二章 八節
西の山の麓には小一時間程で着いた。
三頭のケンタウロスに代金を支払い、四人は秋の山へ足を踏み入れた。山は錦を織りなし遠目から眺めても色鮮やかだ。ティールームのプレートスタンドのように段を作った紅葉が日光を遮らんばかりの勢いで乱立する。地には落ちて乾燥した葉が堆積する。歩く度にスナック菓子の袋をまさぐるような音が響く。
「来たのは良いけど何処に居るか見当はついてるの?」人魚はニエに問う。
ニエはリュックサックから登山地図を取り出し広げた。そして渓流の一帯を指し示す。
「広範囲だなぁ」フォスフォロは苦笑する。
ランゲルハンスが毎年ニジマスの燻製を持って帰る事をニエはフォスフォロに伝えた。
「うーん、そうか。それならそこら辺を探す価値はありそうだな」
「二手に分かれて捜索した方がいいんじゃない? どっちかの岸の離れた所に山小屋あるだろうし。渓流か山小屋にいるだろう」クチバシ医者は提案する。
三人共頷いた。
「じゃあ渓流まで上ってから分かれよう。俺はお魚ちゃんと組むから君はニエとよろしく」フォスフォロはクチバシ医者に微笑む。
「なんでアタシがアンタと一緒なのよ!? まだニエの方がマシよ!」人魚は異を唱える。
「酷いなぁ。レディだけのパーティだと心配だからさ。エスコートさせてくれよ」
「だったらそこの童貞との方がまだ安心よ! ケンタウロスに乗った時は走るからちょっかい出さないと思ってた。だけど地に降り立った時は別よ!」
「ハンスの弟子のニエは有能な魔術師だからクチバシ医者に付いた方が良いだろ? アウトドア派の俺は君に付いた方がいい。それに君が嫌がる事を二度としない」
「嘘」
「本当だって。あれから三週間、君を泣かせたかい?」
眉根を寄せて頬を膨らませた人魚は思案する。やがて口を開いた。
「……分かったわよ。大人しく言う事聞いてやるわよ」
「ありがとう」フォスフォロは飾り気の無い笑顔を人魚に向けると歩き出した。
不貞腐れた人魚は先を行くフォスフォロに負けじと追いかける。クチバシ医者とニエは笑みを堪えながら二人を追いかけた。
一時間も経たずに渓流に着いた。踏みしめていた地は落ち葉で埋め尽くされたものから湿り気を帯びた土に変わる。せせらぎが聞こえ、土と苔の香りが鼻腔をくすぐる。
「ここからは別行動だ」フォスフォロはニエとクチバシ医者に手を振る。
ニエは帆布のリュックサックから白鳩を優しく取り上げるとフォスフォロに託した。
「グラシャス。何かあればコイツで連絡するよ。しかしニエはどうするんだ?」
術でフォスフォロ達に知らせてから向かう、とニエは伝えた。ランゲルハンス宅から西の山迄のような長距離移動術はニエには使えない。しかし目的地まで三、四キロ程度なら人一人連れていても可能だ。
肩に白鳩を止まらせたフォスフォロと人魚はせせらぎを渡り、クチバシ医者とニエと別れた。フォスフォロと人魚は上流を目指し渓流に沿って歩く。土は水気を含み足許は滑り易い。水辺の側は地盤が緩いので山小屋を建てるのに都合が悪い。
フォスフォロは隣を歩く人魚に提案する。
「俺は空を見て煙を探すから君は川辺を探してくれないかい?」
「なんでよ?」人魚は苔むした岩を踏みしめる。
「この寒さなら山小屋に居りゃ暖炉を使うからさ。人が居る所に火はあるからね」
「分かったわよ。それにしてもアンタ、アタシにジャケット貸して寒くない訳?」
「心配してくれて嬉しいなぁ」フォスフォロは空を眺めつつ笑う。
「違うわよ」
「サラマンダーだからね。寒くはないさ。お魚ちゃんこそ、そんな格好で寒くないのかい?」
