四章 三節

 ローレンスは空港へ出向いた。彼はトイレに入るとサングラスを外して耳栓をねじ込み右手の包帯を解くと姿を透過させた。出発ロビーへ向かい金属探知機ゲートをすり抜け、ラウンジのシートに座す。ユウとリュウの事を考えていると彼の姿を視認出来ない旅客に腰を下ろされそうになったので横にずれた。


 施設や警察に連絡した方が双子の為になるのではないか。しかし母親が現れず彼らがこの世を去るのならば、友人である自分が世話をした方がいいのではないか。自己満足や偽善だろう。しかし彼らの最期を看取りたかった。ハデスに報告されるかもしれない。島へ魂を運ぶ救済を止められるかもしれない。ローレンスは小さな溜め息を吐く。腕時計を見遣ると予定時刻に迫っている。大きな窓をすり抜け飛び降り滑走路へ向かった。


 滑走路は霧がかかっていた。ローレンスは携帯電話を頼りに指定された場所に向かう。数十メートル後方ではエンジンから轟音を響かせて旅客機が移動する。耳栓なんか意味をなさない程の音だが、何かをねじ込まないよりはマシだ。こんな天候で飛行機を発着させるなんて酷いものだ。腕時計を見遣ると間もなく時間だ。彼はリストを眺めた。液晶に映された二人の女の顔と機体の外見を再度確かめる。今回の魂は好きに出来る。


 ローレンスは仕事の直前は感情を無にしようと努めた。さもないと少しずつ狂気に捕われる。昨夜は管轄外とはいえ感情移入した。イポリトの言う通りだ。僕は情に流され易い。しかしもうどうにもならない。


 上空から別機のエンジンから響く轟音がローレンス目がけて近付く。凄まじい速度だ。大惨事に備えて彼は思考の糸を断ち、立ち止まった。


 滑走路を移動していた旅客機と着陸態勢に入っていた旅客機が接触した。聴覚を奪う爆音と共にどちらの旅客機も一瞬で炎上する。爆風が容赦なく吹き付ける。ローレンスは背から漆黒の翼を広げ、滑走路を滑る旅客機を追いかけた。


 潰れた旅客機に入る。炎に浸食されたキャビンは地獄絵図だった。剥き出しになった鉄骨に串刺しになった乗客が白眼を剥き、落ちた天井に頭を潰され判別もつかない乗客が居た。即死した幼子の手には旅客機の模型が握られ、通路だった所には手荷物が散乱し付箋が貼られた観光雑誌が落ちている。生きた人間が乗った旅客機は、今は多くの骸を乗せた巨大な棺桶だった。


 ローレンスは歪んだキャビンをすり抜けリストに載っていた女二人を探す。目的の女達は窓側のシートに並んで浅い呼吸をしていた。亜麻色の短髪の女は左胸を鉄骨に刺され出血し、長髪の女はその鉄骨が顔にかすり顔の右半分を血で染めている。二人の胸からは光り輝く魂が宙に浮き出ていた。魂と体は太い尾で繋がっている。爛れた右手で魂を肉体から切り離す。ジャケットのジッパーを下げ、魂をベストに収めると旅客機から離脱し黒い翼を広げ上空を舞った。


 滑走路を見下ろすと消防車が何台も駆けつけ、炎上する旅客機へ放水していた。ローレンスはベストに収めた二尾の魂を撫でると駐車場へ飛び去った。


 ランゲルハンス島の水脈に通じる河に魂を流したローレンスは帰宅せず四階の部屋に上がった。双子に食事を与え、部屋を改めるがブランドの袋や空箱が散らばるばかりだった。服や生活用品、玩具すら無い。電気は点かないしお湯も出ないが水は出た。部屋を少し片付け彼らを寝かしつけるとステュクスへ向かう。パンドラに話を聞いて貰いたかった。


