろ」
食の街ミールの中心地で、黄色い細長い食べ物を勧められる田舎出身の姉弟。ビアンは平気な様子だが、姉弟はどうも落ち着かない。姉弟にとって、これ程の人数がひしめく場所に足を運ぶのは初めての事だった。
一行がいるのは、ミールのほぼ中央に位置する大通り。車三台は並んで通れるだろう大きな石畳通りの両端に、所狭しに屋台が並ぶ。:一間(いっけん)程の幌の中に人一人が入り、その狭い作業場の中で各々が料理を仕込んでいる。調理場と売り場の空間は共有されており、出される料理も比較的に手間のかからない物が多い。こういう屋台での商売は、どれだけ多く捌けるか、時間との勝負なのかもしれない。
ベニューも一応は商いを営んでいる者であり、各店舗を観察していて感心させられる事は少なくない。第一に、各店それぞれの商品を、お客と金銭でやり取りしている。ベニューは普段、染物の代価として食料を受け取っている。必要不可欠なものであるが故に、食材を頂けるのをありがたいと思っていたが、同時にかさばり場所を取り、不便だとも感じていた。こういう忙しない場面を見ていると、銅貨の役割についてベニューは考えさせられたりもする。
(村の外で生活するには、お金って大事なんだなぁ)
ライゼルの腰に下げられた麻袋を横目でちらりと見やり、ふとそんな風に思う。彼が持つ麻袋の中には大量の銀貨がある。用途は誰も聞き及んでいない。安易に買い食いに興じない所を見ると、倹約するだけの目的があるようにも見受けられる。
「食ってみろって言われても、こんなに種類が多いんじゃ、何を選んだらいいか分からないよ」
「そうだね、通りの向こうまでずっとお店があるもんね」
食の街ミール。そう呼ばれる所以は、この街で振る舞われる品数の豊富さや、そのどれもが永きに渡ってベスティア王国民の舌という振るいに掛けられ続け、今も愛され続けているという確かな味にある。王国中から集った料理人が研鑽に研鑽を積み、その味を芸術の域に昇華していった。その結果が、王国の台所と比喩される、この街の賑わいだ。日中は、全国各地からその味を楽しもうと、大勢の人々がひしめいている。
どちらを向いても、人、人、人。各露店で焚かれる火に加え、人々の食に対する熱気のせいか、暑苦しさすら覚える。故郷を離れ、数日掛けてやってきた場所は、まるで異国の地のようだった。見た事もない食べ物に舌鼓を打つ彼らは、違う文化圏の人間なのだと認識せざるを得ない。
「食事は文化だ。美味いもんは心を豊かにする。人間が味覚を持って誕生した理由はきっとここにあるんだろうな」
「変なビアン。似合ってないよ」
美味を食い歩き、ご機嫌なビアンは姉弟が初耳となる持論を提唱するが、ライゼルは不満だった。通りすがる店の前から見える、屋台の奥の釜土を睨みつけながら、ビアンに悪態を吐いた。
ライゼルも食に関心がない訳ではない。事実、この通りに来るまでは、初めての買い食いと言う事もあり、楽しみにしていた。だが、ライゼルにとって食事とは卓に着いて行う事であり、食べ歩きなる習慣は身に付いていない。
「変なのはお前の方だぞ、ライゼル。フィオーレ以外ではこれが普通なんだよ。意地張ってないで、行ってこいよ」
「いいよ、別に」
自分ばかり楽しんではビアンも面白くない。ベニューに付き合えと言っても、ライゼルが食べないなら、とやんわり辞退される。大人の自分だけはしゃぐというのも体裁に影響する気がするので、存分に舌鼓を打てない。
ビアンから言わせれば、ライゼルのそれはただの食わず嫌いなのだが、少年が屋台に対して消極的な理由は他にもあった。何も、行儀よくしないとベニューに叱られるから、という事でない。ベニューはもちろんその理由を承知しているし、ビアンも今は気が回らないだけで知らない訳ではない。本人が頑なに口にしないのは、それを恥じているからなのかもしれない。
「勿体ない。クティノスに着くまで、卓以外の食事を保存食で済ませるつもりか? 俺は付き合わんぞ」
あまりにもしつこい勧誘に、ライゼルは機嫌を損ね、語気が荒くなる。
「っていうか、ビアンは仕事中だろ。買い食いなんてしてていいのかよ」
露店と言うものが想像していた雰囲気と違っていて、ライゼルは機嫌が優れない。例えば、これが厨房と客席とで間仕切りしてあれば、自分も楽しめるのに、と恨み言を言いそうになる。楽しめない理由が自分にある事を自覚しているライゼルはそれを飲み込むしかない。が、一人だけ満喫しているビアンを見るとついつい八つ当たりしてしまう。
「何言ってんだ。仕事していようがいまいが誰だってメシは食うんだ。むしろ、鋭意勤務中であるが故にウマいモンを食える、これは役得だ」
「へっ、言ってろ。王都に着いたら王様に言い付けてやる」
そう言って、屋台の立ち並ぶ大通りを進み、この街の北部にある船着き場を目指していたが、その行く手の途中に二つの人だかりを見つける。大通りに人が大勢いる事は先に記した通りだが、その中でも目立って客が集中し、どちらも屋台の前に人がひしめき合っている。
「あのお店、随分繁盛してますね」
「繁盛だと? 揉め事の匂いがするぞ?」
ベニューは期待感を込めて、ビアンは怪訝そうな顔で、異なる様子でその人だかりを認めた。というのも、それぞれの反応が違うのは、それぞれ違う人だかりを見つけていたからだ。どちらも喧噪には違いないが、種類が違う。
手前に見える一つ目の人だかりからは歓声が聞こえる。こちらはベニューが気に留めた繁盛している方の人だかり。商いを生業にしているベニューは自然とそちらに目が行った。
その少し先に見える二つ目の人だかりからは、先のとは反して怒鳴り声が聞こえる。ビアンは何が起きたか予想が付く上、それを無視できない。法を順守するビアンは、怒声や罵声に耳敏い。
「お前達はそこで待ってろ。俺は向こうの騒ぎを収めてくる」
駆け足で向かいながら、ベニューが気にした屋台を指し、ライゼル達にそこでの待機を命じていったビアン。所轄の到着を待たず、率先して出向く辺りがビアンらしい。すぐさま怒声の聞こえた方の人だかりに分け入っていく。
待機を命じられた二人は、言葉通りに待つ事にした。ベニューが見つけたその屋台には、遠目からではあるが調理場のようなものは見当たらず、ライゼルが嫌がる要素はなさそうだった。これなら心置きなく見物できる。
「じゃあ、いってみよっか、ライゼル」
「おう」
ベニューに連れられて、ライゼルは歓声の上がる人だかりを目指す。ようやく楽しめそうな露店を見つけ、意気揚々と走り出す姉弟。ライゼルを気にして屋台をあまり楽しめなかったベニューも、俄かに気分が盛り上がる。
屋台自体を初めて見る姉弟は、先程見たような飲食物を売る屋台以外に知らない。ただ、大勢の人が集まるという事は、それだけ魅力的なものを販売しているに違いない。そう思うと、俄かに心が弾んでくる。
隙間なくひしめく人混みを掻き分け、歓声の原因を、その屋台の正体を、姉弟はついに目撃、
「なんもないじゃん?!」
できなかった。というより、そこには一人の青年と、その周りにいくつかの雑貨があるだけだった。ただ、その雑貨も使い古されている様子で、どうやらそれが売り物である訳でもないらしい。表面処理されていない不細工な木の板を作業台にしており、その上には握り鋏や布切れ、数束の糸と紐と、ベニューの工房の道具と変わり映えしない。食事を供する店でない事には歓迎なのだが、これでは何の店なのか分からない。
「修理屋かなんか?」
隣にいた中年の見物客に尋ねてみると、そう向けられた見物客が失笑する。何を笑われたのか、ライゼルとベニューには分からない。無知を嘲笑されたのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。どちらかと言えば、言い得て妙だったのだ。
「修理屋か、違いねぇな。ただ、この人が修理するのは人間だ」
「人間!?」
「どういう事ですか?」
人間の修理という言葉にいまいち実感が湧かない姉弟。親仁も説明しかけて、これ以上の上手い例えが見つからない様子ですぐ諦めた。そして、人差し指で視線の誘導を指示し、姉弟もその方向に視線を送る。
「言って聞かすより、実際に見てみな」
中年の見物客が指さした先に、年の頃は30くらいでやや短めに刈られた焦げ茶色の髪の青年が、妙齢の女性を手当てする姿がある。幌の中には、ちょっとした作業台とその二人しかない為、他の飲食店と比べ、如何ばかりか広いようにも感じる。この屋台の中に他に見る物もなく、ライゼルはじっとその二人の様子を見ている。
女性の手の平にかぶれた箇所があり、向かいに座る青年がその患部をじっくりと観察している。しばらく黙って見ていたかと思うと、なにやら植物の名前らしいものを口にして、道具箱の中から小さな瓶を取り出す。青年は患部の状態から原因の見当が付いたらしく、その治療に適した塗り薬を取り出したのだ。
「教会の人?」
教会は、星脈に流れるムスヒアニマの管理を教育してくれる。気であるムスヒアニマが枯渇し、気枯れ(穢れ)とならぬよう、信者の体調を調整してくれるのだ。穢れとは、体内でのムスヒアニマの活動が適わなくなる状態の事であり、有り体に言えば人間としての機能を損ねている状態の事を指す。体内のムスヒアニマが枯渇してしまえば、著しく身体機能が低下し、酷い状態に陥れば最悪死を覚悟しなければならない。
故に人々は穢れの元と考えられている怪我や病気をひどく嫌悪しているのだが、日々の生活の中でどうしてもその危険性は完全に排除できるものではない。加えて、一度穢れてしまえば、その穢れを祓う事はできないとされている。穢れは蓄積され、管理を怠れば、身体は蝕まれていってしまう。その為、病魔に負けない体づくりに関心があり、臣民の健康意識は高く、教会の使者の功徳を熱心に聞く。教会の教えは、生活に密接に結びついているのだ。
姉弟は教会の存在を書物でしか知らない。が、挿絵に記されていた人物は、違った拵えの衣服を身に纏っていたはずと、ベニューは微かな記憶から思い出す。
「そうは見えないけど?」
実際に目にしている青年の格好はと言えば、処置で汚れたのだろう、黒や赤の滲みが付いた簡易な誂えの作業着を身に付けている。その姿からは、とても穢れを忌避する教会の人間とは思えなかった。汚れの具合に関しては、畑仕事を終えたライゼルのダンデリオン染めにも匹敵しているかもしれない。客商売をする人間の格好には相応しくないように思える。
そんな印象を抱かれているとは露知らず、三十路男は、患部に植物の葉をすり潰した物を擦り込んでいる。すり潰された植物から、汁が流れ、傷口を浸していく。滲みるのだろうか、女は僅かばかり表情を歪める。
「あれで傷が治るの?」
問われた中年男性は、自らの腕部を姉弟に見せながら答える。
「不思議なもんでな。つい先日俺も切り傷を見てもらったんだが、もう傷口が塞がっちまっているんだよ」
「結構大きそうな傷だけどもう治ったの?」
男が見せた傷は、手のひら大の幅に渡って付けられたひっかき傷だったが、治癒してしまったらしくその痕はほとんど見受けられない。
「ありがたい事だよな。どこかの集落には民間療法の類が残っているらしいが、ウォメイナが広まってからは、大っぴらに医術の世話になる事は出来ないもんな」
教会の教えでは、怪我も病気もその解消は自然治癒に任せるのが奨励されている。人が人の体に加工を施す事は、唾棄すべき事と教えられているのだ。故に、王国全体で医療技術の進展は望まれていない。残っている医術と言えば、各地方に言い伝えられている眉唾物の民間療法くらいだ。なので、こうして施術に預かる事は滅多にない。
「あの人はああやって各地で怪我を治してるそうだ。教会の人間でもないのに、大したもんだよなぁ」
周りの見物客同様に、ライゼルとベニューも感心している。というのも、この国では医学が発達しておらず、こういう治療が出来るものは、この国に皆無と言って差し支えなかった。今まで退屈続きだったライゼルが、これ程稀有な体験に関心を向けない訳がない。ようやく面白そうな事柄に巡り合えたのだ、喜ばない訳がない。
興味を覚えたライゼルは、治療を終え立ち去った女性に代わり、男の前の椅子に跨ぐようにして腰掛ける。青年と顔を合わせ、嫌味でない程度に、腰の布袋をちゃりんと鳴らす。代金を持ち合わせている事をさりげなく主張したのだ。ベニューが後ろで眉根を寄せたが、今のライゼルは意に介さない。
「俺も怪我こさえちゃってさ。見てよ」
男は面食らう様子もなく、早速ライゼルの腕を取り、ライゼルの望み通りに怪我の具合を確認する。鋭利な物で引き裂いたような傷が、六花染めに覆われていない部分に多数窺い知れる。どころか、首には縄か何かで締められたような跡も見受けられる。怪我の具合が相当酷い事に気が付いた男は、手は止めずライゼルに問う。
「喧嘩でできた傷か?」
「喧嘩…っていう訳じゃないんだけど。道中、変な奴らに襲われて。それと試合の分もあるかも」
「…そうか」
如何ばかりか逡巡した後、短くそう答えただけで、それ以上は追及しない。先の反応もそうだが、まるでライゼルには関心がなく、怪我を治療する事にしか意識が向かないようだった。ただ、薄情そうにも見えるが、無碍にしない辺り、見た目ほど冷たい人物でもないのかもしれない。
男がライゼルに関心がないからと言って、その逆も成立するとは限らない。ライゼルの方は、その男に関心を持った。少なくとも、他の屋台に並ぶ美味よりも魅力的に映った。
「俺、ライゼル。おじさんは?」
「名前を訊いているのか? イミックだ」
会話をしながらでも作業の手は止めない。それでも耳は傾け続ける。姉弟よりも一回り以上は年上に見受けられるが、ビアンと違い、おじさん呼ばわりされても訂正しない。人の目にどう映るのかに関心がないのか、年相応と自覚しているのか。無駄話こそしないが、質問には律義に返事をする。変わった人物だとベニューは思った。
「イミックはどこの人? いつもここにいるの?」
「質問が多いな。無駄口叩いていると、傷口を広げるかもしれないぞ?」
すげなくあしらう事はしないが、それでも絶え間なく浴びせられる質問を煩わしくは思っているようである。ちょっとした脅し文句でライゼルの好奇心を牽制する。だが、ライゼルはさして気にする様子でもない。
「大丈夫、俺は二倍だから」
イミックの思惑は外れ、ライゼルは得意げに返してくる。ライゼルの返答がどういう意味なのかはイミックには伝わらない。何が二倍であれば、どう大丈夫なのだろう? 自分は熱心に尋ねる割に、相手の質問には正確に応えないライゼル。ベニューは何の事か分かっていただろうが、特別付け加える事もしない。
「そうか、二倍か。それはすごいな」
イミックも別段追求しない。雑談に煩わされて処置が失敗してはイミックとしても面白くない。そもそも、イミックにとって、ライゼルは通りすがりの一客だ。この処置が終われば、その後顔を合わせる事もないだろう。深く付き合う必要はない。
「イミックはどこでこういうのを習ったの?」
口数少ないこの男は、見た目通りのいぶし銀な職人ぶりを発揮する。処置は正確かつ迅速で、素人のライゼルの目から見ても手馴れている事が分かる。これまで、多くの人を診てきたのだろう。
だが、素人と表現したものの、現在この国に医学の専門家など存在しない。過去には医療分野に特化した研究を行う一族が存在したが、約十年前に王都クティノスで起きた『ある事件』以降その活動が制限され、今は衰退の一途を辿っている。
故に、イミックのように他者の外科手術を専門的に行う者は、このベスティア王国にはいないのだ。怪我は霊気(ムスヒアニマ)の抜け道と考えられ、穢れの感染経路という認識が一般的だ。穢れに関わる物には近づかない、それが一般論である。それなのに穢れを恐れず処置をするという彼の姿に、ライゼルが疑問を覚えるのも無理はなかった。
「知人に詳しいのがいた…まぁ、直接指導を受けた訳じゃないから独学に近いかもしれないが」
傍から見てイミックの様子は別段変わったようには見受けられなかったが、イミックのライゼルの腕を握る手からふと力が抜けていた。もしかしたら、その話題の中で触れられた知人に想いを馳せていたのかもしれない。ライゼルがもう少し目敏ければ、その事についても追及していただろうが。
「独学? 教えてもらえなかったの?」