「アタシだって人魚よ。裸で居るのが当たり前なの。冬の海だって潜れるわ。それよりもその呼び方何とかならない? 聞いてて恥ずかしくなるわ」
「じゃあなんて呼べば?」
「……カナで良いわよ」
「カナ? それが君の名?」
「違うわよ。本当の名は教えない。友達にだって呼ばせなかった。カナはアタシが所属者の時にプワソンに付けられたの」
「あのプワソンがねぇ。子供にハンペンとかツミレとかセンスの欠片も無い名前を付けるプワソンがカナなんて洒落た名前をねぇ。うーん……」
「何よ」
「カナって略称だろ? カナッペ、カナリア、カナヅチ……意外とカナヅチだったりして」
失笑するフォスフォロを人魚はどつく。フォスフォロは転倒しかけたが持ち堪えた。
「笑うな!」
「ごめんて。しかし正解だとはね」
「井戸から引き上げられた時には泳げなかったの! 悪い!?」
「悪かったって」
「……友達にも笑われたわよ」人魚は唇を尖らせた。
「クチバシ医者かい?」
「まさか。アイツはアタシの子分よ。友達はもう居ない。帰ったの、現世へ。命を賭して手助けをしたのがクチバシ医者よ。だから子分として認めてるの」
「へぇ。クチバシ医者は幸せだな、カナの子分にして貰えて」
「アンタだって毎日お菓子持って来てるんだから子分にしてやっても良いわよ」
「いや、遠慮しておくよ」フォスフォロは笑った。
「何よ。折角こき使おうと思ったのに」
人差し指を唇の前に立てフォスフォロは沈黙を促す。人魚は立ち止まると訝しげにフォスフォロを見据えた。フォスフォロは晴天を仰いで耳を澄まし、鼻を小刻みに動かす。
「雨だ。もうすぐ降る」フォスフォロは顎を引いた。
「こんなに晴れているのに?」
「ああ。俺は水が苦手でね。苦手な物の気配は察知し易いんだ」
フォスフォロは対岸を見遣るがクチバシ医者達はいない。肩の白鳩に囁くと空へ放つ。
「カナ、川から離れよう。雨宿り出来そうな樹を探そう」
フォスフォロは人魚を森へ促した。森を歩むと木々の枝から垣間見える太陽は灰白色の厚い雲に覆われ、辺りは暗くなる。
「まずい。そろそろ来やがる」
人魚の手を掴むとフォスフォロは歩みを速める。突然手を掴まれた人魚は驚いたが他意は無さそうなので付き従った。フォスフォロの脚は長いので一歩の幅が人魚よりも広い。脚が長くとも陸上を走らない人魚は小走りになって息が切れそうだ。
「アンタ、サラマンダーでも風呂入るんでしょ。多少濡れても平気でしょ。アタシも濡れても風邪引かないから速度落としなさいよ。息が切れるわ」
「ごめん」フォスフォロは立ち止まると人魚の手を離した。
その途端、曇天から落ちた雨粒がフォスフォロの肩を濡らす。シャツを濡らした雨は直ぐに強まり、木々や地面を激しく打ち叩いた。雨音が耳を突く。濡れたシャツが体に張り付く。邪魔臭そうな長い前髪から雨が滴る。
「とにかく大きな樹を探して雨宿りしましょ」人魚は雨に負けじと大声を出した。
「いやー、もういいや。濡れちまったら意味が無いんだ」フォスフォロは苦笑する。
「何が『もういいや』よ。あれだけ急かしておいて!」
眉を下げたフォスフォロは足許を指差した。
人魚はフォスフォロの足許を見た。激しい雨に打たれた地面には尖った肉塊が横たわる。無数の白い筋が走る赤い肉を青紫やどす黒い管が葉脈のように取り囲み、グロテスクに脈打つ。長い肉塊は上方から垂らされていた。人魚は根本を目で追う。フォスフォロの尻だった。奇妙な肉塊は彼の尻尾だった。
「……だから何よ。サラマンダーなら尻尾あるでしょ。ドラゴンだってあるんだから」
