天体観測

永坂暖日

あるいはそれよりも鮮やかな 01

 灰色の雲が空を覆い尽くし、昼間だというのに太陽がどこにあるのか分からない。もっとも、太陽を直に拝んだことのある人類は、もうこの世のどこにもいない。

 灰色の雲と厚い塵の層の向こうにあるおぼろげな姿を見られたら、運がいい。

 だけど、そんな幸運に預かろうとする者など滅多にいない。陽光の恵みが乏しくなったために薄ら寒く、人体に悪影響を及ぼす様々な微粒子を多分に含む大気に満ちた地上を捨てて、人類は地下都市へ潜ってしまっている。死の気配が漂う地上へ、見えるかどうかも分からない、見えたとしてもぼやけている太陽を求めて、わざわざ出ていくのはよほど酔狂な者だけだ。

 そんな者は、ここには一人もいない。しかし、違う意味で酔狂な者が、一人だけいた。

 灰色の雲、同じ色調で淀んだ大気、もう何の役にも立たない薄汚れたがれきの山――。濃さの違う灰色がほとんどのこの地上で、彼だけは異様なほど目立っていた。

 堀川をはじめ、皆がくたびれた白を基調とする防護服を着込んでいるのに、丹野だけは、目にも鮮やかな赤い防護服を着ていたのだ。

 灰色の世界で、その赤は鮮烈だった。そして、よく見れば、体のラインに沿うように、LEDライトが張り巡らされている。今は明かりがついていないが、暗くなったら光るのだろうか。全部点灯したら、かなり明るそうだ。いったい、何のために。

「堀川は、地上に出るのは今日が初めてだったな」

 防毒マスクだけは、皆と同じ色合いだった。LEDライトもついていない。もっとも、マスクに色を付けたり、ライトを張り付けたりする部分などほとんどない。

「見事に灰色の世界で、驚いただろう」

 顔の全面を覆うマスクだが、強化プラスチック製の風防は大きく、視界は良好。表情もよく見える。丹野は、目を丸くする堀川を見て笑っていた。ただ、彼女が驚いたのは、地上の光景を目の当たりにしたからではない。上司の、その防護服の色のせいだ。

「ようこそ、地上へ」

 しかし、配属されたばかりの新入りが何に驚いているのか誤解したまま、丹野はニヤリと笑った。


    ●


 今から百五十二年前、ユーラシア大陸に巨大な隕石が落下した。その衝撃で被った被害は、地上だけに留まらなかった。衝突により巻き上げられた大量の塵が、地球を覆い尽くしたのである。

 その上、隕石衝突の衝撃により、世界中のあちこちで、まるで誘い合わせたよう火山活動が活発化した。吹き出す大量の火山性ガスは、地球の大気組成をほんの少しだけ変えた。その少しの変化は、人体に悪い影響を及ぼすには十分なものだった。

 大量の粉塵と変成した大気は、すぐに死に直結するものではなかったが、長く呼吸していれば喉や肺を病み、目や鼻の粘膜に修復困難な損傷を与えた。

 不織布のマスクやメガネだけで対処しきれるものではなく、空気清浄機では太刀打ちできなかった。巻き上げられた塵で太陽光は遮られ、世界中が寒冷化。塵がすべて地上に落ちるには、数百年、下手をすれば千年以上の時間が必要とされた。

 地上で、隕石落下の前のように生きていくのは困難。そう判断した人類は、地下に潜ることを決めた。

 だが、地下都市の建設とて、簡単なものではない。建設に適した場所は限られ、その土地を巡り、世界中で争いが起きた。海に囲まれたこの国とて、その例外ではなかった。国内のみならず、国境を越えて、文字通りに争奪戦が起きた。

 世界中で様々な兵器が開発され、次々と投入された。ほとんどが自動制御のそれらは、巨大なものから分子サイズのものまで、形も大きさも多種多様。分子サイズの兵器は、ただでさえ汚染されていた大気の汚染度をより深刻なものとした。地下都市の必要性はますます高まり、争いは激化した。

 争奪戦に巻き込まれず、いち早く建設が進んだ地下都市も、移住が始まると、騒動と無関係ではいられなくなった。安全な場所を求め、人々が殺到したのである。

 今でこそ、百万人規模の人口を抱える巨大な地下都市は世界中のあちこちにあるが、建設直後はまだ規模が小さく、収容できる人数に限りがあった。

 建設場所を巡って争いが起き、地下都市ができあがれば、移住を希望する人々の間で争いが起きた。隕石衝突と、その後の地球規模での火山活動でも相当な混乱だったはずだが、地下都市を巡る様々な争奪戦も、全人類を巻き込んで大きな争乱となった。