口にこそしないが、ライゼルが田舎者の世間知らずなのだと、イミックはここに来て理解する。国内で、医学の教育どころか、むしろ制限されているという事を知らないのは、つまり、世間の事情に疎いという事だ。だからこそ、無遠慮に連続で尋ね続ける事が出来る。常人であれば、ライゼルと違った感覚でイミックの在り方に疑問を持つだろう。何故自ら穢れに近付く真似をするのか、そのような事をして何の得があるのだろうか、と。
「イミックはなんでこういう事をやろうと思ったの?」
だが、ライゼルはその一般的な考え方に当てはまらない。無知であるが故に湧いてくる疑問。常人が抱く疑惑でなく、純粋な興味から生じた疑問がイミックに向けられる。知りたいのは行動の動機。
例えば、ライゼルは村の外の世界を知りたくて旅立ちを望んでいた。本人しか知らぬ事であるが、ベニューは大好きな母フロルを近くに感じたくて、染物を覚え始めた。では、イミックの行動原理、第一義とは何なのか? ライゼルに他意はなく、純粋にイミックその人の事を知りたいのだ。
質問を向けられたイミックは、言い淀む事もなく、かと言って志高く言い切るでもなく、静かに溢す。
「誰だって、しかめ面より笑っていた方がいいだろう」
あまりにも無感情に言い放つものだから、姉弟以外の人間はそれが本心だとは思わなかった。鬱陶しい子供を煙に巻くための適当な口実、周りにいた大人達は誰もがそう思った。他人の穢れを予防する見返りが笑顔だ、などと誰が信用するものか。
「素敵ですね」
「いいね、そういうの好きだよ、俺」
姉弟はイミックの返答に満足し、二人で見合って笑みを溢す。言葉を交わさずとも二人なら通じ合えた。姉弟の最愛の人物が、同時に脳裏に浮かんだからだ。善を為すのに、何か特別な逸話など、彼らに必要なかった。
「そうか、それはよかったな」
やはりイミックの態度は連れない。どうにか関心を惹こうと、ライゼルは作業台の端に申し訳程度に置かれた代金置き場に手を伸ばす。儲けを盗られる悪戯をされたら、流石のすげないイミックも反応を示すと見たのだ。
「やめなさい、ライゼル」
ベニューの咎めるのも聞かず腕を伸ばすライゼルだったが、手に取ったのは貨幣ではない。
「銀貨以外に変なのがある。この黄色い石ころは何?」
そう語るライゼルの手には、確かに黄色い石が乗っている。銀貨に紛れて、[[rb:笊 > ざる]]の中に入っていたのだ。
「それはグロッタで処置をした時、肩代わりにもらったものだ。風で飛ばされないように重し代わりにちょうど良かったんだ」
「こんな石でも価値があるの?」
フィオーレを出た事のなかったライゼルには、鉱石に価値がある事が腑に落ちない。無理もない、フィオーレに宝石の類はほとんどないのだから。素人目から見ると、鈍い光沢を放っていて綺麗な石だな、程度の感想しか浮かばない。
「当人曰く、雨を降らせるありがたい石なんだそうだ。その手のまじないの話を確かに耳にした事はあるが・・・取れない所から絞っても仕方ないだろう」
グロッタで採れる鉱石は、地方で信奉されている占いなどに用いられる事もあり多少の需要はあるが、未加工の場合は大した価値がなく、経済活動における換金能力はほとんどない。つまり、イミックはほとんど支払い能力のない人間相手にも、怪我の処置を施している。もちろん、毎回それを認める事は出来ないが、時には無償にも近い施しを与えているのだ。
「イミックは優しいんだね」
「そうは自覚していない。ただ、甘いだけだ」
ただ、全ての者がこの人に好意的な感情を抱いている訳ではない。穢れと接する以上、どうしても恐れを抱かれてしまう。未知なる領域を恐れるのは、知恵を有する人間の本能である。理解するのが困難であれば、理解を放棄し、距離を置けばいい。彼らの反応は自然な事と言える。
「確かにすごいが、あんまり関わり合いにならない方がいいんじゃないのか?」
「そうだな、加護を受けてない者が穢れを扱うのは、なんだか気味が悪いな」
医学を探求する一族が起こした不祥事以降、世間一般の医学への信頼や信憑性は驚くほど低い。故に、一人が抱いた不安感は一気に伝播し、物珍しさで集まっていた人達も、徐々にその場から離れていく。それに対して、イミックは弁解もしなければ憤りもしない。物珍しさに群がった客連中も、イミックにとっては関心を惹く対象ではない。ライゼル同様、ただその場限りの付き合いなのだ。
「そんな言い方ないだろ!」
薄情な態度に義憤するライゼル。散り散りになっていく見物客の背中に鋭い眼差しを向ける。人の厚意を踏みにじるような態度が許せなかった。
「構わん。それが真っ当な反応だ」
イミックに諌められ、ライゼルもこれ以上は、街の人を非難しない。だが、それで収められる程に人間は出来ていない。興奮し、鼻息が荒くなる。
「納得いかない。イミックはそれでいいの?」
「穢れに対する認識はあれが普通だ。よっぽどお前さんがおかしいくらいさ」
他人の為に感情を爆発させられる少年を前にして、思わずイミックの口から素直な印象が漏れる。ミールの人々が特別なのではない。どこの集落でも最終的には似たような扱いを受けてきたイミック。
だが、これ以上はどう言っていいものか悩んでしまう。イミックの中にも穢れに対する本音と建前がある。どちらを伝えるにしても、ライゼルは穢れの知識がなさすぎた。今のライゼルに何を話しても、どちらが正しいのか判断する材料を持ち合わせてない。ただ、イミック自身どっち付かずなのだから、ライゼルと大差ないのかもしれない。
「俺が? さっきの人達じゃなくて?」
世間との間隔のズレに釈然としないライゼル。ベニューも、自身の本音と姉としての建前の前に立ち往生してしまう。これから外の世界に身を置こうとする彼に、外の常識を伝えておかねばとも思う。が、ライゼルがこういう風に育ったという事は、母がそう教えなかったからでもある。きっと母にも何か意図する事があったのかもしれないと思うと、躊躇ってしまう。結局、身内であっても、イミック同様にライゼルへ掛ける言葉を見つけられない。
そんなベニューの背後から声を掛ける一人の男がいた。
「どうした? もう店仕舞いだったのか?」
誰もライゼルを導けないままの所へ、一仕事終えたビアンが戻ってくる。先程まで店の前には人だかりがあったが、今はライゼルとベニューの二人しかいない。そう言ってしまう気持ちも分からないではないが、未だ閉めるつもりのないイミックには随分な嫌味にも取れる。
「ビアンさん、おかえりなさい」
「言い付け通りにしてたな…まさか、お前達が食い尽したのか?」
ライゼル達の傍へやってきたビアンは、イミックの幌を眺めながら訝しむ。ライゼル達が初めてイミックを見掛けた時と同じ反応を見せる。食の街ミールに出店しているにも拘らず、食材もなければ調理場もないというのはどういう了見か、という顔だ。今更ながら、イミックの露店は他と比べ異質と言える。
「いいえ、この方はイミックさんと言って、『修理屋』をやられているんです」
咄嗟にごまかすベニュー。何故はぐらかさなければならなかったのか説明はできないが、なんとなくまずいと思ったのだ。法の順守に厳格なビアンがイミックの仕事内容を知れば、取り締まるかもしれない。ならば、イミックの行いを善と判断したベニューは、その事を伏せておこうと考えた。
自分の手提げ袋を修理してもらったという態で、ライゼルから銀貨を受け取り、作業台の脇に置かれた賃料箱に代金を入れたベニュー。それを見て、ライゼルも黄色い石を笊の中へ戻す。
ビアンもそれ以上は言及せず、その場で先程取り締まった事案の愚痴を漏らす。
「しかし、まいった。管轄外で無銭飲食を取り締まらなければならんとはな」
「無銭飲食?」
「あぁ、向こうの店先でたらふく飲み食いした後に、代金を持ち合わせない事が発覚したんだ」
先程ビアンが見咎めた人だかりは、無銭飲食の揉め事を見物する客が群がっていたのだ。
「それでどうなったの?」
先の件を引きずりながらも、ビアンが体験した話も気になるライゼル。話の流れで、一行はイミックの店先で話し込む。周りに注意を払えば、観光客も露天商もその話で持ちきりだった事が分かるだろう。先のイミックの店の前に群がっていた見物客は、そちらの取り締まっていた現場に移動していたのかもしれない。
「俺が出向いた時には犯人は行方を眩ませていて、これは伝え聞いた話になるが。その犯人は金を持っていなかったんだが、そいつが唯一持っていた水瓶に酒が入っていて、それを代わりに店主に振る舞って事なきを得たという話らしい。気付いた時にはその者は既に立ち去っていたそうだ」
「お酒だけ? たらふく食べたんですよね?」
商売を生業にしているベニューには聞き捨てならない事だった。物々交換は実際ある事だし、酒も一般的にそれなりの値打ちがあるが、量との釣り合いが取れているとは思えない。製造に手間の掛かる代物ではあるが、それ程高価という訳でもない。
そう問われたビアン、先程とは打って変わって、まるで自分の事のように誇らしげに語る。
「それが、店主の長患いだった持病が一舐めした途端に治ったんだ。それで気を良くした店主が代金を帳消しにしたんだよ」
ビアンの聴取を総合すると。無銭飲食が発覚したが、代わりに酒で対価を支払った。すると、酒のおかげか四十肩の解消された店主に、周囲は騒ぎ出す。そして、その混乱に乗じ犯人は逃走。周囲の者が犯人を探し出して捕まえようと怒号を上げていたのが、ビアンが到着した時の事。だが、機嫌を良くした店主はお咎め無しとし、事件は解決したのだった。ビアンは先を急いでいたという事もあり、その一件は駐在している治安維持部隊アードゥルに任せ、こちらに戻ってきた。
「いやぁ、しかし、本当にそんな酒があるのなら俺もお呼ばれしたいものだ」
冗談半分で言い放つビアン。いつものビアンならその話を真に受けはしないだろうが、到着した瞬間に事件が解決したとあっては何が何やら。被害がなかったというのであれば、美食に舌鼓を打ちご満悦なビアンも真偽にこだわる必要はない。
だが、イミックにとっては、こだわらなければならない理由があった。
「おい、そこのあんた」
イミックの低い声に呼び止められて我に返るビアン。姉弟も自分達が店先で話し込んでしまっている事に気が付いた。並んだ三人が遮っていては、他の客が近寄れない。再び人が集まるかどうかは別として、無意識の内に営業妨害になっている。
「あぁ、悪かった。じゃあ、行くか」
ビアンも商売の邪魔をしてしまっていた事に気が回ったらしく、その場を立ち去ろうとする、が。
「待ってくれ」
却って呼び止められてしまう。困惑する三人。どうやら、追い払う為に声を掛けたのではない。イミックがこだわらなければならなかった理由は、そこにはない。
では、何が目的なのか。あまり多くに関心を示さないイミックの目的は一つ。
「その話、もう少し詳しく聞かせてくれ」
予想外にもその話題に強い興味を示すイミック。何が彼の琴線に触れたのやら、イミックは前のめりに問い詰める。余りの勢いに、作業台についた手が裁ち鋏や巻糸を押し飛ばしてしまう。
「何から話せばいいやら」
乞われるままにビアンは先の件を子細に話す。無銭飲食したのは年端もいかぬ少女で、年の頃はベニューと変わらぬくらい。珍しい装いであったから付近の住人ではないのだろうが、素性もラホワという名前以外は分からなかった事。身分証(ナンバリングリング)を身に付けていなかったから、孤児か浮浪者か。その少女が不似合いな酒瓶を携えて、腹を空かせて屋台を渡り歩いていたという妙な話を、懇々とビアンは説明する。
「事なきを得たのだから文句はない訳だが、主人はこんな話が聞きたかったのか?」
「あぁ」
イミックは返事も程々に店仕舞いを始めていた。その不思議な酒を持つ少女の特徴を訊いたイミックは、道具を手早く片付け終わると、
「そいつに会いたい。どこに向かった?」
「私が現場へ向かうまでそんな少女を見掛けていないから、この通りから南には行ってないだろう。それなら街の北側の船着き場辺りじゃないだろうか?」
このミールの街は、大きく分けて四つの区画が存在する。一つはこの大通りのある商業区画。ここには、料理人や商人達が屋台を開いている。次に、街の東側にある居住区。ミールの住人はここの住宅地で生活している。そして、大通りを挟んでその反対側である西側に、食料品などが備蓄されている倉庫街がある。大通りで商いをしている者達の商売道具がここに大量に置いてある。最後に紹介するのが、少女がおそらく向かったであろう、波止場である。その船着き場からは、水の都ヴェネーシア行きの船が出ている。村の出入り口は南の正門とその北の港のみ。
少女が身分証を身に付けていない所を見ると、住宅街や倉庫街に立ち寄っているとは考えづらく、加えて南側にいたビアンが遭遇していないとなると、残る北側の船着き場に向かったのだろうという公算が高い。
「そうか、ありがとう」
それだけ伝え、足早に駆けていった。
「変な修理屋だな。そんなに酒が好きなのか?」
イミックの生業を知らないビアンは、何故彼が慌ててその少女を探しに行ったのか、考えも及ばない。ライゼルとベニューはなんとなく予想が付き、二人で顔を見合わせる。
「病に効くお酒だって。イミックさん、その女の子を見つけられるといいね」
「おう、イミック頑張れ」
何のことやら分からぬビアンであったが、突発的な事件の処理を終え、ようやく本来の目的を成す為に街の北側を目指す。一行は、航路を利用する為この街に立ち寄っていたのだ。
「さて、これ以上屋台に興味がないようなら、寄り道はおしまいだ。この通りの先に船着き場がある。そこに向かうぞ」
「船! 俺、初めて!」
「私も。船って国内でも数が少ないんですよね?」
ベニューの言う通り、王国内において船舶は非常に珍しい。駆動車すら見慣れない田舎者には、風を受けて進む帆掛け船など、よっぽど目新しい物に映るだろう。
「そうだ。そもそも、船を渡らせられる程の瀬がある場所が少ない為に、船を走られせられる航路は限られている。ヴェネーシア内の客船を除けば、船を拝めるのはこのミールくらいだろうな」
これを聞いたライゼルは逸る心を抑えられない。故郷を出て新しいものとの出会いの連続。数日前に初めて駆動車に乗ったばかりでなく、今度は渡し船にも乗れるのだ。外に憧れ続けたライゼルが大人しくしていられる訳がない。
「船ってあれだろ、でっかい水溜りの上を浮くヤツ。本で読んだ事ある。軽いから水に浮くんだけど、重い荷物も載せられるって意味が分からない乗り物!」
「しかも、車輪もないのに前に進むんだって。どうなってるんだろ、楽しみだね」
実物を見た事がなく、書物でしか知り得ないライゼル達にとって、帆船と言う物はとんでもない代物だ。予備知識を総動員して想像しただけで期待が膨らむ。
「でっかい水溜りってお前な。フィオーレにも溜池くらいあっただろ」
「湖と溜池は別物じゃんか。それに、フィオーレの溜池は流れてないもん」
姉弟と役人の心持の温度差を知ってか知らずか、正午の空に汽笛が響く。それが何を知らせるものか気付かず、一行は世間話に興じながら、穏やかな歩みを進め、北側の船着き場を目指す。
そのほぼ同時刻、イミックはライゼル達より先にミールの北側にある船着き場で件の少女を探していた。
「行き違いになってなければいいが」
石を積まれた堤防は、数十艘の船が停泊できる程の広大さで、その先には対岸を遥か向こうに臨む湖が広がっている。その湖面をつい先程出航したばかりの船が走っている。街中央の賑やかさと比べると、やや落ち着いた人通り。貨物船からの物資搬入がない場合は、穏やかな湖面のように静かな時間が流れる。
役人からもらった情報を元に、噂の少女を求めて堤防を彷徨うイミック。
もし、役人が話した逸話が真実であれば、イミックは自らの理想に近付けるかもしれない。誰もが怪我や病気からなる死別の確率を減らす事が出来る。自身のような、悲しい想いをする者を減らせるかもしれないのだ。
(もう二度と、ルセーネの二の舞はご免だ)
およそ十年前に亡くした恋人に想いを馳せながら、辺りに視線を巡らし、例の少女を探す。
ルセーネ。古くから医学を探求し、王城に召し上げられる程の一族の子女。イミックの幼馴染であり、恋人であり、故人。更に、医学衰退の原因ともなった、十年前に起きた不祥事の主犯として世間に知られる人物。
