チャプター4 合気道対陰陽術


「名前は聞いてねえ! そのガキは危ないんだぞ! お前らの思ってるような奴じゃねえんだ」

「ほう? 俺には、そう言うお前の方がよほど危険なチンピラに見えるがな」

「あー、それは確かに。主任、ガラ悪いですからね」

「あんなののコメントに納得してんじゃねえぞ火乃宮。あのな、だから俺達は別に怪しいものでも何でもなくて」

「怪しくない人がどうして子供を追いかけ回すんですか?」

「だからそれは──って、ああもうめんどくせえ! 無関係な奴は引っ込んでろ、それができないなら静かにしてろ! 朱雀すざく玄武げんぶ白虎びゃっこ勾陳こうちん――」

 業を煮やした春明が右手の人差し指と中指を立てた。構えた指を縦横に振って印を切り、口早に呪文を唱える。身構えていた礼音は相手の意外な行動にきょとんと目を丸くしたが、同時に阿頼耶がハッと叫んだ。

「動きを封じる九字の印──だと? 避けろユーレイ!」

「え、あ――はい!」

「――南斗なんと北斗ほくと三台さんだい玉女ぎょくじょ青龍せいりゅうッ!」

 春明が呪文を唱え終わる一瞬先、礼音が弾かれたように地を蹴って動いた。

 ターゲットを閉じ込める不可視の立方体が、今の今まで礼音が立っていたところに形成される。だがその時にはもう、礼音は春明との距離を詰めていた。傍観している詠見にはまるで礼音が瞬間移動したように見えた。何、と息を呑んで驚く春明の腕に礼音の手が伸び、阿頼耶の指示が鋭く響く。

「信じられんがそいつは陰陽術を使う! 印を組ませるな! 呪文を唱える隙を奪え!」

「了解です!」

 よく響く声とともに、礼音が春明の手首を取って捻って投げる。実戦慣れした鮮やかな手捌きに、春明の体は軽やかに宙に舞い、背中から地面に叩きつけられ――。

おん三土神三魂さんどじんさんごんを守り通して、土精参軍風狸出どせいさんぐんふうりいず! 急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」

「え? 嘘?」

 仰天したのは礼音だった。確実に投げたはずの相手の体が浮き上がり、不自然な軌道で元の姿勢へと立ち戻ったのだ。陰陽術で突発的な上昇気流を起こしたのである。驚く礼音の手を振り払い、春明は一歩分だけ離れながら内ポケットから手製の呪符を取り出した。危険な霊や妖怪を撃滅するための攻撃用の札だ。

「これなら印や詠唱は要らねえからな! 覚悟しろ!」

「ちょ、ちょっと、何考えてるんです主任! 相手は一般の市民さんですよ! しかも女の子!」

「あのな、九字の印を先読みして避ける一般市民がどこにいる! やらなかったらこっちがやられる!」

「すごい殺気──! ええと、この場合どうしましょう先輩?」

「札を奪えユーレイ! 全くもって信じられんがそいつは本物の陰陽術使いだ!」

「当たり前だ! そのガキともどもまとめて――」

 と、春明が札を振りかざし、礼音がその手首を掴んで捻ろうとした、その時だった。

 カッ、と怪しい光が輝き、春明と礼音の動きが一枚の絵のように静止したのだ。

「……まあまあ。どちらもそのへんで」

 おっとりした穏やかな声が、高架下のトンネルに優しく響く。声の主である和装の男子──琮馬は、相手の動きを縛る眼光を放ったまま、まず、礼音と阿頼耶に顔を向けた。

「そちらのお嬢さんとお兄さん……湯ノ山さんと絶対城さんと仰いましたか。初めまして。僕は六道琮馬という作家です」

「六道琮馬……? 『蛤の船』や『市井』の作者か? しかし、あの作家は四十年以上のキャリアがあるはず」

「おや、ご存じでいらっしゃいましたか。ありがとうございます。そのご質問はごもっともですが、それは一旦置いておいて……こちらの女性が僕の担当編集者の滝川詠見さんで、今あなた方と相対しているのが、京都から来られた陰陽課のお二人なのですが……一つ、お聞かせ願えますか? あなた方が、その少年を庇う理由は何でしょう?」

「理由って――そんなの、子供から助けを求められたら放っておけないじゃないですか! 人として当然のことです! ねっ、先輩!」

「俺はそれにきっぱりうなずけるほど強くはないのだが……まあ、そんなところだな」

「なるほど。でもその子、僕の聞いた限りでは、見た目は子供でも、盗みを働いた危険な妖怪とのことでしたが……」

「──何?」

「わははははははは!」

 琮馬の言葉、そして阿頼耶の漏らした声を遮るように、阿頼耶の陰に隠れていた少年――枕返しが唐突に笑い声を発した。先ほどまでのいたいけな声とはまるで違う、老獪で人を食ったその声質に、礼音と阿頼耶が息を呑む。

「バラされてしまっては仕方があるまい!」

 渋い声で言い放ち、少年の顔が仁王像のような異形へと変貌する。異様な素顔に一同があっと驚く中、枕返しは軽やかに宙に舞い上がり、予想外の行動に出た。

 完全に傍観者に徹していた詠見に飛びかかり、その手から原稿の入った封筒を奪ったのである。意外過ぎる行動に詠見はコンマ三秒ほど静止し、その後、我に返って絶叫した。

「ちょ――ちょっと! 何するんですか! 返してください!」

「返すわけがなかろう! これさえ貰えばこの場に用はない!」

「そんな……! 騙してたの?」

「下がれユーレイ! 貴様、よくも俺を──いや、ユーレイを利用したな!」

「騙される方が悪いのよ! お前らはもう用済みだ!」

 開き直った宣言とともに、枕返しが手近な小石を拾って阿頼耶に向かって投げつけた。小さな体躯に見合わぬ速度で弾丸のように放たれた石は、過たず阿頼耶の左胸に突き刺さる。

「ぐっ……!」

 がっ、と鈍い音が響き、羽織を纏った細身の体が後ろへと吹き飛ぶ。礼音はすかさず阿頼耶を受け止め、悲痛な声で呼びかけた。

「先輩! しっかりしてください!」

「安心しろ、俺は無事だ……。奴の石は胸ポケットのスマホに当たったからな……!」

「スマホに? それで防げたんですか?」

「ああ……。こんなこともあろうかと、明人あきとに頼んでスマホを防弾仕様にしておいてもらったのが功を奏したようだな」

「くっ、命拾いしおったか、悪運の強い奴よ! だが、わしの邪魔はもうできまい! 我らが『千年王国』の完成を、指をくわえて見ているがいい!」

 そう言うなり、枕返しは後方の空間に穴を穿ち、その中へと飛び込んだ。瞬間的に穴が収縮し、枕返しの姿がかき消える。琮馬は慌てて眼光を向けたが、その時にはもう枕返しの姿はトンネルの中のどこにも見当たらなかった。

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