 今では、それらの時代を混乱期と呼んでいる。

 人類が地下へ潜った現在は混乱期を脱出したと言われているが、そんなものは、地下の深いところで安穏と暮らしている人々ののんきな言葉だ、と堀川芽衣は考えていた。地上と地下の境界線で働いていれば、今でも混乱期は終わっていないと肌で感じる。

 混乱期にばらまかれた大量の兵器は、今も機能している。プログラムされた通り、標的である人間を探し続けている。地上に出ればそれと遭遇する危険性が、今でも十分にあった。


「初めまして。今日から半年、君の研修を担当する丹野新(たんの・あらた)だ。よろしくな」

「堀川芽衣(ほりかわ・めい)です。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」

 空調整備局の小会議室で、堀川は丹野と初めて顔を合わせた。

 入局したばかりの堀川は、真新しい作業服。研修期間中の上司となる丹野の作業服は、袖口がすり切れていて、薄い青色の生地は、数え切れないほど洗濯を繰り返したせいで色褪せていた。よく見れば、あちこちに、洗っても落ちなかったらしい汚れが染み着いていた。

 地下都市は、絶えず外気を取り込み、また、排出している。そのための通気口は、当然ながら地上にあった。空調整備局は、その通気口の維持管理をするための組織だ。

 汚染されている外気をそのまま都市内に循環させるわけにはいかないので、取り込んだ外気は数種類のフィルターを通過させる。そちらのメンテナンスも、整備局の仕事である。

 空調整備局では、地上に出る機会の多い通気稿の維持管理の仕事を外勤、フィルターの交換や都市内の循環装置のメンテナンスを担当する仕事を内勤、と呼んでいた。地上は今も危険な兵器があふれていて、内勤を希望する者の方が多い。

「堀川は、外勤希望なんだってな」

「はい。面接の時にそう言ったら、試験官の方々に驚かれました」

「俺も驚かれて、こっちが驚いたよ。整備局の仕事なのにさ」

 丹野が笑い、つられて堀川も表情を緩めた。

 研修先を言い渡されたとき、丹野について少しだけ教えられていた。

 ふつうは、外勤の過酷さから数年で異動願いを出すというのに、丹野は一度も異動願いを出していないそうだ。入局前から外勤一筋の変わり者、らしい。

 ならば堀川も、丹野に続く変わり者になるのだろう。面接の時からの希望は変わらず、今後も変わる予定はなかった。

 丹野は、堀川をのぞく四名の部下を率いている外勤組の班長だった。年齢は三十三歳。部下は彼より年下ばかりで、二十歳になったばかりの堀川とは比較的年齢が近かった。もっと平均年齢の高い班もあるそうだが、歳が近い方がいいと配慮してくれたのかもしれない。しかし、人付き合いが苦手な堀川にとって、同僚の年齢が近かろうが離れていようが、同じだった。

 初日から、堀川は丹野について回ることになった。例年、班で引き受けた新人の教育は丹野が担当していて、ほかのメンバーは、丹野の手が空かないときなどにサポートするのだそうだ。

 丹野の説明は丁寧で、わかりやすかった。堀川が理解するまで、呆れるでもなく怒るでもなく、説明をしてくれた。

「堀川は、最下層出身だってな。それがどうして、空調整備局の外勤で働きたいってなったんだ?」

 説明を聞くばかりで疲れただろう、と休憩室で二人でお茶を飲んでいたとき、丹野に訊かれた。

 彼について三日目。丹野やほかの班員と仕事の合間に少しは雑談をしていたし、丹野は上司だ。堀川の履歴書は見ているのかもしれない。

〈春時(はるとき)〉は上層、中層、下層、最下層の四層構造になっている地下都市だ。下の層にいくほど、通過するフィルダーの数が増えるので、清浄な空気がある。空気の清浄度の影響は、各層の住人の平均寿命に如実に現れていて、上層へいくほど短かった。それ故、下から上の層へ移住する者は少なく、珍しい。

 丹野も中層出身だというが、空調整備局がある上層のすぐ下だ。近いから、大差はないのかもしれない。だが、堀川のように一番深いところから一番浅いところへ移住してくる者は、空調整備局内でも数少ないのだろう。

「……わたしでも役に立てる仕事だと思ったからですよ」

 機械をいじるのが子供の頃から好きだったというわけではない。むしろ、ほとんどやったことがない。それでも、地上へ出て通気口のメンテナンスをする方が、最下層で働くよりもいいと思ったのだ。それに、最下層で生きていく理由が、堀川にはなかった。

「――そうか。ここはいつでも人手不足だから、助かるよ」

 丹野は、深く追求してこなかった。同じ質問をしてきたほかの班員は、そんなことはないだろうとか、最下層の方が安全な仕事も多いんじゃないかと言ってきたので、丹野の対応はありがたかった。