イミックは未だに信じられない。誰よりも人々の笑顔を望んでいたルセーネが、王の意向に背き、自身を含む怪我人を数人出させる事件を起こしたなどと。
イミックがその事件の事を聞かされたのは、ルセーネが王城から実家へ強制送還された後で、その時の彼女は寝台の上から起き上がれない程に衰弱しており、死期が迫っている状況だった。
そんな姿の彼女を見て、無意識にイミックは問うた、何故こんな事になってしまったのか、と。すると、彼女は横たわったまま、力なく微笑みながら、こう答えたのだった。
『誰だってしかめっ面より笑顔の方がいいじゃない』
ふと、彼女の最期の光景がイミックの脳裏を過る。それと同時に、先程出会った少年ライゼルの事を思い出していた。
(ルセーネのような少年だったな)
容姿に面影があった訳ではない。ただ、話している内に、臆面なく相手を見据える彼の目が、亡き恋人ルセーネを彷彿とさせた。
名門の子女でありながら、平民であるイミックや友人のフェリオとも分け隔てなく接してくれる気さくな人物。それに、自分の関心のある事に関しては、様々な垣根を飛び越えて形振り構わず追及するお転婆振り。
先のライゼルが、彼女の事を思い出させ、イミックを懐かしくさせた。ただ、彼女の場合、ライゼル程の世間知らずという事はなく、イミックを惹き付けて止まない程の知識と教養を身に付けていたが。
(ライゼルか、本当に変わった少年だった)
年若いにしても物を知らぬ様子で、身体中に生傷を残した奇妙な少年。付き添っていた少女も、一般の感覚からズレているのだろうか、役人に対しイミックを庇うような態度を見せていた。これまで接してきた誰とも異なり、穢れや延いてはイミックの仕事に対する嫌悪感を表さない二人。知識の無さに起因するものなのか定かではないが、どちらも心根が優しいのだろう。二人揃って不思議な少年少女だったとイミックの記憶の中に印象付いている。
加えて、その偏見を持たぬ在り様は、イミックに親近感を持たせていた。世の人々が先の少年達のような人間ばかりであれば、イミックはルセーネを失くさずに済んだかもしれない。大怪我を負ったルセーネは、穢れを恐れる周囲の者が処置を躊躇ったが為に手遅れとなり、家族や同門に見捨てられる形でこの世を去ったのだ。もしも、その場に自分あるいはフェリオが居合わせていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
と、俄かに郷愁に駆られたが、過ぎた事を悔やんでも詮無き事。不条理なこの世を儚むよりも、今は有益なやるべき事がある。役人の話が本当であれば、穢れを恐れる事なく、怪我を治療する手段が見つかるかもしれないのだ。
そう思うと、知らず探し回るイミックの駆け足は、その速度を上げていた。
しばらく辺りを見渡していると、運が向いているのか、堤防に佇み川面を見つめるそれらしい少女を見つける事が出来た。
真白な無垢の衣装を纏い、どこか俗世から離れた儚い印象を与える佇まいの少女。身分証を身に着けておらず、件の酒瓶を携えている辺り、役人から聞いた外見と一致している。
声を掛ければ届く距離まで歩み寄り、ふと逡巡する。こういう時、何と声を掛けたらいいものか。こちらの要望は、その酒の効能を確かめさせてもらう事だが、少女の側からすれば、突然現れた男から頼み事をされて困惑してしまうに違いない。
もし、彼女が年若い少女でなければ、それほど躊躇わなかっただろうか。役人から聞いた証言と合致するものの、そんな年端も行かない少女が本当にイミックの求める物を所持しているのかと半信半疑になってしまう。
ふわふわした乳白色の癖毛を肩口で整えた髪型に、光を宿していないような虚ろな瞳の横顔。とても自分が歩んできた苦節の道を経験したとは思えない気の抜けた雰囲気。年相応の、酸いも甘いも知らないのだろうと見受けられる。
イミックがまじまじと視線を送るものだから、少女もそれに気付き、イミックの方へ振り返る。
「あなたは何の人なの?」
目的としていた少女の方から声を掛けられ、不意を突かれた形で言葉を探す。
「突然すまない。私はイミックという。その・・・」
そう言い淀むイミックに、少女は彼が言い切る前に言葉を紡ぐ。
「あなたはラホワにごはんをくれる人なの?」
「なんだ、腹が空いているのか?」
目の前の少女ラホワが、急に突飛な事を言い出すものだから、思わず力が抜けるイミック。
イミックの記憶が正しければ、この少女はたらふく食事をした後だと役人が話していたはず。それなのに、ラホワと名乗る少女は、まだ食事を所望しているという。一人称が自身の名という事もあり、その言動が余計に幼く感じる。年の頃は先程のライゼルに同伴していた少女と変わらぬが、口調は随分子供らしい。
「・・・違う人なの?」
予想外の質問に一瞬面食らったが、イミックは当初の目的を忘れていない。向こうが条件を出してきたのなら、交渉に移るのは容易い。
「食事を望んでいるのなら、私がご馳走しよう。その代わりと言っては何だが、お前さんの腰に下げている酒を少し分けてもらえないか?」
イミックがそう持ち掛けると、ラホワは少し逡巡した後、酒瓶を下げていた紐を解き、躊躇いなく酒瓶をイミックに差し出す。
「飲む人なの?」
小首を傾げ、虚ろな瞳をイミックに向けるラホワ。
「あぁ。先の屋台での一件は聞かせてもらった。不躾かもしれないが、その効能を試させてくれ」
そう言いながら、道具箱から針を取り出し、それで自らの腕にひっかき傷を作る。然程深い傷ではないが、少量の血がその傷口から僅かに流れ出ている。
「では、一口失礼する」
逸る想いでその酒瓶を受け取り、口を付けるイミック。であったが、ほとんど酒気を覚えず、飲み口も味わいも酒とはまるで程遠い、どちらかと言えば水のようだと感じる。
加えて、傷の回復も見受けられない。しばらく患部を観察していたが、特別な変化は認められない。半信半疑だったとは言え、何の効果も得られないというのは肩透かしにも程がある。いや、そもそもラホワ自身はそのような奇跡を謳っていないのだから、彼女には何の落ち度もない訳だが。
イミックがやや気落ちして瓶を返すと、ラホワは再度首を傾げる。
「あなたは怪我を治したい人なの?」
「そうだ。妙な噂を聞いて試してみたが、どうやらただの冗談だったようだ」
こんな与太話に振り回されるなど、自分も焼きが回ったとイミックは思う。そんな都合のいい話など、ある訳がなかったのだ。得てして人間は、自分の都合の良いように思い込む嫌いがある。今後はそういう真実味に掛ける話には気を付けねばと、イミックは自分を戒める。こんな傷まで付けて、自分は何をしているのだと自嘲気味に笑う。
「妙な事に付き合わせてすまなかった。約束通り、食事をご馳走しよう」
そう言って懐から銀貨を数枚取り出しラホワに渡そうとするイミックを余所に、ラホワは両手で抱えた酒瓶をイミックの顔前に差し出す。
「いや、もう結構だ」
「ううん、あなたは怪我をしてる人だから、ラホワが治してあげるの」
言うが早いか、ラホワは一口含むと、イミックの腕を取り、傷口へ含んだそれを吹き掛ける。
「おい、何をするんだ」
奇妙な雰囲気の子だとは思っていたが、とうとう奇行に出る辺り、自分はとんだ厄介事に足を突っ込んだと反省せざるを得ないイミック。自分から関わりを持ったとはいえ、初対面の人間から酒を浴びせられるとはとんだ災難だ。
やれやれと作務衣の裾で腕に付いた酒の滴を拭うと、信じられない出来事を目の当たりにする。
「傷が・・・塞がっている!?」
思いがけない出来事に、握っていた銀貨を取りこぼす。絶句するイミックの足元の石畳に、数枚の銀貨が金属音を鳴らし踊っている。
イミックの怪我が、その面影すら残さず消えているのだ。酒を吹き掛けられ、その事に対する不快感はあったが、それ以外に傷口が変化する感覚は何もなかった。傷の消失が発覚した時には、痛みも感じられなくなっていた。
俄かに信じられない話ではあるが、先の役人から伝え聞いた話は真実だったのだ。どのような仕組みで治癒したかは皆目見当も付かないが、この水のような液体は確かに何らかの効能を持っているのだ。当てにしていたとはいえ、まさか本当にかような物が存在するとは。
「あなたは『アムリタ』が効いた人なの?」
ラホワの質問の意味は図りかねたが、イミックは無意識の内に首肯を返していた。
「これはその酒の効能なのか。何故? 中身はさっきと同じ物だろう? どうしてさっきは効果が出なかった?」
そもそも、その液体が如何なる類の成分かを問うべきだったかに思えるが、イミックは完全に動揺してしまい、本質を見誤っていた。何故、前回は何の変化もなく、今回は効果を発揮したのか? まるで化かされているようで、未だに治癒した実感がない。だがしかし、イミックの腕の傷口が、雄弁にその酒の成果を証明している。
「口内の唾液と反応して液体の成分が変質したのか? それとも・・・」
気が動転してしまい、冷静さを欠いているイミック。意識がその酒だけに向き、知らず手を伸ばす。
「これ以上はダメなの」
手が届く寸での所で、後退(あとずさ)りするラホワ。その反応に、イミックは途端に不安感に襲われる。もしかしたら、ラホワの持つそれは、まことしやかにその存在を囁かれる万能の霊薬かもしれないのだ。ここでその手掛かりを得られれば、自ら抱いた悲願が成就できるかもしれない。故に、これまでにない必死さを露わにする。
「頼む。製法が門外不出であるなら、その原料だけでも教えてくれないか。私は、これまでその万能薬を求めて、この地まで流れてきたんだ」
ルセーネを失くして約十年、全てを[[rb:擲 > なげう]]って医学の探求に打ち込んできた。もう二度とあの悲劇を繰り返さぬよう、誰もが望まぬ死に怯えずに済むよう。この世から穢れの恐れを払えぬのであれば、せめてその元を対処できるようにと、様々な試行錯誤を繰り返してきた。そして、思わぬ所でその完成形を見つけられた。
「ラホワはそんな事を知らない人なの。ラホワはこれを飲ませる人を探してる人なの」
「では、調べさせてくれ。ほんの少しだけ・・・」
この機会を逃してはならないと必死に食い下がるイミックだが、ラホワは彼の望みを叶えず首を振る。
「ダメなの。違ったの」
「・・・違った、とは?」
確かにイミックの申し出は、ラホワにとって傍迷惑な話だとは彼も自覚している。だが、一度は飲ませ、二度目は傷口に塗布してくれたというのに、何故三度目はこうも頑なに拒むのだろうか。自らの望みが受け入れられないとあって、イミックは腑に落ちない。
そんなイミックに、ラホワは無慈悲に告げる。
「あなたはラホワが探してた人じゃなかったの」
「・・・そうか、お前さんの目的も訊かず。一方的が過ぎたな」
思えば、これ程の秘薬を持った少女が何の用でこの街に訪れているのか、イミックはちっとも考えが及ばなかった。僅かに自制の心を取り戻し、ラホワの事情を考慮しようとする。が、それでもラホワは首を振り続けるのみ。
「あなたは何も出来ない人で、『アムリタ』はラホワにしか使えないの」
イミックの伸ばす手から庇うようにして、酒瓶を抱きすくめるラホワ。
「お前さんにしか使えない? どういう事だ?」
最早、この段階で正常な思考ではない。衝撃的な出来事を目の当たりにした動揺と、悲願の手掛かりが目の前にあるというのに手に入れられないもどかしさから、イミックは自身を見失ってしまっている。その液体がもたらした奇跡は、完全にイミックの許容を越えてしまっている。
「ラホワがこの『アムリタ』を使う役目の人なの。あなたは必要ない人なの」
「—――私は・・・」
虚ろな瞳で無感情にそう一蹴され、イミックは言葉を失う。
イミックの執拗な懇願が途絶えた瞬間、その隙にラホワは酒瓶を大事そうに抱えながら、駆け足でその場を立ち去った。
イミックはその場で頽れ、人気(ひとけ)の少ない波止場にて、たった独りで虚無感と喪失感に苛まれる事となった。
「なんだとーーーーー! どぉうゆぅ訳だ?」
ライゼル達の旅に順風は吹かなかった。ビアンが船着き場にて次の出航を問い合わせたところ、今日の便は先程の船が最後の便だったらしい。先程の汽笛は、本来正午という時刻を告げるものではなく、本日の最終便を知らせる為のものだったのだ。
「今日はもう出ないのか? 小舟の一艘も出ないのか?」
「ないね。毎日そうなんだもんよ」
半ば泣き崩れそうなビアンが問い詰めても、桟橋の傍の小屋で片付けをしている管理人の中年男性の反応は変わらない。ゆったりとした動作で接岸時に用いる縄を巻き取っている。
「何故、午後からは一隻も出ない?」
「風だよ、風」
桟橋小屋の親父は、何もない宙空を指して答えた。ビアンも釣られて、同様に訝しんだ表情のまま空を仰ぐ。強く吹き付けている訳でもないが、確かに空気の流れがそこにあった。
「風が、どうかしたのか?」
無知なビアンの発言に、親父は溜息を漏らす。ビアンも原理を知ってこそいたが、彼の意にそぐわない状況が彼から推理する思考力を奪っていた。親父は、おそらく何度もいろんな客相手に説明を繰り返したのだろう、船を出せない理由を分かりやすく解説する。
「荷物や人を乗せるんだ、帆船に決まってるだろ。昼間は街に向かって沖つ風が吹く。これじゃあ、下る事はできても上る事はできないね」
「そうか、昼間は陸に向かって風が吹くのか」
「加えてあれだろ?」
親父の視線を辿ると、街の西の方には大きな黒い影が見えた。
「雨雲か?」
「そうさ、それもとびっきりの。あの積乱雲が見えるんじゃ、命が惜しい奴は船を出さない」
「嵐が来るのか…」
その事にようやく思い当たり、親父の言い分に納得したビアン。この後、事態を説明すればがっかりするであろうライゼルを納得させられるかどうか、ビアンは更に頭を抱える事となる。
少し離れた所から様子を窺っていた姉弟は、少し不安な面持ちでビアンを見守っていた。
「なんか、駄目っぽいね」
「ビアンが大声を上げる時は決まって良くない事が起こるだろ。もう慣れっこだよ」
少しふて腐れた表情で、有能とは言いがたいビアンの仕事ぶりを眺めていると、視界の端に見覚えのある人物を見咎める。汚れの付いた作業着の、短めの茶髪の男。
「イミック!」
そう声を掛けられた青年は、先程よりも落ち着いた、というより落ち込んだ様子で、とぼとぼと防波堤を迂回した先の桟橋の方へ歩いている。ライゼルの声が耳に届いていないのか、ゆったりとした歩調で桟橋の上を進んでいく。
「どうしたんだろう?」
「なんだか様子が変かも」
先程、件の少女を探しに行ったはずのイミック。確かにビアンは北側の船着き場にいるかもしれないとは言ったが、流石にイミックが歩いている先に、その求める少女がいるとは思えない。何故なら、その先に待ち受けるのは紺碧の青。地上からはその水底を窺う事も適わない川があるだけだ。意気消沈した様子にも見受けられるが、それが理解できていないとも思えない。イミックの視線はしっかと足元に向けられている。という事は、進先に川しかない事を分かっていながら、彼はそこへ足を運んでいるのだ。
「まさか」
ライゼルがそう思わず声を上げた瞬間、桟橋の先端へ到達したイミック。一旦立ち止まったかと思うと、意を決したかのように桟橋から飛び降り、その身を投げた。
その光景にベニューは短く叫ぶ。
「飛び込んだ!?」
姉弟はビアンの言葉を覚えていた、このミールに船着き場がある理由を。全国でもほぼ唯一の航路を有するのがこのミールであり、逆説的に言えば、このミールを流れる川は船を浮かべられる程の瀬の深さを有しているという事になる。今飛び込んだイミックは衣服を着用したまま水の中に身を投げている。姉弟はイミックの遊泳能力を知らないが、とても無事でいられるとは思えない。下手したら溺れて水底へ沈んでしまうかもしれない。
「ライゼル」
「おう!」
ベニューがそう呼ぶが早いか、イミックが姿を消した水面目掛けて走り出すライゼル。防波堤を軽々と飛び越え、迂回する事なくそのまま桟橋に着地、到達する。かと、思うと着地したその足で踏み込み、一気に駆け出す。そして躊躇う事なく、大きな音と共に水飛沫を上げながら、イミックが姿を消した川の中へその身を投じる。
ベニューもその後を追い、桟橋の端へ駆け寄る。両手両膝をつき、真っ青な水の中を覗き込む。二人の姿は見えず、相当に深い事が窺える。ベニューも、ライゼルが一応泳げるのだという事は知っている。だが、それが成人男性を一人抱えて尚可能かどうかは定かではない。心配しながらも、弟の無事を祈るベニュー。
