παρελθόν 11(16)
目醒めるとアスクレピオスの人の好さそうな顔が見えた。
自分を覗き込んでいるので距離が近い。
……ヤだな。良い神さんだけど、薬臭くて苦手なんだ。
ティコは呻き声を漏らした。
アスクレピオスが居るなんて……冥府へなんて戻っていただろうか。周囲の状況を把握しようとティコが瞳を動かしていると、エメラルド色の瞳一杯に涙を浮かべたペルセポネが彼女に抱きついた。
振動が頭に響き、ティコは思わず短い悲鳴を上げた。
「ペルセポネ様、患者の傷に障ります。心中お察ししますが、あと一時間はお控え下さい。私の技術と言えども治癒には少なからず時間が掛かります。何せ陥没した頭蓋骨を裏返して縫い合わせたのですから」アスクレピオスは眉を下げた。
頷いたペルセポネは頬を伝う涙を拭うとティコから離れた。
ペルセポネが離れると視界が開けた。ティコは自分の部屋のベッドに寝ていた。
「……アスクレピオスも……妃も居るから……冥府かと想った」
ティコが気怠げに呟くと、ペルセポネの隣に佇み、腕を組んでいたヘカテが口を開く。
「部屋で血染めになってぶっ倒れていたのを担当のケールが見つけたんだ。彼女の報告で直ぐにアスクレピオスが駆けつけた。……アレスの許で武術を習わせていたとはいえ、お前、よくやるよ」
片眉を上げて小さな溜め息を吐くヘカテにティコは問う。
「ヘカテ女神がいる……と言う事は……」
「ああ。黒犬と共に現場を調べたよ。何があったか全て知ってる」
「……そう」
瞳を伏せたティコは浅いため息を吐いた。
「安心しな。アレで殺した事にはなってないからな。爛れた右手を空気に晒して殴打した訳じゃない。現場の臭いを嗅いだ黒犬は『殴打した後にヒュプノス神としての務めを果たした。後はタナトス神に任せて平気だ』と言っていたからな。……お前はお前として戦って、死神として務めを果たしたんだ」ヘカテは組んでいた腕を解くと、包帯から四方八方へ短い毛を伸ばしたティコのブロンドを撫でた。
傷に障り、ティコは呻き声を上げた。
患者を刺激しないで下さい、と眉を下げたアスクレピオスにヘカテは窘められた。
ティコは苦笑する。
「みんな……寄って集って私に触れるね」
ヘカテとペルセポネは互いを見合わせると微笑んだ。
「それは……みんな貴女が好きだからですよ」ペルセポネは微笑んだ。
「私には……勿体ないお言葉です」ティコは瞳を伏せて微笑んだ。
すると突如、黒い粒子が部屋に現れた。中から膝を折ったイサドラが出る。
「ペルセポネ様、ハデス様が例の件でお呼びです。お出ましを」
ペルセポネは眉を下げる。
「……もう少し此処で娘の顔を眺めていたいものですが……仕方ありませんね。私がハデスに頼んだ件ですもの。……ティコ、今度は元気な顔を見せに来て下さいね」
ペルセポネはティコの頬にキスをすると微笑み、黒い粒子となって消えた。
やり取りを眺めていたイサドラは鼻を鳴らす。
「……キスなんかされてお前、やっぱり王女様じゃないか」
「王女なもんか。ただの阿婆擦れだよ」ティコは鼻を鳴らした。
「折角アスクレピオスのおっさんも居るんだ。口が悪いのも治して貰いな」
「お前さんもな」
イサドラとティコは互いに鼻を鳴らし、外方を向く。しかし傷に障ったティコは表情を歪め呻いた。それを眺めていたアスクレピオスは溜め息を吐き、ヘカテは小気味よい笑い声を上げた。
二十数年後、死神の教育者として一人前になったティコはノエルの国を離れ、別の国に渡った。
幾柱も弟子をとっても戸惑う事が多々あった。しかし独りになる時間はあった。幼い弟子が寝静まってから、ティコは時々深夜のキッチンの片隅に座し、パンドラから借りた『パンドラの匣』を眺めていた。ガラス瓶の中には想い出のピアノが納まっていた。
ティコの青白く光る瞳をガラス越しに反射させる瓶にはノエルと共に連弾したアップライトピアノが鎮座している。まるでボトルシップのようだった。
殴打事件から三日後、顔が腫れ上がり左の小指を壊死させたノエルは密告により捕まった。仲間の手引きがあったらしく地下に潜ろうと想えば潜れた。しかし二度とピアノを弾けない失意から何もする気が起きなくなったらしい、終始放心状態だった。彼は拷問にかけられても仲間を売り渡す事無く斬首された。
イサドラの報告を想い出したティコは長い溜め息を吐いた。
臆病な男だな。臆病な男だったんだ。ピアノを弾くと言う生き甲斐を奪ったのは私だ。しかしノエルは『いつか庶民がピアノを弾く時代が来る。いつか来る時代の為に……ピアノを作り続けるんだ』とも言っていた。ピアノを弾けずとも作り続ける事は出来た筈だ。それを叶えずして死を選んだのだ。免れない運命とは言え最期まで挑む事は出来た筈なのに。
……いや、やはり私の所為なのだろうか? 爛れた右手で触れて死の切っ掛けを与えたから生きる事を放棄したのだろうか、それとも私が小指を喰いちぎったからだろうか?
それも運命の内だと言うのだろうか?