「驚かないのかい? 俺がシャワー浴びた後、女の子はドン引きするのに」
「それよりもシャツが透けてエロい事になってるわよ。馬鹿丸出し」笑いつつ人魚はジャケットを脱ぐとフォスフォロに羽織らせた。
フォスフォロは苦笑する。
「いいから雨宿り出来る所探すわよ」人魚は彼の手を掴むと土砂降りの森を進んだ。
十分程歩くと山小屋を見つけた。ポーチの庇に駆け込み、窓から中を覗くが暗い。窓も埃で汚れていたので不鮮明にしか分からない。
「多分ハンスの山小屋だろう」フォスフォロは濡れた前髪を邪魔臭そうに掻き上げる。
人魚はドアノブに手をかけ捻った。駄目で元々のつもりだったがドアは開いた。フォスフォロは口笛を吹く。二人は山小屋に入った。
酷い有様だった。天井にクモが巣を張り床にはガラクタや空のワインの木箱が山積し、マントルピースに埃が堆積している。壁には赤紫やモスグリーンやオレンジのシミがこびり付いている。テーブルの花瓶には羽ペンが活けられていた。
「無いよりはマシだけど酷いってモンじゃないわね」舌打ちした人魚は咳き込む。
「ニエが居ないと荒れ地の家もこうなるぞ」フォスフォロは人魚の背をさする。
ガラクタを足蹴にしてスペースを作った人魚はタオルを探した。フォスフォロは空の木箱を膝で割り薪を作る。暖炉に潜り煙突に付いている弁を開けると小さな薪を組み、窓を少し開けた。床に落ちていたメモ帳を丸めて火を点け、薪に添える。小さな火は薪を喰った。火の動きが安定したのでフォスフォロは大きな薪をくべた。
暖炉を見守っているとバスタオルと毛布、ワインボトルを抱えた人魚が近寄る。
「あったかいわね。流石火の精霊ね」人魚はバスタオルと毛布を渡す。
「グラシャス」
それを受取ったフォスフォロは踵を返し、長い尾を引きずり暖炉から離れた。濡れた服を脱ぎ毛布に包まり、人魚が座す暖炉に戻る。
人魚はボトルをソムリエナイフで開けようと苦戦していた。
「貸して」フォスフォロは手を差し伸べる。
人魚はボトルとソムリエナイフを託した。
「一昨年のか」ボトルの首を掴んだフォスフォロはラベルを眺めた。
「うん。飲んでもいいでしょ?」
「多分ね。一昨年の物があるなら今年は来てないな」
「え、無駄足? どうして?」
「以前ハンスが話してたからさ。毎年一年前の物を山へ持って行くって。それにしても何処に行ったんだろうな」フォスフォロはボトルの首にナイフを押し当て回すとキャップを外した。スクリューをコルクにねじ込んでフックをボトルの口に引っかける。そしてコルクを引っぱり上げ回して外した。
「やるわね」人魚は外れたコルクを眺める。
「酒飲みの必修科目だからね。それよりもグラスは?」
「なかったわよ、そんな気が利いたもの」
「じゃあお先にどうぞ」フォスフォロはボトルを差し出す。
人魚は一口飲むと顔をしかめて差し出した。
「何これ。滅茶苦茶渋い。この前飲んだ甘い奴と全然違う」
フォスフォロはボトルを受け取るとワインを口に含む。
「料理に合わせるならこんなもんだろう。カナは甘い方が好きかい?」
「ワインなんてあまり飲んだ事ないもの。よく分からないわ」人魚はコルクを胸に仕舞う。
「じゃあ贈るよ。俺の家の側にワイナリーがあるからチュプペケレ・ハスカップのワインでも見繕うさ」
「それはどうも。でもアタシの住処は海中だからハーピーの郵便小包やらケンタウロスの宅配便なんか来ないわよ」
「じゃあ俺が君の許へ訪ねても?」
微酔いの人魚をフォスフォロは見つめた。人魚の血色の瞳に小さなフォスフォロが映る。
「……口説いてるの?」
フォスフォロは人魚から目を離さない。