しばらくすると、水中に人影が見え、それが二人だと分かると、水面が揺れ出し、ライゼルの大きな呼吸が響く。
「ぷっはー」
溺れたイミックを抱きかかえ水面まで上がってきたライゼルは、ベニューの助けを借りながら、イミックを桟橋の上に押し上げる。
「イミックさん、大丈夫ですか?」
桟橋の上に仰向けに寝転びながら、咽て咳き込むイミック。溺れていた時に水を飲んだのだろう、苦しそうに呼吸を整えるが、どうやら命に別状はないようだ。
「何やってんだよイミック。どういうつもりだよ?」
水を吸って重くなった六花染めも気にならないくらいに、力なく横たわるイミックを心配するライゼル。その目は何も映していないのか、イミックの表情は絶望に染まっている。
「知らなければよかった。あんなもの、知りさえしなければ、こんな思い・・・」
光を宿していないような瞳から一転、潤みを帯び、表情は悔しさを滲ませた苦渋に歪む。
「何のことを言ってるの? わからないよ、イミック」
「・・・・・・」
ライゼルの問いに答える様子はなく、他の何事かがイミックの心を捉えて離さない。イミックは虚空を見つめるばかりで、その視界にライゼルの姿を収めようとしない。
それでも、しつこく先程の顛末を尋ねるライゼル。
「どうだった? 女の子が見つからなかったの?」
先の露店でのやり取りでイミックを慕うようになったライゼルは、親身になってそう問い掛ける。が、男は浮かない表情でようやく力なく返事をする。
「…会えた。あぁ、出会ってしまった」
「出会ってしまったとはどういう事ですか?」
どうも今朝の彼の印象と違った大人しさがある。別段午前中のイミックがご機嫌だったとは言わない。だが、今の彼は生気すら失っているように見受けられる。何か大切なものを失くしたかのような落胆ぶり。
「さっきの役人が言っていた少女には会えた。酒の効能も知る事が出来た」
自分で傷付けたのだろうか、手の甲に引っ掻いた跡があったが、痕跡のみで傷口はしっかり閉じている。イミックは自身の体を持って、酒の効能を試したのだ。
「よかったじゃん。これで…」
軽はずみにそう合いの手を打ってしまったライゼルを、イミックは虚ろな目で視界に収める。
「そうだ、よかった。どうでもよかったんだ。俺がこれまでやってきた事は、どうでもいい事だったんだよ」
イミックは悔し涙を流しながら、そう漏らす。もちろん、姉弟にはどういう事なのか理解できない。
姉弟が知る限り、イミックは治療を行い、生計を立てている人物だ。無愛想にも見える淡泊さだが、決して他人を拒絶する事なく、求められれば自身の技術で怪我を処置してくれる親切な人物。何よりも、「しかめ面より笑っていた方がいい」とまで言ってのけた、他人の苦しみを悲しみ、笑顔を喜ぶ心優しい人物なのだ。そんなイミックが、自身のこれまでの行い、要するに他人の怪我を治療してきた事を否定したのだ。彼の仕事に好感を持った姉弟は、先の発言を受け、動揺を隠せない。
「どうしたんだよイミック!?」
生涯初めて目の当たりにした男泣き。その大の大人が何に打ちひしがれているのかを知らなければ、何とも声を掛ける事が出来ない。このような事態に際して、対処できる経験則をライゼルは持ち合わせていない。
「どうしたもこうしたもあるか。あの少女は持ってたんだよ、万能の霊薬を」
「万能の霊薬?」
初めて耳にする言葉に、ただ山彦のように復唱する事しかできないライゼル。それを察してか、イミックは更に続ける。
「世の中には、人の体に有益な作用をもたらす物がある。葉や木の実や根、野菜や果実様々あるが、目的の効能に特化した物を『薬』と言う。数多く存在するんだろうが、なにぶん独りでやってるもんだから、指で数える程度にしか見つけられていない。体を温めたり、傷口が膿むのを抑えたり、眠気を覚ましたり」
王国各地には、世間には広まっていないその土地特有の民間療法が存在する。民間療法程度であれば、法の規制に掛からず、今も臣民の健康の手助けとなっている。
イミックはそのような各地に存在する手法を調べながらこの地まで旅をしてきた。先に列挙した効能はこれまでで得た成果な訳だが、姉弟にはそれが充分誇らしいものに思える。医療の禁止された現代において、これまで誰もそのような手法に思い当たらず、探し求めようと思った事もない偉業。
だが、当の本人は辛酸を舐めたような表情を解かない。彼はその領域では満足していなかった。それ故に、イミックの心は蝕まれるのだ。
「それってすごい事じゃん。もっと見つけられたら、もっと・・・」
「人の話は最後まで聞くものだ。もう必要ないんだよ。いや、そうじゃないな。そもそも、必要なかったんだ」
「どうして?」
「さっきも言っただろ。あったんだよ、全ての効能をただの一舐めで発揮する万能薬が」
「それは…」
どう反応していいのか、ベニューは挨拶に困る。
おそらく、喜ぶべき事なのだろう。思えば、ビアンも先の一件を誇らしげに語っていた。一口で全快するというのは、証人がいるので虚言ではないのだろう。専門的に研究していたイミック自身がその効能を検証したと話している。その奇跡を実際に見た訳でもなく、その絵空事が腑に落ちないからと言って、効果を疑うのはお門違いだ。真偽を問うなど、それこそ、イミックに向ける言葉ではない。
では、何と言えばいいのか? 先程のライゼルのように手放しに喜んでは、イミックの心を傷付けてしまうのは火を見るよりも明らか。何故なら彼は、その霊薬の存在に打ちひしがれているのだから。
おそらく、彼は長い間その研究に時間と労力を費やし、人々の怪我を癒してきたのだろう。だが、その苦労が報われつつある時に、一瞬にして彼の功績を超えるものが現れてしまった。長い時間を掛けても未だ辿り着いてない未知の領域への通行手形。それを不意に見せ付けられてしまったのだ。しかも、その奇跡を見せ付けられただけで、手に入れる事が出来なかったのだろう。事実、イミックは何も得ていない。
これまで競争とは縁遠い世界に身を置いていたベニューであったが、イミックが心に受けた傷をなんとなく理解する事が出来る。例えば、六花染めで名を知られるベニューだが、もし自身のそれより優れた出来栄えの染物を眼前に晒されたとしたら、胸中穏やかでいられないのは確かである。その完成度が自身では到達できないものと理解できるからこそ、余計に心を乱されてしまうのである。
(そうなれば、私も同じことを言っちゃうのかな…)
きゅうっと胸が締め付けられる。イミックの心を思えば思うほど、声が詰まり何も言えなくなってしまう。
掛ける言葉を探し、見失っては探す事を幾度か繰り返した後、ただ言い淀んだだけだとベニューが自覚するまでに要した時間はどれくらいあったろうか。
ベニューが浪費したその時間を、ライゼルは別の事に思いを巡らす時間として使う。幸か不幸か、ライゼルにはベニューのような実感がない。思えば、自身の行動の是非について考えた事は、これまであまり多くなかった。それは、ライゼルが後先考える性格でなかったし、為した行動が結果的に他人から咎められるような事ではあまりなかったから。唯一の例外は、母の仕事道具を玩具代わりにし、鉄拳制裁によって戒められた事くらいだろうか。
故に、自身の行いを否定するイミックの物の考え方が、ライゼルには理解できなかった。そして、ただ一つ分かった事もあった。
「イミック、悔しいんだ?」
そう不意に水を向けられたイミックは虚を突かれ、渇いた笑いを漏らすしかなかった。
「ははは、なんだそれは…そうだな、悔しいのかもしれない。どういう経緯であれを手に入れたのかは知らないが、あんな年端もいかない子供に先を越されたのが」
漏らしこそしなかったが、付け加えるなら「必要ない人」と告げられた事が。あの一言で、自身のこれまでを否定された気がした。だから、自分は心を折られたのかもしれない、とイミックは思い至る。
無知なライゼルを相手にしていると、イミックは落ち込んでいるのが下らない事に思えた。事実は事実として受け止めなければならないと、年相応に振る舞おうと思えるくらいには、気持ちを持ち直す。
だが、ただそれだけの事だった。それ以上には至らない。持ち直して、持ち上げるまでには届かない。
「そうだな、つまらん事に拘るのは止そう。他に自分にやれる事を見つけるか」
「どういう事? もうあの仕事は辞めるの?」
目の周りを赤く泣き腫らしたイミックは、自嘲気味に応えて見せる。
「それはそうだろう? 私がやらなくても霊薬は完成しているんだ。怪我をこさえたら、あの少女を頼るといい」
「どうしてそんな言い方するんだよ。それに、その子はここにいないだろ」
「じゃあ、一刻も早く見つけ出す事だ。穢れが恐ろしいなら尚更だ。この街の人間にもそう伝えてやるといい」
「イミック!」
両腕でイミックの肩を掴み、ライゼルが一喝しようと息を吸い込む。
「怪我が治ったこ「なんだありゃーーー!」
桟橋の上にいるライゼル達の耳に、波止場の方からビアンのいつもの絶叫が届いた。態度に似合わず小心者なビアンは、不測の事態に直面すると例に漏れず大声を上げる。それが聞こえたという事は、何かがあったという事だ。
そう察知するが早いか、ライゼルと顔を突き合わせていたイミックが空に昇るそれを見つけ、ライゼルは振り返らずして、その危機的状況を知る事となる。積乱雲よりもっと手前に、黒々としたものが空へ昇っていくのが見える。イミックは目線を逸らさず、こう呟いた。
「…黒煙…火事だ」
悪い事は重なるもので、一行が船着き場で足止めを喰らった途端に、そこからすぐの通りの屋台から火の手が上がった。燃料として用意されていた菜種油に引火し、隣近所の屋台を飲み込み、炎は大きさを増していった。
本来であれば、このような事態はそうそう起こる事ではなかった。この国では火の取り扱いや管理は徹底されており、安全対策も十分に講じられていた。誰かが意図的に引火させない限り、今回のような偶発的な事故は発生しないはずだった。それは誰もが承知の事。ならば。
「誰かがわざと火を放ったか?」
ビアンは火災現場に向かいながら、そう独り言ちた。ビアンは先程の無銭飲食を取り締まった際に、治安維持部隊アードゥルを目にしている。火の知識に長けた専門家の彼らがいながら、小火程度で収まらない大事に発展するなど考えられない。世間には穢れと大差ないほどの炎に対する恐れがある。生活の中に畏敬の念があり、火への対処は素早く行われるのが常である。それなのに初動が遅れたという状況を鑑みて、放火が原因であると判断した。
しかし、今は犯人探しよりも消火活動を一刻も早く始めなければならない。十全な管理が為されていると言ったものの、それは平常時の話。大火災が起きてしまっては、辺りの家屋に燃え広がり、他の油にも引火し大火災を引き起こしかねない。石畳の舗装道路以外は、木材の家屋が多い。ミールの街が火の海になるのに、時間はそう掛からない。事をしでかした犯人も、ずっとその場に留まっているほど間抜けではなかろう。ならば、犯人捜しは後回しにするべきだ。
そうなっては、多くの命が失われる。ウォメィナ教に、命は地に還る物、という教えがあるが、それは生を全うする事が前提の話だ。道半ばで無意味に散らす事を推奨している訳ではない。
「一人も死なせねぇぞ!」
一刻も早く現場に駆けつけようと、黒煙が昇る方角へ疾走するビアン。やる事はたくさんある。救助、避難誘導、等々。気合を入れて現場へ向かう。
「あぁ、みんなを助けるんだ!」
そのビアンの背後から、全速力で迫ってくるライゼルも意気込む。
「なんでお前がいるんだよ?!」
「俺も手伝うよ」
さも、ビアンと共に現場に駆けつけるのが当然かのような顔をして並走するライゼル。そんなライゼルの助力は、ビアンにとって予想外だった。ビアンにとってライゼルは、人手として勘定されていない。厳密に言えば、今回に限ってライゼルは足手まといでしかないと考えている。
「ライゼル! お前が来ても役に立たないだろ!」
一方、船着き場を含むミールの北部。火の手からは離れているものの、街を飲み込まんとする熱風はここまで届いている。決して危機を脱している訳ではない。
ベニューとイミックは、取り残された他の町人と一緒に、比較的に安全な防波堤の向こう側へ避難し、遠くから火に包まれる街を見守っていた。立ち昇る黒煙が先程よりも量を増しており、火の範囲が急速に広がっているのが分かる。
「こんな時になんだがな」
突然イミックがそう切り出して、ベニューはイミックに視線を向ける。イミックは街の中心に向かっていったライゼルに想いを馳せながら、こう続ける。
「誰かに襲われて怪我をしたと言っていたが、ライゼルを見ていると自分から揉め事に首を突っ込んだんじゃないかと思えてくる」
「そうですね、そうかもしれません。ライゼルはいつもああなんです」
火事だと分かるや否や、一目散に現場に向かったライゼル。付け加えるなら、ついさっき入水を試みた時も危険を顧みず水の中へ飛び込んだ。何かを考えての行動ではない事は、先にも示した通り。災害が起きれば、きっと困っている人がいる。であれば、助けに向かうのは当然の事と、ライゼルはそう考えている。思考の仕組みは至って単純で、それ以外に秤に載せるものがない。
「損な性格だ。いつかきっと痛い目を見る。いや、いつかとは言わない。たった今、後悔しているに違いない」
「本人は困ってる人を放っておけないんだ、って。本当に、目が離せません」
それはそうなのだろう、とイミックは口にこそしないが、そう感じる。今日だけという短い期間で知らしめられた、ライゼルの裏表のない性格。臆面なく思った通りの事を口にするあの少年なら、言動が一致するのも想像に難くない。亡きルセーネを彷彿とさせる真っ直ぐで、向こう見ずな姿勢。
だが、だからこそ放っておけない。先は冷たく切り捨てたが、何も望んで怪我を負う事を望んでいる訳ではもちろんない。ライゼルの迂闊な行いは、ルセーネとの思い出を呼び起こし、イミックの心を締め付ける。
「人助けもいいが、大怪我したらどうするんだ」
イミックは呆れた調子でそう言い捨てるが、それを聞いたベニューは目を丸くしたかと思うと、堪え切れなかった様子で吹き出してしまう。さも気の利いた冗談を聞かされたかのように、ベニューは笑いを堪えられない。
「ふふっ」
「なんだ、私は何か可笑しなことを言ったか?」
イミックにはこの場で失笑される覚えがない。至極真っ当な指摘をしたつもりだ。それなのに、何故?
「今日の無茶は、イミックさんの所為みたいなものですよ?」
「どういう意味だ?」
失笑を堪えているものの、意外と察しの悪いイミックに対して、少し悪戯っぽく笑って見せるベニュー。
「だって、イミックさんに出会っちゃったから。多少の無茶は、イミックさんが治療してくれるって、そう思って後先考えずに行ったんだと思います」
そう告げられ、この二人は姉弟か何かなのだと察しがついた。ライゼル同様、衒いもなくそういう事が言えてしまうこの少女は、きっとライゼルの血縁者か何かだろうと推測できた。
「妙な事を言うな。聞いてなかったのか、私ではなく霊薬を持った少女を頼れと言っただろう?」
口にする度に、うんざりするくらいに情けない事を言っていると、イミックは自分でも自覚している。だが、そうでもしなければ自分を保てない。子供相手に大人げない態度を取ってしまうのは、予想外の出来事に衝撃を覚えた事よりも、この少女を相手取っている事が大きな要因と考えられる。投げ出したいのに、それはいけない事だと咎められているような錯覚を覚える。それ程までに少女の言葉は真っ直ぐ刺さる。
そんな引き千切られそうな想いに苦しむイミックに、ベニューは上目遣いで彼の様子を窺う。
「お言葉ですが、イミックさん?」
「どうした?」
「聞いてなかったのか、と仰いましたが。イミックさんこそ、ライゼルの最後に言った言葉、聞こえていなかったんですか?」
突然この少女は何を言い出すのかと眉を顰めるイミック。おそらく、役人の絶叫で掻き消された言葉の事を指しているのだろう、とイミックは察した。確かにあの時ライゼルは何かを言っていたようだ。だが、それは今更になって、特別勿体ぶって言わなければならないような事なのだろうか?