 先客がいた。知らない男だ。静かに酒を飲んでいた。


 ローレンスはパンドラと目が合うと軽く会釈してカウンターの最奥に座した。


「こんばんはローレンス様。お疲れのご様子ですね」


 パンドラは暖かいお絞りを出す。ローレンスは手を拭き、顔を拭く。


「……うん。昨夜から色々あって疲れた」


「左様で御座いますか。疲れた時には甘い物を摂ると良いと聞きます。用意致しましょう」パンドラはスポットライトを点けると酒を作る。それに気付いた先客はカウンターに紙幣を置くとステュクスを後にした。


 パンドラはリキュールグラスを差し出す。


「シェリーの梅酒です。どうぞ」


 ローレンスはグラスに口をつける。舌に甘さが乗り一瞬で消える。溜め息を漏らす。

「……どうして僕は死神なんだろうね」


 パンドラはカウンターの紙幣を仕舞い、空のグラスとお絞りを片付ける。


「気が遠くなる程昔から仕事を続けたけど人の愛に触れる度に思うんだ。どうして僕は死神なんだろうって。……僕は人間が好きだ。僕は皆が笑い合って幸せに暮らしている所を眺めるのが好きなんだ。それなのに僕は人殺ししか出来ない」


 パンドラはローレンスの前に佇む。


「神じゃなくて人として生まれたかった。限りある命の中で人を助け、人を愛し、子供を為し、笑い合って暮らしたかった」


 記憶が甦った。大昔様々な国で鼠を媒介とした黒い病が流行った。彼は監視の眼を盗み役目を放棄した。人間に紛れたローレンスは分厚いローブを翻し鳥のマスクを被り、ひしゃげた帽子を頭に乗せクチバシ医者として民家を回った。人助けしたかった。しかし当時の医療体制や知識は現代に比べればいい加減な物で、誰一人として命を救えなかった。他のクチバシ医者達が感染者や死亡者の記録を取る中、ローレンスは感染者の声に耳を傾けて一人一人の為に涙を流した。仲間も黒い病に倒れる中、ローレンスは二人の仲間と共に人手不足の近郊の街へ向かった。しかし道中馬車を襲われた。身軽な彼は馬車馬を失敬し命辛々街へ逃げおおし仲間の救済を請うた。クチバシ医者は当時貴重な存在だった為、彼らを捕えた無法者が身代金を請求する事件がしばしば起こった。当時の監視役のヒュプノスにローレンスは街で捕えられた。


「ローレンス様はお医者様になりたかったのですか?」


 ローレンスは顔を上げた。いつの間にかパンドラが額に触れていた。


「……いいや。ただの自己満足だよ。でも殺す側じゃなくて看取る側に身を置いた事で僕自身は随分救われた」


「きっとローレンス様に看取られ亡くなった方達の心も救われた事でしょう」パンドラはローレンスの額から手を離す。


「……醜い偽善にしか過ぎないよ。それに死神の役目を一時期放棄した事で監視が厳しくなった。島の件は随分前に認めて貰ったけどその一件以来運べる魂が激減した」


「それでもローレンス様の計らいによって救われる魂はあるのですよ。タナトスのお勤めも黒い病でなさった看取りと一緒では御座いませんか? きっと双子も寒い部屋で帰らぬ母をただ待つよりもローレンス様と共に過ごし希望を抱いている方が暖かいでしょう」


 ローレンスは顔を上げるとパンドラを見つめた。


「イポリト様が先程立ち寄って下さいました。そして昨夜から明朝にかけてのローレンス様の行いについてお話して下さいました。イポリト様は監視役では御座いますがローレンス様をご心配なさっています」


 パンドラは大きな紙袋を目の前に置く。


「イポリト様からの預かり物です」


 ローレンスは紙袋を膝に乗せると中身を改めた。子供服や子供用歯ブラシ等の洗面用具、どうやって入手したのか見当もつかないが双子の部屋の合鍵が入っていた。物をカウンターに並べる。空の紙袋の底には殴り書きのメッセージが記されていた。『乗りかかった舟だ、勝手にしろ、クソじじい! ただし風呂以外ガキを家に入れんなよ!』


