第4話


            ◇◆◇


 リリーは稼いだ金のほとんどを、劇を見るためだけに費やした。

劇のチケット代というものは下働きのリリーにしては非常に高額なもので、二か月に一回、良くて一か月に一回しか見に行くことができなかった。それでもその一回が、彼女にとってどれほど貴重なものであったかは言うまでもないことだろう。少しでも多くできるだけ早く、劇場に足を運ぶためにリリーは地道に雑用を片付けて楽団に貢献した。

以前に劇場で会った裕福そうな子供たちは、やはり演劇鑑賞といった類いを趣味としているらしく、それらの趣味を持つ仲間に声を掛けて適当な場所に集まって情報交換をしているようだった。そんな場の中で、以前劇場で知り合ったリリーの話も出たらしく、その集団に参加している子供たちは劇場でリリーを見かけると、わざわざ隣の席まで移動してきて劇の説明をしてくれるのだ。

何度か顔を合わせるうちに、リリーもすっかり子供たちの輪の中に入れてもらえるようになった。そこで行われる数々の会話――アルルカンが大活躍した話や、彼の相棒のブリゲルラの悪巧み、彼の恋人のコロンビーヌの物思いや彼の敵のパンタローネの失敗談など――を聞いて、期待に胸がふくらむのだった。早く劇場に行きたい。それは、アルルカンに逢いたいからというのが勿論大きな理由ではあったが、アルルカンのいるアルテ劇団の皆のことも大好きになっていたのだった。

 アルテ劇団では、役者のほとんどが仮面をつけて動く仮面喜劇というものを上演していた。――例外はコロンビーヌや臆病者の騎士のイル・カピターノ、出番の少ない役柄など。特にコロンビーヌの場合は、演じ手の女性の美しさを売りとしているから仮面はつけない方針のようだ。

 そして、驚くべきことに、演劇のほとんどは即興――つまりその場その場のアドリブで行われており、台本に書かれているような決まった台詞はほぼ無いに等しいようであった。

「おおまかな話の筋書きはあるんだけどね」

中でも物知りの子が得意げに言う。「台詞の指定はせずに、役者さんに自由に動いてもらうって方針みたいだよ。伝統なんだって。すごいよね!」

 そうしてしばらく彼らの会話に参加してから、楽員たちの食事の買い出しへ駆けてゆくのが常だった。


「そんなに必死になって……。そこまで劇場に行きたいの?」

事情を知る楽員の何人かが少し呆れたようにリリーに問う。

演奏会の準備のためにリリーは、歌い手や奏者の衣装を整えたり、化粧をしてやったりと慌ただしく動いている。今は、尋ねてきた歌い手の髪を綺麗に梳いてやっている最中だった。

「あなた、歌はいいの?」

リリーは確かに、楽器の調整や掃除、今は舞台準備と大いに忙しなく動き回っていた。けれど。そんな忙しい中でも、彼女は真面目に歌の練習もこなしていたのだ。時間を削ることはまず無い。楽団の楽手にピアノの音を出してもらって発声練習をしたり、他の歌い手たちと合唱してみたりと、それは一生懸命にやっていた。……それなのに上達の兆しはみえない。合わせようとしても、音に遅れがち、もしくは速くなりがちで。音調から外れ、旋律に置いてかれ、自分の歌が不安定になり、最後には崩れてしまう。リリーは絶望した。自身の才能の無さが、ただただ恨めしかった。

それなのに。少しも夢を諦めようとしないのは誰よりもリリー自身が、最も不可思議だと感じることだった。

祖母の言葉を叶えたいと思うからだというのだろうか。自分に才能が無いとわかった今でも、……まだ? 


そんな彼女の様子を見るに見かねたトマスという、この楽団にとって数少ない壮年の男が、彼女に声を掛けた。彼はセロの楽手だったが、ピアノも巧く、彼女が練習する時はいつも伴奏してやっているのだ。

「ここから西へ行くと、街はずれに大きな森があるのを知っているね? そこに僕の古くからの知り合いがいるんだ。彼は気難しいけれど、優秀な歌い手を何人も育て上げてきた、確かな腕がある男だ。そんな彼は今、色々あって人から離れた生活を送っているが、僕が頼めば一度くらいなら君に会ってくれるはずだ。行ってみるかい?」

 思いがけない話にリリーが大きく頷こうとした瞬間、その話を近くで聞いていた楽長・フローラが口を挟んだ。

「あんた、リリーをあいつなんかの所へやるつもりかい?」

 フローラは、露骨に嫌悪感を露わにした。どうやら楽長はその古くからの友人を知っているようだった。トマスは苦笑し、宥めるような口調になる。

「そういえば、君たちは仲が悪かったね。まあでも、彼は優秀だ。特に、歌のこととなれば右に出るものがいないほどに。その点は君も信用してるだろ?」

「あいつの腕は信用できても、あいつの性格は信用できないね」

「はは。まあ、そう言ってやるなよ」

 楽長はややふくよかな体つきをしており、一見すると包容力に似た安心感が感じられるかもしれないが、それを打ち消すかのゆおに彼女の吊り目の鋭い視線が威圧感を感じさせる。