しかし、無意識の内に心が続きを知りたがっている。故に、問わずにはいられなかった。
「ライゼルは何と?」
この直後、イミックは先に抱いた感想を猛烈に訂正したくなる。真っ直ぐなばかりではない。しっかり搦手も使えるのだと。少女の方が一枚上手だったと思い知らされる。
ベニューは先程のライゼルの一喝を一言一句違えずになぞる。そして、先の台詞をなぞるベニューの唇を注視していると、ライゼルの声がベニューの声に重なってイミックの耳に響いた。
「『怪我が治った事よりも、俺もみんなも、イミックに優しくされた事が嬉しかったんだよ!』って、ライゼルはこう言ったんです」
「…そ、それは」
頭をガツンと鈍器で打ち付けられたような気分になる。この眩暈さえしそうな衝撃は、恥かしさから来るものか。思考が掻き乱される。平素の冷静な自分を保っていられなくなる。
本当はあの時、イミックの耳に届いていたようにも思う。だが、心のどこかで拒否してしまって、聞こえなかった振りをしていた。聞こえないふりをすれば、二度も人前で涙を流す羽目になる事はなかったから。
しかし、彼の姉であるベニューによって、再びイミックの元に届き、イミックの閉じかけていた心をこじ開け始める。
「いい加減にするんだ。優しくされたからってどうだって言うんだ。どんな手当てを受けたって、痛い事に変わりはないんだぞ?」
嗚咽交じりに反駁するイミック。ベニューはそれを見て尚、申し訳程度に語気を抑えるだけで、言葉を紡ぐ事は止めない。イミックに知っていて欲しい事があるのだ。
「これは余計な事かもしれませんが、ライゼルは【牙】使いなんです」
「なんだって?」
これを聞いたイミックは驚愕を禁じえない。ベニューが告げた真実と現在の状況が、イミックの常識からすれば余りにもそぐわないのだ。一瞬の驚嘆の後、呆れて物が言えなくなってしまう。開いた口が塞がらない、とはまさにこの事だ。
「冗談だろう? ライゼルは【牙】使いなのに、炎の元へ行ったのか?」
何かの与太話だと思わなければ、イミックは自分を納得させる事が出来なかった。牙使いが炎に近寄る事。それは一般的な常識を持ち合わせている者には、信じられない事だった。が、ベニューはそれを虚言だと言い改める事はなく、首肯を以って答えとした。
「本当です。底冷えする冬の日だって暖を取ろうとしません」
「そんな奴が、あの大火災に向かって突っ走って行ったというのか?」
黙したまま首肯を返すベニューに、自身の言葉を脳内で反芻しながら咀嚼していく。どうしても腑に落ちない。
この国に於いての共通認識、『牙使いは本能的に火を恐れる』という事。牙の所有者は、個人差こそあるものの、遍く全ての者が生まれつき火を恐れる。例えば、オライザでリュカが朝食を用意したが、一切加熱を必要としないものばかりだったところを見ても、その認識は一般的だと言える。他人を凌駕する力を持った代償だと信じられており、牙使いの中には見る事も適わぬ者すら存在する。それが傍に近寄ろうものなら、どんな恐怖に苛まれるか想像すら難しい。
「どうして、どうしてだ?! 怖いんだろう? 痛いんだろう? 自分を傷つけてまで人助けをする事に何の意味がある?」
牙使いの身でありながら、心底恐怖する対象に望んで立ち向かっていくライゼルを想うと、心が散り散りに引き裂かれそうになる。何があの少年をそこまでさせるのか、理解が及ばない。理解できない者は恐怖の対象へと変貌する。先の見物客達がそうであったように。イミックは、ライゼルの在り方が恐い。
「意味があるかどうか、私には分かりませんし、きっとライゼルも分からないと思うんです」
「だったら!」
イミックの激しい語気に気圧される事なく、ベニューはなぜか照れくさそうに答えて見せる。
「『誰だって、しかめ面より笑っていた方がいい』、ライゼル、すごい勇気付けられたと思います」
イミックは、一瞬目の前の少女の言葉を疑い、その直後に自分の心根を恥じた。自分は自ら語った理想さえも、ここぞという時に失念していたのだから。
願いにも似たこの想いは、イミック自身の言葉ではなく、亡きルセーネからの受け売りだった。ただ、自身から生まれた想いでないからと言って、これを真に願わなかった訳ではない。この想いに心を揺さぶられ、感銘を受けたからこそ、イミックは医学の道を究めんとした。きっかけは、この想いにあったのだ。
「…情けない。情けないなぁ、私は」
そう言って顔を上げた男の目に、もう既に涙はなかった。あったのは、理想を掲げ、志を持ったあの日と同じ力強い眼差し。苦しむ人達に笑顔をもたらすと誓った、遠い日の純粋な気持ち。
「こうしている場合じゃない、私達も行こう。逃げ遂せた人の中にも怪我を負った人達がいるだろう。助手を頼みたい、一緒に来てくれ」
「はい」
遅ればせながら、イミックとベニューも、ライゼル達の後を追い、中央広場の方へ駆けて行く。
道すがら、二人は変わり果てたミールの街並みを目撃する事となる。至る所に火の手が及んでおり、沿道に置かれた腰掛けも道路脇に停められた荷車も、あらゆる物が火に飲まれている。その燃焼は昼間のオライザを更に明るく、いやそれに留まらず真紅に染め上げていく。もし、空からこの街を俯瞰視できたなら、中央通りが赤い太線に見えているだろう。
石畳の道も熱を反射し、その場にいるだけで熱気に晒される。呼吸する度に、喉の渇きを覚える。長時間この場に滞在する事は危険行為と思える程に。
ベニューとイミックが熱気を迂回しながらミールの中央広場に到着した頃、ライゼルとビアンは逃げ遅れた人々を一旦郊外へ避難させた後だった。
「ベニュー、それにイミックも。なんで来たの?」
船着き場で待っているとばかり思っていたベニュー達が、中央広場へ駆けつけた事に驚いてみせるライゼル。この事態をライゼル自身が全く予想していなかった辺り、イミックに言い返されても文句は言えない。
「ライゼル! 牙使いだと言うのに無茶な真似をするんじゃない」
この叱責は、もちろんビアンも先にライゼルに向けている。何故、初対面の露天商がライゼルに対し親身になっているのかビアンには分からないが、イミックの言う事にはビアンも同意だ。
が、ベニュー達が合流した時には、ビアンもライゼルの助力を素直に受け取っていた。この状況がそうさせた。余りの火災の規模に、負傷したものが大勢いて人手が全然足りていないのだ。
「いや、最初は叱るつもりだったが、この状況では追い返す事も出来ん」
駐在していた治安維持部隊アードゥルの隊員のほとんどが、避難民の誘導に人員を割かれ、消火活動が全くの手付かずの状態だ。大通りから端を発したと見られる火の手は、既に西部の倉庫街へ燃え広がっており、ミールのおよそ三分の一が既に火に飲まれている。幸い、現在火の手が回っているのは商業区画である大通りと倉庫街のみ。現状、居住区は難を逃れているが、そちらに火が及ぶのも時間の問題だろう。
「俺達がやらなきゃ、ミールが助からない!」
「どうやら、そのようだな」
状況を把握した四人は、協力して消火活動に当たる。
食の街という事もあり、水は大量に用意されていた。これを消火用水に充て、桶や樽に水を汲み、冷却消火を推し進めていく。住民から借りた鍋や桶いっぱいに水を汲み、燃え盛る炎に掛けていく。湯船程の木桶が貯水槽として備え付けられており、そこの水を汲んでは運び、火に振り掛ける。それを繰り返す事、幾度。
しかし、これでは埒が明かないのは、消火活動を始めてすぐ判明する。火に掛けた水はその瞬間に水蒸気と帰し、天に昇って行くだけである。火の勢いは一向に弱まる気配を見せない。
打つ手なしの一行の元へ、治安維持部隊アードゥルの隊員がやってきた。ビアンとアードゥルの隊員は、お互いに先の無銭飲食事件の時に素性を明かしている。アードゥル隊員も、有事の際の経験があるであろうビアンの協力を当てにして訪れたのだ。このように有事の際には、役人とアードゥルとが協力関係を結ぶのはままある事だ。
「冷却消火ではとても追いつかない。これから破壊消火に移ろうと思うのだが、人手を貸してくれないか?」
そう申し出を受けて、ビアンは傍らにいるライゼルをちらりと見やる。破壊の力と言えば、ライゼルの持つ【牙】は打って付けの戦力だ。だが、これ以上劫火に近付くとなれば、牙使いでなくても危険が増す。流石のビアンも判断しかねる。ライゼルを行かせるべきか、否か。
「ビアン、俺行くよ」
「いいのか?」
「おう、俺にしか出来ない事があるなら、俺はそれをやりたいんだ」
ライゼルの意志を確認したビアンは、ライゼルの参加を承認する。
「よし、じゃあ付いて来い。破壊する家屋は俺とアードゥルで指示する。お前はそれを全力でぶっ壊せ」
「がってんだい!」
ライゼルは勇んで、居住区の方へ駆けていく。今から作業に移れば、大半の住居を火災から守れるかもしれない。住居は生活の基盤、ここは何としても死守したい。
「そうだな、私も私にやれる事をやらなきゃな。ベニューついてきてくれ」
自己を犠牲にしてまで誰かを救おうとするライゼルの姿に感化されたイミックは、ベニューを連れて人々が火から逃れた避難地区へ急ぐ。小脇に抱えた道具箱を揺らしながら、懸命に治療を必要としている人達がいる郊外へと懸命に駆けていくイミック。
「ここだな」
避難地区は、ライゼル達がいた場所からだいぶ離れた、ミール西部の郊外にある。街の外れにあるという事もあり、流石に火の手は及んでいないが、街の方から煤けた臭いが届く。その所為で炎の恐怖が払拭できないのか、逃げ延びた者達の顔に安堵の色はない。
それもそのはず。彼らは皆一様に避難する際に怪我を負っている。怪我は穢れの元、それがミールの人々から気力を奪ってしまっていた。一度、穢れては今世での生涯を全うする事が適わない、のみならず、来世にも悪影響を及ぼしかねない。
「痛いよぉ。膝、膝がぁ…痛い」
「くっそぉ、水膨れができてやがる・・・俺はもう、だめだ・・・」
擦り傷や火傷、様々な外傷が皆の心を塞ぎ込ませる。正しい医学知識を持たないベスティア国民は、命の有無に拘らない。それ以上に、穢れを生んでしまったかどうかが最大の懸念なのだ。どんな些細な外傷であっても、それは最大の恐怖をもたらす原因である事に他ならず、その恐れがある限り、ミールの人々の顔色は優れないままだ。
「これは、酷い・・・」
これまで多くの患者を診てきたイミックだが、これ程の大惨事に立ち会った事はない。明らかに人手も物資も足りておらず、イミックの許容量を超えている。だが、
「それでも、やれる事をやるしかない」
イミックは、作業着の袖を捲りながら、傷病者達に声を掛けて回る。
「重症の者から診ていく。近くに重度の怪我を負っている者がいれば、私を呼んでくれ」
携帯している木箱の中から道具を取り出し、次々に手当てしていく。ベニューも助手を務め、補助する。イミックがこれまで研究した薬膳を基礎にして作り上げた特製軟膏を火傷に塗布したり、傷口を消毒したり膿を取り除いたり、治療に手を尽くしていく。完全に治癒する事は適わないが、それでも重症化する事は防げたはずだ。
だが、周囲の反応は予想したそれと違っていた。傷口が塞がっても彼らの心は晴れない。
「やめときな」
手当てを続けるイミックに、一人の男が声を掛ける。つい先程、イミックが手当てを施した中年男性で、肘に軟膏を塗布した布を当てながら、イミックに制止を促す。
「どういう事だ?」
作業の手を止めはしないが、その制止の言葉に後ろ髪を引かれるイミック。
「もうミールは駄目だ」
俯く男の口から零れるのは諦めの言葉。それ程までにこの大火が与えた影響は大きく、皆一様に打ちひしがれている。これまで培ってきた物が灰に帰していく徒労感と、それを前にして何もできない自分達の無力感。イミックは彼らの姿を前にして、先程までの自身を見せられている気になる。
だからこそ、再び立ち上がれたイミックは彼らを鼓舞する。
「駄目なものか。今、アードゥル隊員達が消火活動をしている。手遅れって事はないだろう」
「そうじゃねぇ。例え、俺達が助かったって、これだけ穢れを生んじまったんだ。あんたには感謝してるが、もうこの街に構う必要はねえよ。そうでなきゃ、あんたまで穢れが感染(うつ)ってしまう」
穢れへの恐れとは、人々の意識の中からそう簡単に取り除けるものではない。これまでおよそ十年に渡ってイミックが戦い続けてきた、人々に植え付けられた『穢れ』というものへの恐怖。今尚続けられている消火活動の事を知らぬこの人達の認識では、ミールは既に穢れてしまった土地。灰に帰してしまった住まいを目にするなど、それこそ気が病んでしまいそうだと思っている。その想いに囚われてしまっているからこそ、早くここから離れたくて仕方がないのだ。
だが、それは現在の街の様子を知らぬ住民達の認識、イミックやベニューはそうではない。
「一通り見て回ったが、穢れを孕む程の傷病者はいなかった。あなた方の怪我は充分に治癒できる。それに、まだ終わってなどいない」
「そうは言うが・・・」
「少なくとも! あの少年は、ライゼルは諦めてなどいない!」
イミックが唐突に語気を荒げるものだから、周囲の者達数十人も面食らってしまう。急にライゼルの名を出されても、ミールの人々は彼を知らないのだ。イミックを再起させた少年の存在を。
「ライゼル? 誰だそいつは?」
「今も尚、火災を食い止めようと必死に消火に当たっている【牙】使いの少年だ。この街の事を知らぬあの子が、まだこの街を守ろうとしているんだ。ここで働くあなた方がとっくに諦めてしまっては、ライゼルの努力が報われない!」
街を飲み込まんとする炎よりも尚熱いイミックの弁に、ミールの人々は困惑を隠せない。
「何故、そうまでして余所者のあんたらが手を尽くしてくれるんだ?」
ここの傷病者達も牙使いが炎を恐れる事は承知だし、穢れに関しての認識は本人が語った通り。それ故に、目の前のイミックや、話題に突如登場したライゼルとかいう少年の行動原理が理解できない。
その問いに、今のイミックは衒いもなく、心の底からあの言葉を返す事が出来る。
「そんなの簡単だ。誰だって・・・」
(誰だって・・・なぁ、そうだろう、ルセーネ)
脳裏に浮かぶのは、その言葉をイミックに聞かせた女性の顔。もう、目的と手段が入れ替わってしまっていたイミックではない。飽くまで医療は手段でしかなく、心から望むのは皆の笑顔。その願いを、もう見失ったりはしない。
そして、信念とも呼べる想いを、意気消沈している街の人々に聞かせようと思った勇み足を踏んだその時、イミックは足の裏に何かを踏みつけている事に気が付いた。
「これは・・・」
「イミックさん?」
道具箱から転げ出ていたそれを手に取り、体を震わせるイミックに、その様子を不思議に思ったベニューが声を掛ける。が、耳に届いていないのか、手に取った黄色い石に目を奪われながら、イミックは訥々と言葉を紡ぐ。
「まだだ。まだ諦めるには、早すぎる。この街は、助かるかもしれない!」
時を同じくして、簡単に打ち合わせを済ませたライゼル達は、消火活動を開始する。
これから始めるのは破壊消火。その名の通り、破壊を伴う消火活動である。燃焼している建造物と隣接する家屋を破壊する事で、それ以上に火の手が伸びるのを阻止できるのだ。火は基本的に上へ上へと燃え広がっていく。付近に燃え移る物がなければ、それ以上は被害が及ばない。
が、事は一刻を争う。もたもたしている間に火は次々に家屋を飲み込んでいく。壊している間にその家屋に飛び火すれば、それは破壊消火の意味をなさない。それに、天井に火が到達すれば初期消火は失敗したも同然。短時間で家屋を粉砕する必要があり、その為にはライゼルの【牙】が必要なのだ。
「よし、あの通り沿いから三軒目の家をぶっ壊せっ!」
「わかった!」
指定された家屋目掛けて走るライゼルの右手に、ムスヒアニマが収束していく。周囲の地面から霊気(ムスヒアニマ)が溢れ出し、ライゼルの求めに応じて反応を見せる。熱気の中にあっても、その青白い光はその輝きを色褪せない。ライゼルが求める破壊の力。人を傷つける為でなく人を守る為の破壊の力を、星脈に流れたムスヒアニマは形成していく。そして、ライゼルの全身が霊気(ムスヒアニマ)で満たされた瞬間、気の奔流、意志の発現、若さ爆発、気が高まった瞬間、少年の手には【牙】が握りしめられていた。ライゼルが頼みとする、広げた手の平ほどの幅を持つ幅広剣。
