第69話

 寝巻き姿の明日軌は、雛白邸最上階である五階の窓から街を見下ろしていた。

 夜明け前だから真っ暗で、見回りの兵が持った松明がチラチラと揺らめいている様子しか見えない。

 しかし龍の目で未来を見ると、街は電気の光で明るい。今は雛白邸と蛤石監視所のみが自家発電で電気を使っているが、平和になると普通の民家でも電気が使われる様になる。特に商店の看板等は夜通し明かりが灯っている。

 更に自動車が何百台も走っていて、交通整理の為の信号機なんて物も有る。車一台の値段で豪邸が建てられる今の時代からは考えられない光景だ。

 そんな街を見ながら、明日軌は自分の腕や髪、寝巻きの襟等を忙しなく弄っている。

 空が白み始めると、明日軌はその場に座り、おもむろに廊下で寝転び始めた。

「明日軌様」

 執事服のハクマが明日軌に駆け寄る。雛白邸内は基本的に土足で過ごすので、寝巻きで廊下に寝転ぶ等、普通では有り得ない。

「……どうせずっと近くに居たんでしょう? 戦いが始まるまで十分に休みなさいって言っておいたのに」

「明日軌様こそ、ここ数日、まともにお休みになられていません。寝不足では戦闘指揮に影響してしまいます」

 うつ伏せの明日軌の長い髪が床に広がっている。

「私の指揮は見えた事を言うだけ。しかも、これから始まる戦いの最中に私は死んでしまう。でも、私は死にたくない。逃げたい」

 怖い怖いと呟く明日軌。まるで芋虫の様に横たわったままクネクネと動いている。

「逃げたら、生き延びられる。だけど、それだと誰も居なくなってしまう。寿命を全うするまでひとりぼっち。それも嫌なの。嫌なの。いやぁ……」

 数日前の妹社同士の試合の後から、明日軌は一人になるとこうなってしまう。出来る事は全てやり、後は天命を待つだけの状態が、明日軌の心を蝕んでいる。避けられない死に脅えている。

「明日軌様。このハクマに出来る事は、有りますか?」

 自分の髪の隙間から右目を出す明日軌。そして、ゆっくりと執事服の男に黒い瞳を向ける、

「全部して貰った。だから、生き残れる可能性は、有る」

「では、その可能性に――」

 ハクマの言葉は遮られる。

「だけど、私が居る未来は見えないの。可能性なんて、所詮頭の中にしかない希望なのよ。現実に希望なんて無い」

 明日軌は身体を丸め、ぶるぶると震え出す。総力戦が近いとは言え、今回は特に酷い。気丈に振る舞っている明日軌しか見た事の無いハクマは、こんな姿の女主人に少なからずショックを受けた。

 しかし、思い直す。

 明日軌はまだ十四才の女の子なのだ。特殊な能力で自分の死を見て、冷静で居られる方がおかしい。幼い頃から忍びとしての教育を受け、いつ如何なる時でも死を覚悟せよと言われて来た自分とは違うのだ。

「龍の目とは、絶対でしょうか?」

 密かに笑んだハクマは優しく落ち付いた声で言う。

 少しだけ待ってみたが、返事は無い。

「明日軌様は仰いました。龍の目で見える光景は、少しのきっかけでガラリと変わると。ですから、私は希望は有ると思います」

「そんな事は分かっています」

 明日軌は身体を起こし、正座の形になる。ボサボサの髪をそのままに、涙を我慢して充血した目でハクマを見る。

「今この瞬間で時間を止めたい。でもそれは、私がこの街から逃げ出す事と同じくらい不可能な事。――さぁ、始まるわ。私の死への秒読みが」

 突然立ち直った明日軌は、二本の足でしっかりと直立する。

 何事かと驚いたハクマだったが、間を置かずに疑問が消えた。コクマが悪い知らせと共に現れたからだ。龍の目を持った少女は、白い執事の前でしか弱さを見せないつもりらしい。

 ハクマは、自分の心に有る言葉に出来ない感情を、意識的に頭の外に追い出した。雛白家を背負う女主人と忍びの身である自分は、身分や命の重さ、生きる世界さえも違い過ぎるから。

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