予定された未来……運命から免れないからこそ、何も出来ないのだろう。
人間も神も運命の前では無力なものだな。
ティコは長い溜め息を吐いた。彼女が吐いた暖かい空気に触れたガラスが曇り、中に納めていたピアノが霞む。
胸の空気を吐き切るとティコは瞳を伏せた。
……時々こうやってピアノを眺め、想い出すのはまだ彼に未練があるからだろう。逆賊の家として見せしめに工房を燃やされるのが偲びず、隙を見てピアノだけを救って来た。ピアノに罪は無い。
何故そう思う?
ノエルの遺物だから?
それとも彼が愛を注いだ物だから?
未だに醒めない恐い夢の中に居るのだな、私は。
ティコは長い溜め息を吐く。
ティコが管轄区を離れ農村に移ってから革命が起きた。ノエルが居なくとも革命は狂乱の渦で国土を席巻した。王族の首が撥ねられ、貴族の首が撥ねられ、やがては革命家の首も撥ねられ、処刑人の正義の剣は次々と血を啜っていった。
国民が王権を倒した事により、周辺諸国では緊張が走った。革命を認めてはならない。断じて国民主権を認めてはならない。王は神によって選ばれ守護されるのだ。周辺諸国はノエルが居た国に戦争を仕掛けた。
革命によって内政も外交もボロボロであったがノエルの国は臨時政府を立て、戦争に応じた。しかし後退を続け、首都が戦地になるかならまいかと言う瀬戸際まで追い込まれた。
そこに一人の英雄が現れ、国難を救った。彼は次々と領土を奪還し国民の多大な支持を得て皇帝の座まで昇りつめた。しかし在位は長く続かなかった。戦争により名を馳せた者は戦争を続けなければ地位を維持出来ない。皇帝は戦争を続けたが、国民は疲弊していた。
やがて彼は皇帝の称号を剥奪され、闇に葬り去られた。国民は平和主義を掲げていた革命の生き残りの王子を玉座に据え、再び王権を認めた。
……人間とはなんて身勝手な者なのだろう。あれだけ望んだ自由を手にして飽きると蹴り飛ばしやがった。人間ってやつは命の時間が短い。恩も大義もさっさと忘れちまうし口当たりのいい物しか受け入れないんだ……私もノエルも、とと様も……みんな、みんな同じだ。同じだからこそ信じたい。仲良くは出来ないけど本当は程々に付き合う事はできるんだって。理解は出来ないが互いを認める事は出来るって。
目頭を熱くしつつティコはピアノを眺めていると廊下から物音がした。目を擦った幼い弟子がティコに近付き『恐い夢を見た。眠れない』と声を震わせた。
「私もずっと恐い夢を見てるんだ」パンドラの匣を仕舞ったティコは立ち上がる。
弟子は小首を傾げ『大人でも恐い事があるの?』と問うた。
ティコは弟子の柔らかい髪を撫でてやる。
「ああ。大人は子供よりも強いかもしれないが臆病だ。……一緒に眠ろう。そしたら……きっと恐くない」
ティコの話をマークはベッドで彼女を抱きしめつつ聞いていた。
肩を穏やかに上下に揺らすマークが相槌も打たない。しかし彼の手は決して胸の古傷から離れない。ティコは彼が疲れて眠ってしまったと想い、身じろぐとブランケットを肩まで掛けてやった。
「……それでどうなったの?」眉を下げたマークはティコを見上げた。
「起きていたのか」小さな溜め息を吐いたティコは微笑んだ。
「うん……辛い話だったけどちゃんと聞いてたよ。ティコの事、全部知りたいから」
「悲しい想いをさせてごめんよ」ティコはマークの頬を撫でた。
マークは頬に添えられた手を強く握ると、ティコの青白く光る不思議な瞳を見つめる。
「……子供扱いしないでよ。……僕だって男だ。大好きなティコがノエルを愛してたなんて……モヤモヤする」
瞳を潤ませて自分を見つめるマークにティコは微笑む。
「嫉妬してくれるなんて嬉しいね」
マークは唇を尖らせる。
「僕は本気だよ」
瞳を伏せたティコはマークの額に自らの額を触れさせる。
「……悪かった」
「今でも……愛してる?」
「うん?」
「ノエルの事」
不安を小さな胸に抱き、眉を下げ切ない声を響かすマークの頬にキスを落とすと、ティコは首を横に振る。
「……今考えたらあの感情は『愛』と呼べたのか分からない。熱に浮かされていただけのかもしれない。私もノエルも互いの本質を見ていなかったし、独り者が寄り添って満足していただけかもしれない。……それでも、短い間だけど一緒に居て心地良かった。だからこそ信じたいと想った」
難しい話にノエルは小首を傾げる。
「愛してたって事?」
「『よく分からない』って事だよ」
「狡いな」
頬を膨らますマークの柔らかな髪をティコは撫でた。
「子供扱いするな!」マークはティコを睨んだ。
「ごめんごめん」苦笑したティコは手を離した。
その手をマークはすかさず握る。
「今、ティコと一緒に居るのは僕だからね」
「……独占欲の強い男だね」ティコは苦笑する。
「他に……愛した人は居る?」眉を下げたマークはティコを窺う。
「……そんな事話したら、お前さんまた焼き餅妬くだろ? 眠れなくなるよ?」
「いるんだね?」
ティコは肩をすくめると小さな溜息を漏らし、微笑する。
「『居た』んだよ。過去形だ」
手を離したマークはティコの胸に抱きつくと古傷を撫でる。
「……どんな人だったの?」
「どうだったかね?」
「教えないと離さないよ?」マークはティコを抱きしめる腕に力を込めた。
「もう終った恋だよ」
「……片想いだったの?」
「いや、互いに心が通じていた。ただ、私には彼を受け入れる資格がなかっただけだ」
ティコは瞳を閉じた。
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