「ごめんよ、あとでリュカに建て直してもらって、ねッ!」
住居を破壊する事に若干の罪悪感はあるが、それも人命救助には代えられない。オライザ組の存在を知るライゼルは、彼らの建築技術に期待し、力を振り絞り指定された建物を薙ぎ払っていく。壊したなら、また作ればいい。人命と違って、建物はいくらでも代わりが利く。
ビアンもアードゥルと協力して、ライゼルが砕いた箇所から柱を押し崩したり、壁板を外したりと加勢する。オライザでも力仕事を手伝ってこなかった自分を恨みながら、必死に建物を破壊していく。元々、台風などの自然災害にも耐えられるように建てられた物だ。壊すとなると、非常に手間が掛かる。疲労感もそうだが、貧弱なビアンは自分の両腕の筋肉が悲鳴を上げているのを感じている。
それと同時に、その時間の猶予のない作業に追われながらも、改めて【牙】の強力さを実感する。
「…すげえな。これが【牙】の力か」
ビアンは、もう既に何度かライゼルの【牙】を目の当たりにしている。ライゼルがその力を以って、敵対勢力を退ける様子を見届けてきた。のみならず、ビアン自身もその力によって救われた事もあった。
そして今、その力は、これまで前例にない役割を果たしている。生産活動以外にも、こういった救助活動での【牙】の必要性も今後検討しなければならないのかもしれない。オライザは他の地方に先んじて【牙】を有事の際の解決手段に用いているが、まだまだ職業(やとわれ)牙使い以外の【牙】の使用に、法整備が追い付いていない。今回の場合、「火を恐れない牙使い」という極めて例外的な凡例にはなるが。
その史上初の例になるかもしれないライゼルが生み出す【牙】。こういう有用性を見出せるのは、【牙】の特性にある。【牙】は安定した霊気(ムスヒアニマ)の供給さえ行われれば、万物よりも硬質な武器となる。木材や紙片は尚の事、石材や陶器を斬っても刃毀れ一つしない。それどころか、使い手の卓越した技量が加われば、両断する事さえ適わぬ事ではない。
ライゼルはその域にこそ達していないが、他の一般人が費やす半分ほどの時間と労力で、破壊活動をこなしていく。袈裟懸け斬りで一太刀振るえば窓枠が割れ、露構えから一突き繰り出せば階段が崩れ落ちる。みるみる内に、指定された家屋はその形を保てなくなる。【牙】を振るわれる衝撃ごとに木片が上部から散っているかと思うと、家屋の外へ避難したライゼルの放った最後の一撃で、ついには全壊に至る。
「どうだ!」
大きな音を立てて瓦解していく家屋を振り向き様に見つめながら、握力と同時に気が抜けた。自らの為した成果を確認し、大きく肩で呼吸を整える。
区画整備された街並みの中にぽっかり空いた、元々は居住する家のあったはずの大きな空間。指定された家屋を全て倒壊させ、居住区への延焼は免れた。これまでライゼルが破壊したのは住居四棟。大黒柱も梁も壊しに壊し尽した。作業による疲労に加え、ここまで火の手は及んでいないものの熱風に晒され余計に体力を奪われた。汗を流し、体の水分を失っているライゼルは、酷い喉の渇きを覚えていた。
「これで…終わり?」
一仕事を終え疲弊したライゼルは、座り込んで黒々と立ち昇る煙を見上げる。こんなに大きな炎をライゼルは見た事がない。突発的に名乗り出たライゼルだったが、改めて火を目の前にしていると、つい体に力が入るのが自分でも分かる。恐怖を完全に克服している訳ではないのだ。
ふぅと大きなため息を吐いた途端、ムスヒアニマの供給の途絶えた【牙】は、音もなく霧散して地に還っていく。武器の形成を維持するだけで、かなりの体力を消耗するのだ。役目を終えた【牙】を、ライゼルは一旦引っ込めた。
とにもかくにも、破壊消火によって、火災規模の拡大は防ぐ事は出来た。ライゼルがいなければ、これ程の成果を上げる事は出来なかっただろう。
だが、ビアンの顔はそれでも晴れない。渋面なのはアードゥルも同じだ。彼らの芳しくない反応は、まだ危機は回避されていない事を暗示している。
「いや、俺達がやったのは飽くまで応急処置に過ぎない。完全に鎮火できなければ、どれだけ手を尽くしても意味がない」
燃焼の三要素に、可燃性物質、酸素、温度の三つが上げられる。消火活動とは、これらのどれかを取り除く事で達成される。そして、それらを達成する為の手段として、可燃物を断ち切る除去消火法、酸素を断ち切る窒息消火法、それと温度を下げる冷却消火法がある。
先程まで展開していたのが、破壊手段を用いての除去消火と、放水による冷却消火である。が、試みた結果は被害拡大を食い止めただけ。当然ながら鎮火には至らない。
アードゥルと連携を図り事に当たっていたビアンは、次の判断を迫られている。一段落付いた現状、共通確認しておきたい事がある。これはアードゥルと擦り合わせるというより、ライゼルに聞かせる意味合いの方が大きい。
「お前に話すべきか迷ったが。この火事は放火によるものだ」
「放火?」
突然の発表に困惑を隠せないライゼル。アードゥル隊員も首肯でその意見に賛同する。一人だけ分かってない少年の動揺を察して、アードゥルの隊員がビアンの続きを引き継ぐ。
「状況を見ると、そう断定できる。保管庫の油がごっそり盗まれていたそうだ。犯人はそれを使って火を放ったのだ」
「じゃあ、犯人を見つけ出せばいいってこと?」
「いや、見つけた所で一度付いた火の勢いは止められない。少年に頼みたいのはそれではない。もちろん、現在他の隊員が放火犯を探しているが、発見の連絡はない。おそらく、燃料を使い果たした時点で逃亡したのだろうな」
避難民の中に怪しい者はいなかったと話すアードゥル隊員。避難民のほとんどがミールの人間で、彼らに自分達の生活の場を脅かす動機はない。観光で訪れていた者達も、もれなく命辛々に逃げ遂せた者ばかりで、自ら放火したのであれば、穢れの元である怪我を負う危険性を自らに課す理由はない。となれば、避難民に紛れているとは考えられない。
「私は先の無銭飲食の少女が怪しいと睨んでいるが、あれ以降街中で見かけたという者はいないようだ。現状、取り押さえたとしても・・・」
それ以上は続けなかったが、隊員が劫火から視線を逸らせないでいる辺り、「あの火に飲まれたものは取り返しがつかない」と語っているようなものだ。諦めてこそいないが、既に失われた物があるという事実は、ここの住民の心に重く圧し掛かっている。
身分証を身に付けていない、酒瓶を携えた少女が犯人なのかどうか定かではないが、現状で犯人探しが最優先事項ではない事は納得できる。他に出来る事を優先すべきなのは、ライゼルも承知済みだ。
「そっか。じゃあ、次は何をしたらいい?」
ライゼルがそう問うと、アードゥル隊員は頭の中にこの街の地図を描きながら思案する。
「東の居住区は一先ず安全だろう。次は倉庫街の延焼を食い止めたい。あそこにはこの街の財産である食糧庫がある」
人命の次は、住民の財産を守るのが治安維持部隊アードゥルの務め。今の段階で完全に鎮火する事が出来れば、まだ再建の目処が立つ。東の居住区と北の波止場さえ無事であれば、倉庫街に多少の被害が出てもやり直しがきく。貿易の要衝でもあるミールには、人材も資材も充実している。街の南にはオライザの職人達もおり、現段階の被害状況で抑える事が出来れば、元の状態に戻すのは不可能な事ではない。
居住区という生命線を死守できたライゼル達に、微かだが希望が見えてくる。出火原因が住宅地になかったのは不幸中の幸いか。
「よし、次は倉庫街だね」
だが、アードゥル隊員が狙った通りには事は運ばなかった。ここに来て尚、未だ姿を見せぬ犯人は、飽くまでライゼル達を翻弄する。ライゼルがそう意気込んだ矢先、事態は急変したのだ。
「おいおいおい、冗談だろ・・・!?」
街の東側を向いているビアンの顔が見る見るうちに青褪めていく。皆がその視線を追ってそちらを見やると、ライゼルが破壊した家屋の向こう側、つまり安全を確保したはずの、住宅街の火の手が及ぶはずのない場所から炎が昇っているのだ。
「どうして!?」
ビアン達が指示した家屋を破壊すれば、居住区には燃え移らないとライゼルは聞かされていたし、実際そのはずであった。しかし、その予想を裏切りまた新たな火災が起きたという事は・・・
「犯人は、まだこの街に潜んでいやがったんだよ。アードゥルや俺達の意識を遠ざけといて、注意の逸れていた居住区の最奥に火を放ちやがったんだ」
犯人の狙いは未だ定かではないが、幾重にも張り巡らされた計略を以ってこの街を火に掛けようとしている。突発的な事態にも対応できるよう訓練を積んでいるアードゥルさえも翻弄し、優れた手練手管で南部地方最大のミールの街を陥れようとしている。
「くそ、こんな時に沖つ風か」
「風が、炎を煽っている・・・」
彼らを襲う悲劇はそれだけではなかった。苦い表情を浮かべるビアンと隊員を嘲笑うかのように、更に状況はライゼル達を追い詰める。間の悪い事に、沖から陸の方へ吹く風が出てきたのだ。ビアンは波止場で聞かされた管理小屋のおやじの話を思い出す。午後からは沖から陸地へ風が吹く為に、船が出せないのだと。
そのビアン達を足止めした風が、今度は事態を更に悪化させた。吹き付ける風に煽られ、火の勢いは留まる所を知らない。これまで安全とされていた南側にも火の手が及ぶだろう。もしかすると、犯人はこの事も計算尽くだったのかもしれない。
こうなってしまっては、話が変わってくる。居住区を最低限守れていたからこそ、倉庫街へ赴こうと考えていたが、居住区を挟むようにして東西両端が燃えているとなると、人員の限られている今、対処は困難を極まる。二手に分かれた所で、どうなるものでもないのだ。炎は既に大通りや広場のみに留まらず、倉庫街の方へも燃え広がり始めている。ただ手を拱いているだけで時間を浪費してしまえば、いずれこの街全体に炎が及ぶことになる。犯人の策に、完全に手詰まりの状況に追い込まれたライゼル達。
「ねぇ、ビアンどうしたらいい?」
「・・・・・・」
ライゼルが問い掛けるが、ビアンは思いつめた面持ちで言葉を返さない。それが一層ライゼルの不安感を煽る。
「アードゥルのおじさん?」
代わりにアードゥル隊員へ対策を求めるが、ビアンの様子とほとんど変わらない。いや、管轄の隊員という事もあり、より一層に深刻な面持ちをしている。
「ねぇ、俺はどうしたらいいんだよ?」
焦れるライゼルに、隊員は少し気落ちした様子で、だが、毅然とした態度で宣言する。
「我々は現時点を以ってミールを放棄する」
「えっ?」
完全な鎮火を諦め、住民を引き連れてこの地を離れるという事。要するに、犯人に敗北を突き付けられてしまったのだ。目的も素性も明かさぬ姿なき悪意に、対抗する手段を失くしてしまったのだ。
そうは言われても、隊員がやや苦い表情できっぱりと言い切った内容を、ライゼルは許容する事が出来ない。許容できないから、少年は食い下がる。
「どうして!? まだやれることはあるよ」
ライゼルにとって、ここは特別思い出深い場所ではない。初めて立ち寄っただけであるし、街の特徴である美食も琴線に触れなかった。故郷から離れた地域にある、賑やかな雰囲気の、火の気だらけの少し苦手な印象の街。
が、それでも、この街がこのまま灰になる事は受け入れられない。それを認めれば、ライゼルは自身の夢を否定する事になる。ここで諦めれば、たくさんの笑顔が失われる。つまり、みんなを守る為に強くなるという誓いを果たせなかった事になる。それは、何があっても許せない。
「払う犠牲が多すぎる。これまでは一ヵ所だったからなんとか対処できたが、まだ犯人が潜んでいるかも分からないのだ。今以上に複数個所で火が上がれば、逃げ道の確保すら難しい」
現在、犯人は、中央の大通りと居住区東端から火を放った。もし、南の入り口に火を放たれてしまっては、居住区の中にいるライゼル達は、避難路を失いこの街と共に心中する事になる。
「でも、これで最後かもしれないじゃん。犯人だってもういなくなってたら・・・」
「不確定な状態で命を危険に晒す真似をする必要はない!」
アードゥル隊員は正しい見極めをしている。この引き際を誤れば、この場にいる三人は、無為に命を散らす事になる。
「それでも、やれるギリギリまで何かやりたい!」
「私達も同じ気持ちだ。だが、何かしたところで、もう街の半分近くが火に飲まれた事に変わりはない」
「それが何だよ。何度だってやり直せる」
決して軽い気持ちで言ったのではない。フィオーレという前例を、ライゼルは知っている。十年前、フィオーレはとある脅威に晒された。『フロルの悲劇』として知られる、姉弟から母を奪った事件。が、しかし、村民が一致団結した事でその窮地を脱したのだ。ライゼルは自分の集落を愛する住人の底力をその目にした。だからこそ、やり直せるのだと断言できる。
そう訴えかけられた隊員は、ライゼルの身分証を見て、頑なに留まろうとするライゼルの言動に得心がいく。フィオーレ生まれの平民を示す首輪、年の頃から十年前の事件を経験しているのだと推察できる。が、それでもライゼルの我儘を聞き入れる訳ではない。
「そうか、その身分証(ナンバリングリング)はフィオーレの者か。フィオーレの事は我々も聞き及んでいる。だがな、こんな事態となっては、もう誰もこの地に帰って来ようなどと思わんのだ。十年前のフィオーレとは状況が違い、怪我をした者が大勢いる。故に、この土地は『穢』れ、もうこの土地は死んだのだ」
こういった考えを持つのは、何もこの隊員だけではない。他の隊員もこの土地の者も、そしてビアンもそうだった。おそらく、このまま何も対処できなければ、隊員が言った通りになるだろう。穢れを孕んだ土地から人々が離れ、手付かずとなり荒廃した街は、時と共に人々の記憶から薄れ、荒野となっていくのだろう。
ビアンも、ライゼルがそれを良しとしない事は分かっている。刻一刻と決断の時が迫っているが、敢えて時間を掛けて、言葉を以ってのライゼルとの意思疎通を図る。
「ライゼル、とりあえず聞け」
「とりあえず聞く」
感情の高ぶりとは裏腹に、ライゼルは意外と素直にビアンの言い付けを聞く。ソトネ林道の件から、徐々にビアンに対する信頼が生まれつつある。ビアンが聞けと言うなら、聞くだけの耳は傾ける。それに従うかは、聞いてから考える。
「アードゥルが言う事も一理ある。むしろ、俺は大賛成だ。人的被害を最小限に抑える事が何よりも優先すべき事だ。それは分かるだろう?」
「・・・ビアン」
自身の判断の是非は自分にあると強がって見せたものの、ビアンにそう諭されては声高に言い返す事は出来ない。ライゼルが成し遂げたい事の為には、ライゼル一人の力ではどうしようもない。この場のビアンやみんなの力を借りねばならない。それは皆を巻き込み、危険に晒すという事を意味している。ただ、その危険性は十分理解できるが、今なお燃え続ける炎に背を向ける事も、ライゼルには素直に承諾できない事だ。
「だが、俺にもひとつだけ不満がある」
「不満って何?」
真剣に語るビアンを前に、当惑するライゼル。既に撤退に賛成の意を示しているビアンが、何を言わんとするか分からない。ライゼルと違う思惑があって、この場に留まろうかと悩んでいる様子。どうやら、ライゼルを叱り、説得しようとしている訳でもないという事は見て取れるが。
「心残りと言ってもいい」
「?」
もうここまで来ると全く見当が付かない。そんなライゼルなど意に介さず、真顔のままビアンは言い切る。
「お前もベニューも、まだここの焼き玉蜀黍を食べていないだろう?」
「ビアン、何言ってんの?」
「カラボキ産の玉蜀黍は、もちろんカラボキに行けば豊富に獲れるだろう。だけどな、それを香ばしく焼き上げた焼き玉蜀黍は、ここミールでしか食す事が出来ない。何故なら、ここにしか腕自慢の料理人は集まらないからな。つまり、今ミールを放棄するという事は、ベスティア王国の食文化を遺棄するという事に他ならない。俺にはそれがどうしても許しがたい!」
「だから、何言ってん・・・」