「あの時はちょっかいだった。でも今は心からカナが好きだ。俺の本当の姿を見ても恐れない、素直じゃないけど優しいカナが好きだ」
フォスフォロの瞳を見つめていた人魚は視線を逸らし、暖炉の方を向く。
「……ありがとう。何百年経っても好きだって言われると心が温かくなるものね。でもアタシはフォスフォロに何もしてやれないわ」
「それでも構わない」
「アタシが構うの! 生前のアタシには絵描きの旦那がいた。爛れた顔のハゲで、変な声で、泣き虫で、優しくて、我慢強い、いい男だった。……アタシは貴族の玩具でね。来る日も来る日も犯された。それを知った旦那がアタシを攫ったの。兵士に捕まるまでのたった三日か四日の結婚生活だったけど幸せだった。アタシは貴族の屋敷に戻され旦那は殺された。アタシの心を旦那は持って逝っちゃった。アタシの心は空っぽなの」
人魚の頬に涙が伝う。
「だから今は誰かを愛せない。旦那がくれたこの姿で不自然な生を謳歌する。旦那が見たかった事、やりたかった事を思う存分やる。それが今のアタシよ」
「……ずっとカナを待っていても?」フォスフォロは指で人魚の頬を拭ってやった。
「馬鹿ね。好きになる保証は無いわよ」
「それでもいい」
「……じゃあ一つお願いがあるの。泣かせた女の子に笑顔を返して。きっとその子、本気でフォスフォロを好きだったと思うの」
「それは……カナを諦めてその子を幸せにしろって事?」
「……フォスフォロは器用だから気を持たせずに笑顔に出来るでしょ?」
「分かった。約束する。だけど今は印が欲しい。友達として」フォスフォロは右手を差し出した。人魚は鼻で笑うと差し出された右手を固く握り、二度振ってから離した。
「恥ずかしい奴」ボトルに手を伸ばした人魚はワインを一口飲む。
「間接キス」フォスフォロは悪戯っぽく笑う。
「子供か、アンタは」人魚はフォスフォロを小突いた。
煙草吸って来る、とフォスフォロは立ち上がると濡れたジャケットを抱えドアを開ける。その瞬間地面を打ち叩く雨音が耳を突き刺す。ジャケットの胸ポケットに手を入れ、マッチ箱を取る。軽い。フォスフォロは直ぐに戻った。
「どうしたのよ?」
「マッチが切れてた」フォスフォロは隣に座した。
「じゃあ煙草くわえて暖炉の火でつけたら?」人魚は笑う。
「言うねぇ。そこまでして吸いたくはないよ」フォスフォロも眉を下げ笑う。
人魚は胸の谷間からマッチ箱を取り差し出す。人魚のシルエットが描かれたマッチ箱だ。
「ここで使いなさい」
「グラシャス。でも女性の前で煙を吹かしたくないよ」フォスフォロ立ち上がろうとした。
しかし人魚が彼の腕を力一杯掴む。
「ここで使いなさい」人魚は血色の瞳を三白眼にして睨む。
苦笑したフォスフォロは観念した。煙草をくわえマッチを擦る。すると青いマッチ棒の先に水が灯った。炎のように水が揺らめく。
「制作者直々の水マッチか」フォスフォロは息を吸い煙草に水を点け、肺に香りを満たす。
人魚は使用済みの水マッチを取り上げると口へ放った。
「これなら嫌な煙は出ないでしょ?」
「ああ。香りもなんだかポプリみたいだな」
「ドライフラワーを使ってこの吸い方をするなら、煙草も水マッチも売れると思う。どう?」
「素敵じゃないか。ドライフラワーならクチバシ医者に頼んだらどうだい?」
「嫌よ。何で親分が子分に頭下げなきゃいけないのよ」人魚は唇を尖らせる。
「ははっ。じゃあカナの友達の俺から頼んでみるよ」
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