「腹減ったな」

 柳は塀の陰に身を潜めながら独り言ちた。

 羽衣子を張り込んで一週間が経つ。今のところ周囲に怪しいと思われる人物は現れていない。

 腹ごしらえのため他の刑事としばらくの時間交代するものの、柳はできるだけ自分で張り込むことにしていた。

 それは平山の命を忠実に実行するためでもあるが、羽衣子に罪をかぶせるような輩から彼女を守りたいからでもある。

 この一週間、羽衣子のドジっぷりを楽しませてもらった。それでもまったくめげない彼女をかわいいと感じ、いつでも前を向いている姿に惹かれた。

 早く事件を解決して羽衣子に交際を申し込みたいと柳は考えている。

 まだ重要参考人なのに、そんなこと言ったら平さんに怒られるかな。

 柳はため息をついて項垂れた。

「刑事さん。お腹空きませんか?」

 突然、声がして柳は飛び上がった。

 塀の角から羽衣子が顔を覗かせている。

「え、ええーっ」

「ずっと気付いてたんですよ。わたしのこと見張っているの」

「あ、いやこれは――」

「わかってます。わたしを守ってくれてるんですよね。ありがとうございます」

 ぺこっと頭を下げて羽衣子が笑った。

 ああ、これは完全に平さんにどやされる――

「で、刑事さんまだ晩ごはん食べてないみたいだから、一緒にどうかと思いまして」

 張り込みの刑事を食事に誘うなんて、なんてお間抜けなんだ。僕も負けず劣らずで人のこと言えないけど。

「あのご迷惑ですか? ですよね――」

「いえ、食べますっ」

 柳は笑顔ではっきりと返事した。


 食卓には慎ましやかな料理が並んでいた。卵焼きやサラダなどで手の込んだものはないが、コンビニ弁当で夕食を済ませる柳にはどれも気持ちのこもったもののように思え、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁にいたっては涙が出るくらいおいしい温もりが体中に染み渡った。

「誘っておいて、こんなものですみません」

 柳の茶碗に二杯目のご飯をよそいながら、羽衣子が恐縮した。

 口の中いっぱいに頬張ったものを咀嚼しながら、

「おいひいれす」

 柳は軽く頭を下げた。

 それにしても来客用の湯呑がなかった割には男物の茶碗はあるんだと柳は少し落胆した。

 そりゃ、恋人くらいいるよな。

 その線の捜査も必要だと思ったが、今まで男の気配は感じられない。

 柳は茶碗に目を落としているふうを装い、羽衣子を覗き見る。同じように上目遣いの羽衣子と目が合った。

「か、彼氏さんの茶碗使っていいんですかね?」

 声が裏返り我ながら情けなく思う。

「あ、それ買ってきたんです。あれと一緒に」

 指さすキャビネットの中には来客用の湯呑セットが伏せてあった。よく見るような安物だが就活中の羽衣子にとっては散財だろう。この茶碗にしても。

「僕のためですか――」

 柳は感動のあまり声を詰まらせた。

「気にしないでくださいね。安物ですから」

 それでも嬉しい。ああ、こんなところ平さんに見られたらどれだけ怒られるか。

 そう思ったとたん、ポケットのスマホが鳴り出した。

「ちょっとすみません」

 柳は腰を上げ玄関先に立つ。

 電話は平山からだった。

 出ると第一声から怒鳴られた。

「ばかやろうっ。今どこにいるんだっ」

「すみません。柴田さんの部屋にいます」

「お前は張り込み中の刑事だぞ。ったく――交代に行った高橋がお前がいないって大騒ぎしてたんだ。

 こっちは適当にごまかしておくからお前はそのまま女についてろ」

「あ、ありがとうございます」

「礼などいらん。ちゃんと仕事しろっ。わかったな」

「了解です」

 電話を切って振り向くと羽衣子が不安げな表情でこっちを見ていた。

「もしかしてわたしのせいで叱られたんですか?」

「大丈夫です。このままあなたについてろって」

 そう言うと羽衣子が破顔した。

 その笑顔に柳は自分の想いが成就する近い未来が見えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る