そんな楽長にいつも気圧されてしまうリリーは、彼女の前だと自然に縮こまってしまう。楽長は優しい人だ。それは自分を拾ってくれて、尚且つ住む場所などの面倒を見てくれていることで痛いほどわかっているし、感謝している。なのに不必要に構えてしまうのは、フローラという人物が他人にも自分にも妥協を許さない厳しい人であったからだろう。――しかしそれが無ければ、これほどまでにこの楽団を発展させることはできなかっただろう。フローラ楽団の現在の形を作ったのは間違いなく彼女の手腕によるものだった。

「リリー」

 呼ばれて、リリーはフローラを見つめ返した。気付けばいつもの呆れ顔が表情に浮かんできた。それを目にしたリリーはさっと顔を背けてしまう。次に発せられる言葉は、いつだって決まっているのだ。

「あんたまだ――」

 トマスが間に入って、場を収めようと宥めてきたが、フローラの視界がリリーの姿から外れることはなかった。たまらずリリーは聞きたくないとばかりに瞳を強く閉じた。それでもフローラは言い放った。

「まだ、歌をやるのかい?」

続く言葉を遮ることはできない。そんな術を、リリーは持ち合わせていないのだ。ただできることは、落ち着きなく視線を彷徨わせ、なんとかフローラの言葉に傷つかないようにと、必死に気を紛らわせることのみだった。

フローラはリリーを見据えた。

「諦めないのかいリリー、残念だけど、あんたにはねぇ」

フローラ楽団楽長として、リリーの為を思って告げる。このままじゃあんたをここに置いとくことはできなくなるんだよ。

「歌の才能ってもんが無いよ。――あんた、ここで生きていくにはさ、当然音楽をやってかないといけないわけだけど、歌だけが音楽じゃないんだよ? 楽器を演奏する道だってあるんだ。――そういやあんた、ピアノが上手かったそうじゃないか。それをやってみたらどうだい? まァ、そうすぐに歌を捨てることは難しいっていうのはわかるけど、時には諦める潔さも必要なんだよ?」

「……はい」

 返ってきた声は、か細く震え、今にも消え入りそうなものだった。リリーはそのまま、一度も顔を上げることなく出て行った。

 フローラの嘆息が、いやに辺りに響く。辺りには楽器の片付けをする団員たちが数人残っていたが、片付けが終わると楽長に挨拶をして別れていった。フローラとリリーとのこういったやり取りは、今日が初めてのことではなかった。

 フローラはひどく疲れた調子で独りごちた。

「あの子にはセンスがある。それは確かにね。……でも、どういったわけか、――音痴なんだよねェ。一人のときはまだ大丈夫だ。でも一たび、合唱や楽器が重なり合ってくると、途端に音が取れなくなって、音楽に置いてきぼりを食らってしまう。……音痴な歌い手なんて聞いたことあるかい? こればっかりは直る直らないの話じゃないよ。どんなにあの子が望んだとしてもね」


            ◇◆◇


「どうして、あなたがここにいるの」

震えるリリーの声に視線を上げて、もたれていた畑を囲う柵から離れて歩み寄る。仮面の向こうの翡翠色の瞳が、三日月のように細くなった。

「いつも同じ場所でおち合うのも芸がないなって思ってさ」

そうして空を指さした。辺りは一面に葡萄やオリーヴの畑が広がっており、その近くに農家の家が点々と建っているくらいで、大きく空を遮るものは何一つ無い。よって、仄かに白んでいる紺色の星空を十分に眺めることができた。アルルカンは上を指さし、リリーに話しかけた。

「見て。星が綺麗だ。ここは周りに高い建物がないから、空一面ぐるっと見渡せられるね。――冬の空は美しい。特に、青紫と橙の色がまざり合う夕暮れの空が最も美しい」

「ねえ、わたし……」

 とてもあなたと会える気分じゃないの。リリーは申し訳なさそうにそう呟いた。

「今日だって会う約束してなかったよね?」

「そうだね」

アルルカンは微笑んでみせた。

「でもぼくが会いたかったから」

リリーはその仮面の笑顔を茫然とみつめる。

「きみの歌が聴きたくなったから」

「どうしてわたしの歌なんか……そんな、そんな価値無い。あなたにそんな風に思ってもらう価値なんてひとつも無いのにっ!」

堪えることはもうできない。崩れ落ちるように膝をついて、そのまま泣き出してしまった。

「あなたに会えばまたあなたの優しさに甘えてしまう。だから今、会ってほしくなんてなかったのに。……わたしまた、あなたの前で泣くんだわ。いやだわ、あなたもうどこかに行ってしまってよ」

「そばにいるよ」

アルルカンはゆっくりと彼女に近づいて、自らも膝を折り、彼女の頭を撫でてた。

アルルカンは優しく囁いた。

「何があったのか、話してごらん」


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