「……イポリト、ありがとう」




 翌朝、午前休のローレンスは双子を起こすと自室へ案内し風呂に入れた。昨夜からイポリトは帰宅してないので気兼ねせずに行動を起こせた。


 双子は一緒に入ろうとせがんだがローレンスは首を横に振った。リュウとは男同士なので構わない。しかし女の子であるユウの風呂の世話をするだけでも恥ずかしい。それに自分の裸体を彼女に晒すのは以ての外だ。『なんで』を連呼するユウに体にタオルを巻くよう言い聞かせるとローレンスは袖と裾をたくし上げ双子の髪を洗う。髪をすすぐと、体は自分達で洗うよう言い聞かせ風呂場を離れた。


 風呂上がりのリュウに背を抱きつかれたローレンスはユウの髪を乾かしつつテレビを眺めた。子供番組を点けても良かったが電気が通らないあの部屋に戻すとつまらない思いをさせるのでニュースを点けた。昨日の航空機事故を取り上げていた。衝突した航空機、衝突された航空機合わせて百数名が亡くなり画面には重体の乗客の顔写真が映る。重体の二名は昨日回収した魂の女達だった。一人はトップモデルで隣にいた女はその友人だとキャスターが説明する。


 トップモデルにしろ何にしろ、一刻も早く記憶を取り戻して選択をして欲しいとローレンスは願った。ランゲルハンス島の時間と現世の時間の流れは異なるが、魂が肉体に戻れるのには制限時間がある。その間に選択が出来るようにと祈った。


 テレビを睨んでいると振り向いたユウが空腹を訴えた。ローレンスは急いで髪を乾かして二人をソファに座らせカフェで買ったサンドウィッチとオレンジジュースを出す。柔らかいサンドウィッチに眼を輝かせた双子は一口齧った。リュウが夢中で次々食す一方、ユウは手をつけてないサンドウィッチをローレンスに差し出して微笑んだ。彼は彼女の優しさに心を打たれた。気が向いた時にしか食事を摂る習慣は無かったが厚意を受取った。


 紅茶を詰めた水筒と昼食を持たせ四階の部屋へ双子を送ると、早く帰れる旨を伝え部屋を後にした。水色のマフラーを握ったユウとリュウは玄関でローレンスを見送った。


 郊外で仕事を済ませたローレンスは市街地に戻ると大型書店に入る。絵本など今まで一度も手に取った事が無かった。見当がつかないローレンスは販売員と相談して絵本を三冊と、読み聞かせが出来る童話を購入した。自室に戻り荷物をまとめつつリビングの様子を眺めるが、出た時と変わってない。イポリトは気を使って外泊しているようだ。ローレンスは胸中で礼を述べ、まとめた荷物を提げて双子の部屋へ向かった。


 ドアに耳を付け母親の不在を確認してからドアを解錠する。双子が駆け寄り出迎える。心から待ち望んだ人物とは違ったので彼らは寂しい笑顔を浮かべる。心を痛めたローレンスは荷物を置くと双子を抱き寄せ『ただいま』と微笑んだ。


 部屋を少し片付けると毛布に包まった双子に絵本を読み聞かせた。慌てん坊の少女がお遣いに行く話や臆病な少年がペットを通して勇敢に成長する話、そして双子の水色のドラゴンが冒険をする話を読んだ。ユウとリュウは双子のドラゴンの絵本に喰いついた。甚く気に入ったのか『もう一度読んで』と催促を三回した。ローレンスは同じ話を繰り返し朗読して疲れたが双子は満足そうに笑っていた。


 買った総菜を双子に食べさせる。ユウを心配させまいとローレンスも少し相伴し、童話を少し読んでから双子に歯を磨かせた。ソファに毛布と掛け布団を敷き、就寝準備をしているとユウはカーテンを開けて結露した窓から外を見上げる。


「ユウ、冷えちゃうよ。レディは体を冷やしちゃダメだ」ローレンスはユウの肩を抱く。


「おにいちゃん、あれなあに?」ユウは指差す。天から小雪が舞い落ちる。


「あれはね、雪だよ。冷たくなった雨が落ちたのが雪なんだ」


「綺麗だね」ユウは振り向き微笑む。愛らしい笑顔だ。


「うん。綺麗だね」


 ローレンスが微笑み返すとユウは彼の頬に触れる。


「綺麗なお顔」


「き……綺麗って、ユウは僕の顔がおっかなくないの?」


 青白い肌をし、落ち窪んだ眼窩に青白く輝く大きな瞳を持つローレンスはいつの時代も女性と縁遠かった。臆病者の彼は酷く傷ついていた。顔をマスクで覆い暮らせればどんなにいいかと思い悩んでいた。素顔を見ても驚かないパンドラやカロン、そして太古の昔オリーブの樹が茂るアゴラで友人になった子猫には随分救われた。


