63,もっと高いところへ
ここに来て、どれくらい過ぎただろう。
一生忘れ得ないいつもの冬空の下、俯いていた僕は顔を上げて空を仰いだ。しばらくそのまま一番星を見上げ、前へ向き直ると、十数メートル先に上下ヨモギ色の名門お嬢さま学校の制服を纏った見覚えある少女がこちらへ向かって歩いてきていた。右手に通学鞄、左手には何かが入った白いポリ袋を提げている。
するとなぜか、僕の視線に気付いた彼女は『だるまさんがころんだ』の如くピタリと歩を止めたけれど、バランスを崩して一歩前へ踏み出てしまった。
しばし僕と彼女の睨み合いが続く。ポーカーフェイスで相手が何を考えているのか読めない。一方で僕の思考は、やはり美空はどこからともなくひょこっと現れるタイプの人なんだと、ただそれだけ。
北風が吹き、美空のスカートが後方へなびく。しかし膝上ピッタリまでを覆うそれが後方から下着を覗かせてはいないだろう。
いつまでもこの場に立ち尽くしているわけにもゆかぬと観念したのか、美空は僕の座るベンチの右横へ移動し、僕が左に寄ったらちょこんと隣に座った。ポリ袋の中身はバナナと判明。ここまで両者無言。
「あの、きょうは帰り、早かったんだね」
いつも部活で夜遅い帰宅とのことなので、とりあえずそう話を振ってみた。
「きょうは鎌倉駅前から
旧安保小児科。鎌倉駅江ノ電側のこじんまりとした細い通り沿いに建つ洋風の白い木造2階建ての建築物。大正13年に建設。この建物において現在診療は行われていない。初詣で人がごった返す元日でさえ人通りが少なく、この場所を知る者やたまたま通りかかったごく一部の者が小さなカフェなどでゆったりくつろぐ、駅近でありながら半ば秘密基地のようなエリアだ。
「そっか。岐阜とか千葉まで乗り越さなくて良かったね」
「きょうは鎌倉から江ノ電に乗って、藤沢からは10両編成の電車だったの」
「あっ、なるほど」
夕方、10両編成の普通列車で藤沢からの着席はグリーン車でなければ極めて困難。疲れた人や優先席を必要とする人には非常に厳しい列車だ。
「ということで、いま私はここにいます。寒いのでレモネードでもいかがでしょう?」
言って、美空は鞄からおもむろにペットボトル入りのレモネードを取り出し僕に差し出した。
「ありがとう。じゃあ遠慮なく」
僕は
「ほーお……」
レモンの酸味とはちみつのとろっとまろやかな甘味に、僕はほっとして思わず息を漏らした。カラカラに乾いた喉も、とろみがしっとり潤してくれている。美空も同じものを持っていて、僕と同様に数口ゆっくり口へ流し込んでいた。
「何かあったの?」
「うん、何かあった」
「そう。大変?」
「大変というか、無力な自分を痛感したと申しましょうか」
「自らの影響範囲内にあるようなことで、ところが僅かに手の届かないような?」
「そんな感じ」
美空は具体的な事情は訊かず、しかし核心だけをぎゅっと掴んで訊いてきた。
「そうなんだ。それは自分に直接降りかかって来たこと? それとも他の人のこと?」
「後者だね」
「やはり。そしたら、その人のことを取り敢えずは気にかけてあげて? ときどきメールするとかなんとかで。それだけでも相手の心はいくらか楽になると思うから」
「僕ごときとのやり取りで?」
「ふふっ、僕ごときって、心の底から思っているの?」
「半分ちょっとくらい」
「ならいいけれど。もし百パーセントそう思うなら、真幸はなぜクリエイターになんかなりたいのって話になるわけで」
「それは……」
自慰行為でしょう。ただ作品に妄想や欲望をぶつけるだけで、観客を楽しませようとか励まそうとか、正の感情を沸かせるつもりがないのなら。
けれど美空は友恵ほど卑猥な女子ではないため、それについては返答を控えた。
「わかっているのなら、そうすればいい。差し伸べた手を取るか否かは相手次第。もし後者であったならば、もうそれは真幸とは無関係なことで、以降何をしてあげる必要もないと思う」
「なるほど」
「そうやって人を払い除けて潰れゆく人はたくさんいるけれどね」
「うっ……」
そうやって美空は五寸釘を刺す。
「やはり真幸はお人好しだね。でもね、嫌がる人を無理に引き止めたら、こちらが悪者扱いされてしまうし、仮に真幸が相手に何かを、例えば人間力の高さやお勉強や創作能力の高さを期待していたとしても、その人とは歩む道が分岐していたのだと思う。だから歩調を合わせて寄り添うより、あなたはもっと高い所へ行けばいい。相手が困ったとき、逆に自分が困ったときっていうのは、周囲にいる人を見極めるポイントなんだって、自作の絵本を捨てられたときや文化祭で曲作りとか色々やったときに私は学んだの」
「あぁ、色々あったよね。でも僕はお人好しなんかじゃないよ、たぶん」
「そうやって他の人のことで延々悩んでる時点でお人好しだよ。その人は親友? 好きな人?」
「うーん、あまり話したことはなくて、でも僕のことをよく見てくれている人」
「そうなんだ。その人とは、この先も良い関係でいたいの?」
「うん。良き友人であり、創作仲間でいたい」
「創作仲間?」
そのワードで、美空の声色は若干ながら純度が増した。わかりやすい反応だ。
「あ、えと、プロの小説家なんだ」
「こんどぜひ、私にも紹介してください……!」
「あ、はい。その旨お伝えしておきます」
でもいいのかな。彼女、つまり西方さんは僕を好いてくれていて、僕は美空を好いていて、おそらく美空は残念ながらそういった物事に関心がないという一方通行。
まぁ、西方さんは仙台に引っ越してしまうし、一応恋人がいるし……。
いやなんかその考え方は違う気がする。
そもそも、ああは言っていたものの、その恋人から僕へ乗り換えたい可能性も無きにしも非ず。
ここは西方さんは引っ越すため会う時間が取れないと告げるのが妥当だろうか。
「あ、でもね、真幸」
「ん?」
「もしその人が真幸の心を
「ん?」
言っている途中に僕は察した。
「もう、言ったでしょう? あなたはもっと、高い所へ行く人なのっ!」
ふくれっ面の美空はもう最高に可愛くて、僕は刹那に我を見失った。
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