32,放課後ランチとラチエン通り
11時52分。きょうは始業式とホームルームのみということで、拘束時間は午前中のみ。
今ごろ美空が通う鎌倉の女子校では何か厳しいカリキュラムの最中か、始業式ならエリート校長の崇高な話でも聞かされているのかなど想像が膨らむ。お嬢さま学校、その生徒に僕はなれない。永遠の神秘だ。
きっと彼女たちは間違っても我が校の騒がしい生徒のように「あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」などと明からさまには狂乱せず、どんな逆境を前にしても常に平静を装っているんだろうなぁ……。
美空とは箱根に行ってそのまま茅ヶ崎海岸で絵本を見せてもらった日以来会っていない。僕は彼女から文化祭で発表する楽曲の制作依頼を受けていて、僕は既に作曲を始めているけれど、連絡を取り合わなくて大丈夫だろうか。
ある程度まで仕上げてしまってからの作り直しは大変な負担になり、僕も勝手に曲作りを進めるわけにはいかない。アドレス交換しているし、僕から連絡を取ってみようかと検討中。
「真幸、ゴハン食べに行こ!」
隣席に座る、帰り支度を終え金具でパチンと通学鞄を閉じた友恵に誘われた。
「うん。三郎は?」
僕は座ったまま身をよじり後ろへ振り向く。
こんな、なんてことない応酬や動作の一つひとつが、夏休み明けの心身に日常を取り戻していっている、なんとなくそんな気がした。
「ごめんなさ~い、アタシ、これからイラストのお仕事で打ち合わせなのぉ」
「そっか、中学生なのに忙しいんだね。友恵は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ! もう最終話の原稿上がってて、新作の〆切までは余裕あるから」
二人とも、同い年とは思えない。三郎はクライアントについて語らないけれど、海外企業とも繋がりがあると友恵から聞いている。
友恵は漫画家の傍ら地域の方々との交流も盛んで、気さくな人柄が住民に愛される秘訣。僕は入学から間もない2年前の春、そんな友恵に救われ、秘かに謝意と敬意を抱いている。
学校を出て、朝に通った道のグリーンベルトを友恵と肩を並べて歩く。
暑い。背を照り焼きにされそうだ。
歩きながら、行き交う自動車の内燃機関はどれだけ灼熱地獄なのだろうかとか、色々と想像して自ら体感温度を上げてゆく。
「暑いね。ラブホで休憩しようか」
友恵はうだりながら僕を色欲の楽園へと誘う。
「路上でお下品なことを言ってはいけませんよ処女ビッチさん」
「大丈夫、他の誰にも聞こえてないよ。それにサザン通りの看板には公式でマンピーって書いてあるし」
友恵はサザン通り沿いに住んでいて、いま歩いている東海岸地区は彼女の自宅と逆方向に位置している。
サザン通りには2000年の夏に催されたサザンオールスターズの茅ヶ崎公演で披露された楽曲を記した赤いレコード型の看板が設置されていて、そのなかに‘マンピー’も含まれている。
「うーん……」
この街を積極的にアピールしている国民的スターがそういうことを公然と言うのなら仕方ないのかな……?
他愛ない会話をしつつ5分歩き、僕の家に近いバス停前のカフェに入った。クーラーが効いていて涼しい。僕ら三人組はたまにここで食事をする。僕はオニオンサーモンサンド、友恵はカスクートを注文した。ドリンクは二人ともグリーンの瓶入りジンジャーエール。
夜にはバーと化す個人経営のこのお店、ジャズが流れるシックで落ち着いた店内にはカウンター席が5つ、四人用のテーブル席が2卓あるほか、エントランスにも同タイプのテーブルがある。他に客はおらず、僕らはカウンター席に座る。
「「カンパーイ」」
氷が入った互いのグラスにジンジャーエールを注ぎ合う。グラスは風鈴のように涼しげな音をたて、しゅわしゅわ氷を溶かしてゆく。
「あのさ、友恵は‘自分の本当の価値’って、なんだと思う?」
「どうした急に?」
一口頬張ったカスクートをよく噛んで飲み込んだ友恵は、きょとんと首を傾げた。
「さっき三郎がそういうこと言ってて、なんだか気になったんだ」
「うーん、なんだろね。そうだな~、自分の価値は自分で決める! かな!」
「自分で決める?」と僕は問い返した。
カウンターでグラスを磨くダンディーなマスターなら何か知っていそうだけど、彼はただ黙々と仕事をしている。きっと僕らの会話は聞こえているだろう。
「そう! 自分で決める! 価値を上げたければ努力するとか、そんな感じ!」
だとしたら、現在の僕は代わりなんていくらでもいる凡人かそれ以下だ。普通がいちばんなんて考えかたもあるけれど、クリエイターの場合、それで誰か一人の心にでも響く作品を創れるのだろうか?
食後、互いになんとなく話し足りない気がしたのか、自然な流れでラチエン通りに歩を進め、酒屋の店先に設置された自販機で百円のコーラを購入。缶をよく見ると、赤地に表記されている白文字はすべて英語。アメリカ製の商品だ。通常の商品より安い理由はそこにあるのだろう。そこからほんの数十メートルほど戻ったところにある緑地のベンチに腰を下ろし、四方八方から降り注ぐ蝉時雨を浴びる。
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