それはこの期に及んで拘る事なのだろうか、とライゼルが問おうとした瞬間、
「実は私も、もう少し見て回りたいです。フィオーレ以外で食べる料理は全然知らないから。それに、ライゼルも食べず嫌いしてるだけだろうし」
突如として現れたベニューがそう言ったかと思うと、
「彼の意見には、私も同意だ。ここの食材には薬膳に適した物も多い。この街がなくなるというのは非常に困る」
気付けばそこには、救助活動を終えたイミックとベニューがいた。ずっと火の気の近くにいたライゼル達程ではないが、顔が煤に汚れて真っ黒だ。ここへ戻ってくるまでに煙を多量に浴びたのだろう。
「ベニュー、イミックも!」
先程顔を合わせた時よりも、作務衣が新しい汚れを付着させているように見える。道具も不十分だったのだろう、イミックは衣服で血や煤を拭ったようだ。それはつまり、
「イミック、みんなの様子はどうだった?」
「安心しろ、しかめ面は止めさせたさ」
その照れの混じった答えは、ライゼルを嬉しくさせた。イミックはイミックの道を再び突き進んでいる。ならば、ライゼルもライゼルの道を進むのみ。
「イミック、消火を手伝って欲しいんだ」
「もちろん、そのつもりで来た。力になれるかもしれない物も持参してきたぞ」
そう言って取り出したのは、先程イミックの露店の代金置き場にあった黄色い石。イミックはそれに期待し、危険を承知でここへ駆けつけたのだった。
「それがどうしたの?」
問われるイミックは、得意げにその石を翳して答えてみせる。
「質問をする割には人の話を聞いていないな。この石は雨を降らせるって言わなかったか?」
きょとんとするライゼル。ベニューはここまでの道中で事前に聞かされており、何を意図するか分かっている様子。ビアンはと言うと、信じられない、と口をパクパク動かすばかりで、何も音声を発さない。
「どうゆうこと? ビアンも変な顔してさ」
ライゼルが周囲に目をやり答えを求めても、イミックは黄色い石をライゼルに握らせるばかりで、ライゼルの疑問に応えない。ビアンもその石の正体を知っている様子だが、驚きの余り上手く言葉を紡げない。代わりに、ベニューがライゼルの疑問に答える。
「それは雨を降らせる事が出来る石なんだって。向こうに大きな雨雲が見えるでしょ?」
そう言われて指さされた方向を見やると、確かにベニューの言う通り、大きく発達した積乱雲がある。気付けば、空が今にも泣き出しそうな様子だ。あの積乱雲から生じる集中豪雨がこの街に訪れれば、この危機的状況を回避できるかもしれない。犯人がこれ以上どんな策を弄そうとも、あの雨雲によってもたらされる雨が、大火災を鎮火してくれるかもしれない。
しかし、如何に無知なライゼルと言えど、それが楽観的に過ぎる考えだとは分かっている。もちろんそうなれば、願ったり叶ったりの状況ではあるが、それは現実的でないとライゼルは思う。今の空の様子では、もうしばらく待つ必要があり、雨が降り出す頃には、街は灰になっている。
「ベニュー、状況分かってるのか? そういう冗談言ってる場合じゃ「まじかあああああああ!」
いつもとは反対にベニューを窘めようとするライゼルを遮り、本日三度目となるビアンの絶叫がミールの街にこだまする。
「どうしたの、ビアン?」
「マジだぞ、じゃなかった、すごいぞ!」
先程まで真顔で街を救う意志を示していた姿がまるで想像できない程に、ビアンは動揺し慌てふためいている。しかし、どこか歓喜の色を帯びている声色。逸って飛び出そうとする想いが、上手く言葉にならない様子のビアン。
「何が?」
ライゼルにはビアンの興奮の理由が分からない。
「簡潔に教えてやる! あの石は雨を誘発する事が出来るんだ!」
ミュース石とも呼ばれるヨウ化銀の結晶は、水が結晶化するのを手伝う作用がある。それを雲の中に投じると、その石を核として水滴が生じ、局地的な大雨となるのだ。それがこの黄色い石の正体である。
「これで雨を降らせられるの?」
「そうだ、王国西部の砂漠地帯では実際に昔から使われている物だ。これがあれば、その雨乞いの儀式を再現できるはずだ」
大変希少な物であるが故、その効能や存在そのものを知る者が少数であり、ビアンも実物を見るのは初めてだった。西部地方の雨乞いのまじないで用いられる以外に、市井の者がそれを知る機会は少ない。
「これならイケるかもしれない! よし、早速打ち上げよう」
と、嗾けられるも、まだ実感は湧かない。ただ、これが事態を打開する物なのだ、とビアンがそう言うのだから違いないのだろう。ライゼルも半信半疑だが、その石に賭けてみる気になってくる。
「でも、投げたってあの雲までは届かないよ?」
例え牙使いのライゼルであっても、腕力が他者より遥かに優れる訳ではない。誰が投げ上げたとしても、遥か上空の積乱雲までは届きそうにない。
「安心しろ、方法は昔勉強した。あとは【牙】と触媒があれば」
そう独り言ちながら、居合わせたアードゥル隊員やイミックに何やら相談を持ち掛けるビアン。どうやら触媒なる物を持ち合わせていないかを問い合わせているようだ。姉弟を余所に段取りを組み始める大人達の会話に、ライゼルは付いていけない。
「むー、何を話してんのか分かんないや。ベニューは分かる?」
「触媒って物を使えば【牙】が浮かんでいくみたい」
「触媒?」
「私も分からない。とりあえず、【牙】があればいいのかな?」
不謹慎な考えかもしれないが、こういう時に【翼】の能力を有していれば、とも夢想する。そうすれば、手っ取り早く済みそうだとライゼルは黙したまま空を見上げる。
そんなライゼルを余所に、イミックが偶然持ち合わせていた『輝星石』なる物の粉塵を、ビアンは運良く手に入れた。鉱石の町グロッタで産出し、各地で一般的に照明として利用されている物だが、粉末状の物は特殊な業種の者しか携帯していない。それをイミックが私物として持ち合わせていたのは、実に幸運な事であった。これで、西部地方の雨乞いの儀式が再現できる。あとは【牙】を用意するのみ。
だが、撤退するつもりのアードゥル隊員にとっては、要救助者が二人増えてしまった形となっている。身の安全が一切保証されていない今、一刻も早くこの場を去らねばならない。
「何を試みようとしているかは知らんが、そろそろ撤退しないと焼け死ぬぞ」
ミュース石の効能に懐疑的なアードゥル隊員は、皆に撤退を促す。街の左右から火が迫っているのだ、時間を無為に費やしている場合ではない。
そう急かされビアンも、宥めるような口調で説得に掛かる。
「まぁまぁそう焦らないでくれ。もうここまで来れば、八割がた成功したようなものだ」
石の効果を知るビアンは、俄かに余裕を取り戻している。ビアンの脳内では、事態解決までの道筋が見えているようだ。
「まずはこのヨウ化銀に、譲ってもらったこの輝星石の粉塵をまぶす」
そう言ったきり、何も続けないビアンに隊員は訝しんだ表情を向ける。
「それからどうする?」
「あとは、【牙】で打ち上げればいい」
「先の状況とどう変わったんだ?」
理屈を知らぬアードゥル隊員は、だんだん焦れてくる。それは、隊員以上に物を知らないライゼルも同様だった。
「ねぇ、そのしょくばい?とかいう輝星石の粉は必要だったの?」
「もちろんだ。これがなきゃ、空まで届かんだろう。というのも」
「おい、勿体付けるな。とどのつまり、何が起こる?」
これからやろうとする事に確証が持てていない隊員は、どうも居心地が悪い。もし、この作戦が失敗すれば五人揃って心中だ。
「詳しい理屈は省くが、要するに、このヨウ化銀が一時的だが疑似的な【牙】になる。性質もほとんど似通ってはいないが、共通する性質を利用して、それを【牙】で打ち上げれば…」
輝星石は、霊気(ムスヒアニマ)を吸収し青白く発光する性質を持っており、一般的には照明として利用されているのだが、これは実はほぼ【牙】の発現時の現象と同じなのだ。つまり、輝星石は接触し吸収した霊気を、固有のムスヒアニマに変質させる事ができるのだ。
そして、ここからが今回の件に必要な事柄なのだが、【牙】同士は、互いに干渉し合った瞬間、ほんの一瞬ではあるが、衝撃を緩和する為なのか弾性を得るのだ。所有者の意志により、固く研ぎ澄まされたそれではあるが、世間にあまり知られていない不思議な性質もあるのだ。
これらの情報はアードゥル隊員も心得ており、そこまで聞けば、アードゥル隊員にも打開策が理解できた。
「そうか、性質の異なる霊気(ムスヒアニマ)同士を激突させて弾力を与える訳か!」
【牙】による衝撃を加える事で、霊気が干渉を始め、物理的に反発し合う。その弾性があれば、飛躍的に上昇していく事だろう。
「疑似的な【牙】! 初めて聞いた! それ見たい!」
状況にそぐわない歓喜の声がライゼルから上がる。如何な状況にあっても、未知は常にライゼルの好奇心を刺激する。
「十年以上前の知識だが、確かに学園都市でそういう論文を目にした事がある」
六年前に首席卒業したビアン同様、実は学園都市スキエンティアの出身であるイミックからも確証が得られた。ここまで来たら、疑うよりも実践してみようという気になってくる。案ずるより産むが易しという事だ。
だが、機運が盛り上がってきたその矢先、隊員から素朴な疑問が告げられる。
「やらんとする事は理解できたが、誰が【牙】を発現する? その青年か少女かが:牙使い(タランテム)なのか?」
「・・・あ」
すがるような目でビアンはイミックを見やるが、イミックは静かに首を振る。残念ながら、イミックは牙使いではない。視線を向けられたイミックもベニューを見やるが、ベニューもその期待を否定する。
得意げだったビアンの顔は凍り付き、文字通り頭を抱える。動揺の余り、思わず粉塵の入った袋を足元に落としてしまう程に。
「万策尽きたか・・・」
せっかくのお膳立てにも関わらず、ここに来て手詰まりとなったらしい。状況から察するに、ビアン達はライゼル以外の牙使いを探しているらしい。雨を降らせる黄色い石と、反応を促進させる触媒が揃っているというのに、あと一つ【牙】が揃わないというのだ。
が、ライゼルはまだそこまで理解が及んでいない。今ようやく、何らかの理由で【牙】が浮遊するのだ、という所まで呑み込めてきたライゼルが、存在を忘れられているのかと不安になりながらも、おずおずとぽつりと漏らす。
「俺の【牙】で…打ち上げればいいんじゃないかな?」
ライゼルは【牙】を発現できるのはもちろんの事、剣技『蒲公英(ロゼット)』を使える。遠心力を利用した打撃であれば、より高く石を天に届ける事が出来るかもしれない。考え足らずのライゼルにしては、冴えた妙案に思える。むしろ、現状一番の適任だ。
「・・・ねっ、どう?」
「この間の『蒲公英』をやるんだね。名案だよ、ライゼル」
この作戦は、一見この上ない上等な手段に思える。立候補したライゼルとそれを聞いたベニューは、実際妙案だと思った。そして、その成功の期待感により俄かに高揚している。
「だろ?」
「よし、やってみよう。ライゼル頑張って」
「おう、任せろ」
張り切るライゼルと応援するベニュー。それに反して、ビアンは少し呆れたように溜息をついて見せる。両者の間でどうしてこうも温度差があるのか、姉弟には分からない。
「ビアンさん、どうされたんですか?」
ベニューが問うと、「そういえば、ベニューはその場にいなかったな」とかぶりを振るビアン。
「ライゼル、お前に任せたいのは山々だが、お前は既に一度【牙】を発現させているだろう?」
「おう」
そこまで言っても、お互いの認識は共有されない。ビアンが言いたいのは、【牙】の発動制限の事。一般的に、【牙】を生成するのに全身を漲る霊気(ムスヒアニマ)が必要となる。それは、生成に必要な霊気を充填させるのに、全身の星脈を使わなければならないという事でもある。一度【牙】を顕現させるだけで、星脈をだいぶ酷使する事になるのだ。星脈を酷使する事は、それ自体が穢れに繋がるだけでなく、星脈を傷付け、身体の機能を著しく低下させる。正常な星脈とは、言わば健康指標なのである。
今のライゼルのように、短時間の内に何度も【牙】を発現させる事は、星脈を傷付ける事に他ならない。というより、大抵の牙使いは、そもそも二度目の【牙】を発現させようとした時点で、過労で倒れてしまう。【牙】はそう気安く連続で出せるものではないのだ。
「おう、じゃない。お前もただでさえ【牙】使用に加え、長時間熱風に晒されている。これ以上は…」
「おう?」
ビアンが説教を聞かすが、どうもライゼルは合点がいっていない様子。危機感に乏しいのは以前から知っていたが、こうも自覚が薄いとビアンは頭が痛くなる。
「お言葉ですが、それはライゼルも分かっています。それでもライゼルは」
それどころか、ベニューもビアンに対し反駁する始末。この姉弟には、一般的な【牙】の、正確に言うなら一般的な星脈の認識がないのだ。
大人に盾突こうとするベニューの姿に、イミックは憤慨する。無知故の過ちであるのだと察するが、それで済ませられる事態ではない。逆転の手を持ち出した者として、無茶は止めさせなければいけない。
「これ以上、ライゼルが傷付く必要はない。この街にだって他に一人くらい牙使いはいるだろう。全てをライゼルに背負わせるのは、お前さんも望む事ではないだろう?」
余りの剣幕に気圧されてしまうベニュー。ベニューとしても、ライゼルを心配してくれるのはありがたいが、大人達から理解を得られないのはもどかしい。姉弟と大人達との間で、認識の違いがあるのだ。
「イミック、それは違うよ」
「ライゼル?」
イミックの言葉に答えたのは、ベニューではなくライゼルだった。ビアンの足元に落ちている袋を取り上げ、更に続ける。
「俺は、別に痛い想いをしたくてやってるんじゃないんだ。俺にやれる事なら、誰かの為にやれる事なら、俺はそれをやりたいんだよ」
イミックの説得は、ライゼルに届かない。いや、届いてはいるが、それでは止められない。自身の行動を咎められる経験は、イミックも決して少なくない。怪我の手当てをすれば、感謝されると同時に畏怖される。穢れに近付く行為は忌避される世界で、イミックの行いは世間的には異端だ。だがそれでも、いや、だからこそイミックは、孤独に戦ってきた辛さを知る者として、ライゼルの無茶を止めたいと思うのだ。
イミックは、石と粉塵を手にしたライゼルの腕を強く握り、熱心に語りかける。食い込む程に込められたその力強さから如何ほどの真剣さか伝わってくる。
「ライゼル、この街を救いたいと思うお前の気持ちはよく分かる。だからと言って、その無謀を許す訳にはいかない。ここでお前が倒れる事に、何の意味がある?」
イミックは、知らぬ間にライゼルに情が移ってしまっている。自らの願いを体現するこの少年が、とても他人とは思えないのだ。誰かの笑顔を守りたいとするライゼルが、故人であるルセーネと印象が重なって仕方ない。イミックは、そんなライゼルがこれ以上傷付く姿を見たくない。心からそう思うからこそ、この少年の手を離してはいけないと思い、余計に力が入る。放せば、二人目のルセーネになり兼ねない。
背中越しに掛けられる言葉に、ライゼルも思う事があったのか、少し思案するように宙空を仰ぐ。
「意味かぁ…うん、じゃあ、理由はそれだ。あったよ、俺がこれをやる意味」
「・・・?」
何のことを言っているのかイミックが分からずにいると、ライゼルは肩越しに後ろのイミックへこう告げる。
「無駄じゃなかったってみんなに証明したい。火を消そうとした事もそうだけど、イミックが今まで一人で頑張ってきた事が無駄じゃなかったんだって証明したいんだ」
ベニューは、ライゼルらしい、と感じてつい口元を綻ばせてしまう。その言葉を向けられたイミックも、つい先程似たような事を口にしていた。「諦めてしまっては、ライゼルの努力が報われない」と。似た者同士の思いやり合い。ならばその軍配は、臆せず本人を前にして堂々と告げられるライゼルに上がるのだろう。
「イミックがこれまで頑張って来たから、いろんな人が笑顔になれた訳だし、こうやってその巡り合わせで雨を降らせる石が今ここにある」