「うん。おにいちゃんの顔大好き」はにかんだユウはカーテンを閉めると、舟を漕ぐリュウが潜る布団に入る。


 頬を染めたローレンスが『おやすみ』と言うと、悲しそうな声でユウは引き止めた。キャンドルの火を吹き消そうとしていたローレンスはユウを見遣る。


「……行かないで」瞳を潤ませた彼女はローレンスを見つめる。


 ローレンスはキャンドルを吹き消すと、布団に入りユウの頭を撫でた。雪が降っている所為かいつもよりも明るい。ユウの顔が見える。


「……ありがとう」ユウは青白く光るローレンスの瞳を見つめた。


 ローレンスは微笑んだ。リュウははしゃぎ疲れたのか既に寝息を立てていた。


「おにいちゃん、あのね。おにいちゃんは天使様なの?」


「天使って……どうして?」


「だって、おにいちゃんの背から羽が生えているもの」


「……ま、まさか。きっと何かの見間違いだよ」


「じゃあ騎士様?」


「騎士って……誰が言ったの?」


「リュウ」


「あのね、リュウが守ってくれるの。泣かなくなったの。おにいちゃんと騎士の約束したんだって。おにいちゃんは騎士様なの?」ユウはローレンスに顔を寄せる。


「僕は騎士じゃないよ」


「じゃあなあに?」


 死神だ、とも答えられずローレンスは幼児相手に困惑する。


「じゃあ私の旦那様になって」ユウは大人の女性のように笑った。


 驚いたローレンスは胃液を逆流させて噎せた。死神として生を受けてから初めて受ける女性からの好意だった。


「だっ旦那さんって……僕とユウが結婚するのかい?」


「うん」


 ローレンスは深く息を吸い、深く吐いた。大丈夫、呼吸は出来そうだ。


「結婚は大人にならないと出来ないよ。それに君が大人のレディになる頃には僕はおじさんだ。きっと今よりも格好悪いよ。格好悪いおじさんと綺麗なレディとは釣り合わないだろう?」夭折する運命を隠さなければならない事にローレンスは胸を痛めた。


「おにいちゃんとじゃなきゃ結婚しないもん」ユウは頬を膨らませる。


「そ、そんな事言われても……」ローレンスは戸惑う。


「私、おにいちゃんの顔も好き。おにいちゃんの包帯巻いた優しい手も好き。おにいちゃんが好き。大人になっても、おじさんになった優しくてかっこいいおにいちゃんとずっと一緒にいたいもん。私が結婚出来なかったらおにいちゃんの所為だからね」


 そんな事言われて死なれたら悔恨残る。観念したローレンスはユウを撫でた。


「分かったよ、僕のお嫁さん」


 ユウはとろけそうな笑顔を向ける。ローレンスの鼓動が跳ね上がる。頬を染め視線を逸らした彼は言葉を続ける。


「でも、結婚するのは大人になってからだ」


 頷いたユウはローレンスに体を寄せる。ユウを女性として意識したローレンスは鼓動を速め、頬を更に紅潮させる。ユウはそれに構わず首筋に抱きつく。小さなユウの体から漂う香りがローレンスの鼻腔を弄る。それはシャンプーでもボディクリームでもなく、彼女自身の甘い体臭だった。いつの日か、アゴラで体を委ねてくれた白い子猫以上に柔らかく温かく甘美なものを感じた。


「レ……ディはそんな事をしないよ」気を失いかけたローレンスは声を振り絞り窘めた。


「婚約者だから」ユウは頬に唇を寄せると眠ってしまった。


 頬を染めたローレンスは身動き出来ずユウを抱きしめたまま一夜を明かした。

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