「地下で説明を聞くばかりなのも飽きてきただろう。午後から地上へ出るぞ」

「いよいよですか」

「ああ。でも、俺は午後一で会議があるから、準備については秋元に聞いてくれ。秋元と堀川と俺の三人で、第二排気口のメンテナンスに行く」

 秋元は、班の中で唯一の女性メンバーだった。丹野の次いで、何かと堀川の面倒を見てくれている。

 昼休みあけ、秋元について地上へ出る準備を始めた。

 汚染大気は、肺だけでなく肌や粘膜も浸蝕する。そのため、マスクと肌をすべて覆い尽くす防護服が必要だった。

 作業服は上下に分かれているが、防護服はつなぎだった。フードもついていて、着込むと顔と手足の先しか露出しない。フードをかぶり髪の毛を中に押し込め、ファスナーをしっかりしめて鏡を見る。顔だけ丸く露出していて、マスクをしていないと間が抜けた感じがする。あまり人に見られたくない姿だ、と思った。

「あと、これが堀川さんのマスク。サイズは大丈夫?」

 同じように防護服を着ている秋元が、真新しいマスクを差し出した。全面型で、風防の強化プラスチックには傷一つなく、ぴかぴかだ。使い方は丹野に教わっていたが、実際に装着するのはこれが初めてだった。

 マスクには大気中の汚染物質を濾過・吸着するための吸収缶と呼ばれる缶詰のようなものを二個、左右に取り付けるようになっている。吸収缶は使い捨てで、吸着能力がなくなる頃合いで新しいものに交換する。

 堀川は教えられたとおりにマスクを装着して、顔との密着具合を確かめる。

「大丈夫です」

「じゃあ、地上に出ましょう。丹野さんは先に行ってるってよ」

 会議が終わるや、早々に準備を整えていち早く地上へ行ったらしい。

「地上には一人で出るな、と丹野さんに言われていたんですけど」

「基本的に、二人一組で行動なんだけどね。丹野さんは、先に一人で出たがるのよ」

 マスクをつけた秋元は笑っていたが、あきらめているような口調だった。

「それより、驚くわよ」

「地上にですか? それなら、資料映像で何度も見たことが――」

「地上の光景より、驚くものがあるわよ」

 それがなんなのか、秋元は教えてくれなかった。地上へ出れば、すぐに分かるのだろう。それに、あまり興味がわかなかった。何か驚くものがあろうと、堀川の仕事に変わりはないのだ。

 秋元について地上へ出た堀川は、しかし、目を丸くした。

 丹野は落ちない汚れのついた作業着を着ているものの、その下に派手な色のシャツを着ているわけでもなく、髪を染めているわけでもない。説明は丁寧で、言動に派手なところがあるわけでもない。

 それなのに、地上にいた丹野は、真っ赤な防護服を着ていたのだ。


 驚いただろうと丹野は言うが、あなたのその格好に驚いているのだ、と堀川は言えるわけもなかった。驚く堀川を見て秋元は苦笑しているが、それだけだ。どうしてそんな真っ赤な防護服を着ているのか、尋ねていいのかも分からない。それに、予備の吸収缶を持ってきているとはいえ、地上の滞在時間は短くとどめるに越したことはない。早速始めようと丹野は言うし、結局何も訊けないまま一通りの説明を聞いて、地下に戻ることとなった。


「丹野さんの防護服は、どうして赤いんですか」

 堀川が、丹野に防護服のことを訊けたのは、彼と数回地上へ出たあとだった。丹野に指導されながらだが、堀川は自分の手でメンテナンスするようになっていた。

「この色だと目立つだろう」

「……かなり目立ちますね。LEDライトもついているし」

「さては、堀川は俺のこの格好をバカにしてるな? このライトをつけると、もっと目立つんだ」

 地下にいるときの丹野は、全く目立つ格好をしていない。どうして、見る者などほとんどいない地上で真っ赤な防護服で目立ちたいのか、堀川には皆目見当がつかなかった。

「天気が悪くて暗い日とか、手元が明るくなって意外と便利なんだぞ」

「……それなら、ヘッドライトをつければよくないですか」

 LEDライトは、下半身にもついている。丹野の言い分だと、下半身についている必要性はない。地上であっても丹野の説明は丁寧で、地下と変わりない。どうして服装に限って、不可解で納得しがたい説明しかしないのか、むしろ不思議だった。

「マスクがあるから、これ以上頭に何かつけたくない。邪魔になるし」

 しかし、深く追求するほど気になるわけでもない。結局、堀川は「はあ、そうなんですか」と言って終わりにした。

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