国教歴史研究所(2)
黒縁眼鏡の先輩アラン・カームは、真面目一辺倒、歴史研究一筋の学者肌。
研究室に住みこんでいるのでは思うくらい、そこでしか姿を見ない。
ユリアが朝出仕すれば、もう難しい顔をして書類と睨めっこしているし、ユリアが夕刻退出する時にも、まだ同じ姿勢で机に向かっている。
時折ふらふらと部屋の外に出て行くこともあるが、その先で何をしているのかは分からない。
トイレも炊事場も研究室の中に完備されているし、資料集めなどの雑用はユリアに任せると言ったのは先輩本人だ。
(きっと私には分からないことがあるんだわ……)
聞いてみたい気もするが、きっと彼は答えないだろう。
ここに配属されて数日、ユリアはすでにアランへの接し方を覚えていた。
マリー司教はというと。
彼女も自分で言った通り、外部との打ち合わせや、神学校の臨時講師としての仕事が忙しいのか、ここにはめったに顔を出さなかった。
研究所内部のことは、アランに任せてしまっているのだろう。
彼はそれだけ信頼できる部下であるのだろうが、
(ちょっと任せ過ぎではないかしら)
とも、ユリアは思う。
しかし彼ら2人の付き合いの方が、ユリアとのそれより遥かに長いわけで。
そこにも、ユリアが口出しできる隙はないのだった。
「なんだ?」
ここに来て何度目かの「なんだ?」を受け、ユリアは随分長い間彼を見つめていたことに気付いた。
「あ、いえ……」
ユリアは急いでブンブンと首を横に振った。
「手元が疎かになっているぞ。集中しろ」
溜め息交じりに言って、アランはすぐに自分の作業に戻る。
「朝言った資料、いつになったら取りに行く?」
書き物をしながらの厳しい口調。
この口調にもう何度もビクッとさせられているのだが、ユリアはこれにはなかなか慣れないでいる。
元々男性と関わることが少なかったせいもあるだろう。
彼女は男性の低い声が少々苦手だった。
「あ、あの……先ほど言われた資料整理が終わってからと……」
おどおど答えるユリアに、アランは少し苛立ったように言葉を重ねた。
「何を先にするべきか。物事の優先順位を付けるということを早く覚えてもらいたいものだな」
「……すみません……」
アランはユリアの方を見ようとはしない。
ずっと自分の作業を続けたままだ。
ユリアは何かを言おうとして、やめた。
何か言いたくても、何を言いたいのか、自分でもよく分からない。
きっと何を言っても、アランには否定され叱責されるのがオチだと思うから。
「あの……では、図書館に行ってきます」
やっとの思いで言った言葉に、アランは「ああ、そうしてくれ」とにべもなく返してきただけだった。
(神学校の先生たちと比べるのは違うと思うけど……)
厳しいながら楽しかった学生時代。
男性講師も優しく包み込んでくれる人ばかりで、ユリアの人生においてアランのような人は初めて。
(きっと世間には、私が思いもつかないような人がまだまだたくさんいるのだわ)
それも勉強の内だろうとは思うけれど、数年ぬるま湯に浸かっていた身としては少々辛かった。
(ここに来る前の先生方も、とてもお優しい人ばかりだったし)
自分のことを正面から見てくれない人がいるというのは、なかなか心に来るものがあるのだと。
初めて知ったように思うユリアだった。
薄暗く長い廊下を行き、中央神殿府の中心までやって来ると、窓から日が燦々と差し込んでいて、世界が変わったような明るさだった。
「あの暗さもいけないのだわ。きっと」
あの辺りをもっと明るくすれば、アランの威圧的な雰囲気も少しは良くなるのではと都合の良いことを考えながら、ユリアは神殿府の玄関を出てすぐ隣にある図書館へと入って行った。
ここは学生時代にも何度となく通った場所だから、どこにどんな書物が置かれているかよく分かっている。
ユリアはアランに渡されていた紙片を頼りに、分厚い書籍を次々に探し当てていった。
「これは……かなりの重さになりそうだわ……」
数冊の本を抱え、ヨタヨタしながら図書館内を移動する。
これはちょっと無理があると、目についた机の上に置いてみた。
「何度かに分けた方がいいかしらね」
手を腰に当て、一息つくと、「あれ? ユリアじゃないか」と声を掛けられた。
振り向くと、そこにいたのは神学校時代、何度か同じ講義を取ったことのある同期の男子。
名は確か……。
「キール・ラング?」
「はは。覚えてた? あの授業以来か。久しぶりだな」
と、教室でも目にした事のある明るい笑顔を見せた。
「うん、本当に。同じところにいても、あまり会わないものね」
「だな。俺は地方神殿の方に研修に行ったりしてたし。昨日の任官式には、なんとか間に合ったけど」
「ああ、あのカリキュラムを取っていたの」
「そうなんだ。おかげで、講師見習いでしごかれそうだ。ユリアは、どこの配属になったんだ?」
「私は……」
ユリアは数日前からのことをかいつまんで話した。
すると、キールは。
「ああ、あのアラン・カーム」
そう言って、次の言葉を濁してしまった。
「キール? アラン様のこと知っているの?」
「んー、いや、知っているというほどではないんだけど……。何かと噂のある人ではあるよ」
「噂……?」
「……聞きたい?」
試すように問われ、ユリアはしばし考えたが、ややして小さくかぶりを振った。
「いいえ、聞かない。アラン様がどんな方かは、私が自分で知って行きたいから」
「……君らしいね」
やや残念そうに言うと、キールは机に積まれた本の山を見て。
「これ、貸し出し?」
「ええ。アラン様に言われて……。数回に分けないと無理そうだなって考えてたところなの」
「……君みたいなか弱い子に、こんなにたくさん持って来させるなんて、やっぱり噂通りの人かもね」
「キール」
「ああ、ごめん、ごめん。言わないから。……なんなら手伝うよ? 一冊だけで結構な重さじゃないか」
キールは一冊を手に取って口を尖らせた。
ユリアはそれを取り上げながら、
「お気持ちは嬉しいけど、これは私の仕事だから。ありがとう」
そう言って、山の中から数冊を取りって両手で抱えた。
「小分けにして運ぶわ。……お互い頑張りましょう?」
「ああ、だな。お互い癖の強い上司に辟易しそうだけれど」
「あなたの上司は」と問おうとして、ユリアは時間が気になりやめてしまった。
研究室に帰ってから、また「遅い」だのなんだのと、お小言を言われるものも辛い。
「慣れていくしかないわね。それでは、キール、また会いましょう」
「何事も慣れだよね。うん、ユリア、またな」
キールの言うアランの噂のことは、本当はとても気になっていたけれど。
とりあえずユリアは、あと数回、図書館と研究室の間を往復することなるのだった。
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