そう言って、ライゼルは先程握らされたヨウ化銀をイミックの目の前に出す。イミックも自然とそれに視線が移り、その石をもらった時の事が思い出される。グロッタの町の炭鉱夫からの感謝の印。情けは人の為ならず、という事なのだろうか。それが何の因果かここにあるという事は、それはイミックの功績という事に他ならない。
「もし、イミックが何もして来なかったら、本当に駄目だったかもしれない。でも、俺の賭けが上手くいけば、イミックがやってきた事には意味があったんだって証明できると思うんだけど、どうかな?」
自分の行いを顧みる事の少ないライゼルは、先程の波止場でのイミックの言を撤回させたいのだ。自らの理想を他者に見せ付けられ、打ちひしがれ漏らした弱音。ライゼルはそれを是が非でも認めたくない。ライゼルは、イミックの仕事を尊敬している。そのような人物が自身を否定しているのを見ていると、居ても立ってもいられなくなる。もはや、イミックはそう嘆いた事を半ば忘れかけていたが、ライゼルには心残りとして確かにあり、解消されていない。
「・・・ライゼル」
イミックが答えあぐねていると、ライゼルは気の逸れたイミックの手を振り解き、左手に黄色いヨウ化銀の結晶を握り締め、右手に再びムスヒアニマを集中させる。
「おいっ、人の話を聞いてなかったのか!?」
ビアンの制止を振り切り、大地からムスヒアニマを吸収しながら、雨雲の中心真下に向かって走り出す。
「おい、待て」
ライゼルを引き留めようとするイミックを、ベニューが腕を掴んで引き留める。実力行使にでも出なければ、話を聞いてもらえないと思ったからだ。
「待ってください、イミックさんは誤解してるんです」
「誤解?」
ベニューにそう諌められ、訝し気に首を捻るイミック。若干、部外者扱いを受けている気がしないでもないビアンも、違う意味で首を捻る。その言い方では、ビアンは分かっており、誤解しているのはイミックだけ、とも解釈できるのだが。現にベニューはビアンを引き留めてはいない。
「ライゼルには、二人分の星脈があるんです。二倍なんです」
そういえばどこかで聞いたな、とイミックは肩の力が抜ける。半信半疑ではあるが、何故だか納得できた。ライゼルの言葉を違えぬ態度が、自然とイミックにその事を信じ込ませさせた。
「二倍…そうか!」
ここにきて、ビアンにもようやく合点がいった。ベニューも意地悪でビアンに説明しなかったのではない。ビアンは既にライゼルの『二倍』を目の当たりにしている。
「初めて会った日の、テペキオンの時がそうなのか?」
「はい」
ビアンが言った通り、テペキオンとの初戦闘の際、短時間の内に二回【牙】を発動させている。一回目は投擲(とうてき)武器に利用し、二回目は不意打ちによる反撃に利用した。付け加えるなら、ベナードとの試合の際も、一度生成した【牙】に更に循環させたムスヒアニマを注入した。これも言い換えれば、二回に渡り星脈を酷使した事になる。それらの事を、ビアンは他の印象があまりにも強かった為に忘れてしまっていたのだ。
「まさか、二倍の星脈とはな。そうか、ライゼルは自棄を起こしたんじゃなかったんだな」
緊張が解け、安堵するイミック。考えなしと思わせる言動ばかりだった為に必要以上の要らぬ心配までしてしまった。
(ライゼルは、ルセーネの二の舞にならずに済んだのか・・・)
霊気の奔流を纏いながら全速力で駆けていくライゼルの背中。三人は手を抜くという事を知らぬ少年を、少し離れた所で見守っている。
「なぁ、ベニューといったか?」
「はい」
何かを語らんとするイミックの声に、ライゼルの背中を見つめながらベニューは耳を傾ける。
「ライゼルは止まらないんだろうな」
信じた道をひたすらに突き進むライゼルを、道半ばで挫けそうになったイミックは、心の底から尊敬している。天秤に乗っているはずの我が身も、まるで目に入ってないかのように邁進するライゼルは、本当に眩しく見えた。
「どうでしょう。まだ壁にぶつかってないだけで、ライゼルもいつかは立ち止まる日が来るかもしれません」
「その時は…その時、ベニューはどうする?」
唐突な問い掛けに少し面食らったが、その青年が何を言わんとしているのか分かるが故に、心から思う事を口にする。
「そうですね、ずっと傍にいてあげられたら、と思います」
自分にも、ライゼルにとってのベニューのような存在がいてくれたら、とイミックは思い掛けて、やっぱり止めた。それは言っても詮無い事。むしろ、今日知り合った少年が、自分と同じ道を歩まない事を願うばかりである。
「是非、そうしてあげてくれ。ライゼルを、見守ってあげてくれ」
そう願ってイミックが目を細めた先に、雨雲の中心部真下に到達したライゼルの姿が。そして、ライゼルの手には、本日二度目となる求めに応じて現界した広刃剣があった。ライゼルが頼みとする【牙】が。
二回目の発動ではあるが、それはライゼルにとって日常茶飯事である。熱気に奪われた体力を考慮すると、厳しい賭けになりそうだが、退いていられる状況でもなければ、そんな選択肢はライゼルの頭にはない。
星脈も全開に流れている。ライゼルは、やれると確信するに至る。
「よし、これなら…!」
深く腰を落とし、剣を構える。ライゼルの得意技『蒲公英(ロゼット)』の体勢を取り、頭上に漂う雨雲を見つめる。普段なら不安を覚える暗雲だが、今はこれに望みを託すしかないのだ。作戦の成否はライゼルの双肩に掛かっている。
ロゼットの型の始動、地面すれすれの位置から、自身を軸に剣を振り回し回転させる。一周、二周、三周と幾度となく回り続ける。回転運動は、地上に漂う霊気を帯びて渦を生む。霊気の渦は、周りの熱気さえも飲み込み、その求心力を増大させ、天を目指し伸びていく。気流は、一回転で屋根の高さを越え、更に一回転で人の手には及ばぬ高さへと昇る。熱気を帯びて押し上げられた気流は、青白い光の束になって天高く昇り、とうとう黒雲の漂う上空に光の筋が届く。この道筋ができたという事は、後は輝星石の粉塵を振り掛けたミュース石を打ち上げるのみ。
「雨が降れば、ミールはまだ」
渦を発生させたのがライゼルと言う事は、ライゼルは渦の中心におり、酸素の薄い場所に居続けているという事になる。上昇気流にミュース石を乗せ、空へ到達させる最後の瞬間まで、この回転状態を維持しなければならない。それを遂行できなければ、火を消すだけの雨は望めない。
苦しい事には違いない。呼吸が出来ないのに運動は続けなくてはならない。心肺に掛かる負担も、肉体への負担も尋常ではない。心肺が、筋肉が悲鳴を上げる。剣を振るい続けた腕の筋肉は腫れ上がり、呼吸もほとんどまともに息継ぎが出来ていない。
だが、これは乗り越えられる苦しみだ。もうライゼルには、この無茶が向かう到達点が見えている。
「いっけぇぇぇええええ!」
遠心力に晒され続けた広刃剣は、ついに充分な回転の助力を得て、左手から放り投げられたミュース石を打ち上げる。ライゼル固有のムスヒアニマの干渉を受けたヨウ化銀であったが、瞬間的な衝撃だった為にその場で崩壊する事はなく、遥か高くにそびえる暗雲を目指し邁進していっている。大渦に飲み込まれるようにして、触媒により疑似星脈を付与されたミュース石は、渦の流れと霊気による反発力とを受け、物凄い速さで暗雲を貫いていく。
「いけ」
ベニューは、渦の中心にいるライゼルの無事を祈る。
「行け」
ビアンは、この雲がもたらす雨が火災を鎮火させる事を願った。
「頼む」
イミックは―――イミックは、まるで彼自身の心情を表すかのように泣き出した空を見て、何を思っただろうか。空から一滴が頬に落ち、それが目尻から零れた涙と混じったかと思うと、途端にその涙は大粒の激しい雨に紛れてしまった。しわくちゃに歪んだ顔に当たる雨を感じながら、イミックは無茶をやり遂げたライゼルを祝福した。
「よかったな、本当に・・・よかった」
その日、激しい夕立がミールの街に降る。程なくして雨は止み、例にない大火災は、名も無き者達の活躍によって鎮火したのであった。
治安維持部隊アードゥルの迅速な避難誘導、ビアンやライゼルの消火活動、そしてイミック達の活躍もあり、火事による人的被害は最小限に抑える事が出来た。数名が擦り傷や軽度の火傷を負った程度で、奇跡的に死人や重傷者は出なかった。後にミール大火として知られる今回の事件だが、下手人も不明であれば、犠牲者が出なかった要因も不明のままだった。一説には、イミック以外にも、治療をして回る身元不明の何者かの姿を見たという証言があるが、それは公的記録には残っていない。その協力者も含めて、この件に関与したと思われる者達は、今尚捜索されている。ビアン達の協力以外は、この街で何があったのか分からない事だらけなのだ。
と言ったものの、公的記録にこそ残っていないが皆が知る所となった事がある。それは、イミックの腕が確かだったという事。穢れに対して嫌悪感を持ち、イミックにあまり好意的でなかった人達も、犠牲を顧みず救助に尽力する彼の姿を見て、僅かながら態度が軟化したという。雨が火事を鎮火させると、イミックの元に、感謝を伝えようとする多くの者が訪れた。
そして、あらかたの事が片付いた今、イミックは険しい表情をライゼルに向けている。
「いてててて」
結局ライゼルは、ベニューが仕立ててくれた六花染めを黒焦げにし、本人も所々に怪我を負った状態で戻ってきた。それから、燻ぶる街の中から、ビアン達が力尽きたライゼルを抱え避難所まで運び出し、今に至る。
「二度とあんな無謀な真似はするんじゃない。自分を大切にする事を覚えるんだ」
同じ日に同じ患者を手当てするのは初めてだ、と悪態を吐きながら、ライゼルの腕の傷口に植物をすり潰して作った汁を浸していく。これもイミックが地方で知り得た治療法だ。
「痛い! すごい沁みるよ!」
「効いている証拠だ。これに懲りたら、自分から余計な事に首を突っ込まないようにするんだ、いいな」
「おう、分かってるって」
痛い痛いと喚きながらも、自分の体に出来た怪我を見て、何故か嬉しそうに口元を緩ませるライゼル。それを見咎めたイミックは怪訝そうな目をライゼルに向ける。
「頭でも打ったのか? 私は、内科は専門外なのだが」
そう皮肉を言われてもライゼルは機嫌を損ねない。ミール放棄を回避できた事が余程嬉しい事だったのだろうか、それとも別の理由があるのか。何故そんなにご機嫌なのかイミックには分からない。
「まさか、この怪我は勲章だ、なんて言わないだろうな?」
一通りの処置が終わり、焦げ色の付いた木製の道具箱の蓋を閉じた。願わくば、この蓋を開ける事はしばらく控えたいと思うほど、今日は大勢の患者を診た。
もし、ライゼルが蛮勇を誇るようなら、金輪際手当てしない方がいいのかもしれないと、ふとそんな考えがイミックの脳裏を過る。ベニューは勇気付けられたなどと言っていたが、それはまるでイミックに責任があるような言い方だ。後始末が出来るからと言って、進んで状況を取り散らかすような真似は勘弁願いたい。
溜息が漏れそうになるのを堪えながらイミックがライゼルの方へ向き直ると、彼の少しはにかんだ顔が見えた。
「言わないけどさ。この怪我が俺の勲章なんかじゃなくて、この怪我が治った時の元気な俺が、イミックの勲章だから。それが、なんだか嬉しいんだよ」
「そうか」
特に顔色を変えず、ただ一言そう返した。この一日でライゼルの物言いには慣れた。いちいち動揺していては、みっともないとイミックは思う。そう思う反面、
「—――私も、私もライゼルみたいな向こう見ずな人間がいてくれると、自分は誰かの為に優しくなれるんだと認識できて、その、なんだ…嬉しいよ」
「おう」
丁度そこへ現地調査を終えたビアンが戻ってきた。それに気付いたベニューは声を掛ける。
「おかえりなさい。船の予定、どうでしたか?」
「駄目だ。船着き場自体に被害はなかったが、復興に人手を割かれて、しばらくは出せないそうだ」
「そうですか、仕方ないですね」
王都までの最短経路である航路が断たれた今、改めて陸路でクティノスまで向かわねばならなくなったライゼル達。
「船で行けないとなると、鎮護の森を東へ迂回しなければならんな」
ここに来て予定が狂い、ビアンとしても弱り切ってしまう他ない。ミールの北側へ川を渡れれば、王都の南に位置するヴェネーシアまで行けずとも時間は短縮できる。が、ミールより北に集落はない。補給もなく王都まで辿り着くのは不可能であり、進路を誤ればベスティア王国最大の砂漠地帯、ワスティータス砂漠に迷い込む恐れもある。急がば回れとは、まさにこの事だ。
「いいよ、船は帰り道に乗るよ。なっ、ベニュー」
「えっ、あ、うん。そうだね」
あれ程楽しみにしていた船旅を潔く諦め、物分かりの良さを見せるライゼル。ベニューは弟の反応を意外だと感じた。帰り道という事は、いつかフィオーレに帰るつもりでいるのだろうか。
ともかく、これまで通り、いくつかの集落を経由して王都を目指す。改めて進路は決まった。そうなれば、ここに長く留まる理由はない。
「次の経由地は、ムーランだ。さぁ、出発するぞ」
「おう!」
次の経由地であるムーランへ向け、早速出発しようとする一行。歩き出す一行の背中を見送るイミック。
「ライゼル」
イミックに呼び止められ、ライゼルは慌てて振り返る。
「そうだ、お代だ。忘れてた」
腰に下げた布袋から銀貨を取り出そうと、ごそごそ中身をまさぐる。しかし、イミックはやんわりと受け取りを拒否する。イミックが言いたいのは、そんな野暮な話ではない。
「代金ならおつりが出るくらい貰った。それより、これから王都へ行くのか?」
「うん、王様に会って伝えなきゃいけない話があるんだ」
王様、と。その言葉を耳にした途端、僅かにイミックの表情が曇ったように見えたが、ライゼルは気付かず続ける。
「もしかしたら王国のみんなが危ないかもしれなくって、それを王様に知らせなきゃなんだ」
漠然とした話ではあるが、そう言えば先刻何者かに襲われたとライゼルが話していたのをイミックは思い出す。つまり、今後の道中もライゼルはこれまで同様に、今回の火事のように危険に晒されるのだと示唆している。イミックにとって、それは心痛める懸案事項だった。知らぬ間に情が移ってしまったこの少年の身に危険が及ぶのは、イミックにとって望ましくない事だ。余りにも危なげで、心配で仕方がない。
「それはライゼルがやらなければならない事なのか?」
イミックにとって、今の仕事は理想の為に必要な事であり、自分がやりたい事だ。苦労も多いが、きっとこれからも続けられる。では、ライゼルは? ライゼルのそれは、ライゼルのやりたい事なのか、やらなければならない事なのか。もし、そのどちらでもなければ、イミックはライゼルを故郷に帰したいと思う。
イミックの視界に、ライゼル越しから役人であるビアンと、ライゼルの身内であるベニューの顔が映る。役人は先を急ぎたそうにしており、イミックによる足止めを煙たがっている。少女は、『どちら』とも言えない表情をしており、もしかしたら、イミックと同じ想いだったかもしれない。応援したい気持ちと止めたい気持ち。その二つが混在している様子。
「うん、巻き込まれたからってのもあるんだけど、困ってる人がいるんだったら力になりたい。だって」
行きずりのイミックが少年の歩みを止める事は適わない。出来る事があるとするなら、少年の前途に幸多からん事を、と祈る事くらいだろうか。ならば、掛ける言葉はこれしかない。
「そうだな。だって」
二人は声を揃えて、
「「誰だって、しかめ面より笑っていた方がいい」」
異口同音にそう宣誓し合って、ライゼルとイミックはお互いそれぞれの旅路へ歩き出す。ライゼルは次の経由地へ、イミックはこの土地で注目を集めている薬膳を学びに。
街に煤けた臭いを乗せた渇いた風が吹く。この街は復興に向けて歩んでいくだろう。それは、通りがかりの少年と、行きずりの青年の姿勢に感化された住民達の姿が証明している。街の人達は諦めていない、この街がまたあの活気を取り戻す事を。
何故なら青年に誓ったのだ。ライゼルにとびっきりのご馳走を振る舞うと。
その約束の日に向けて、ミールの人々はまた一層食へ拘り続けていくのだった。
to be continued・・・
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