2月19日『懐柔』

 カチ、カチ、カチ。

 3回。

 部屋の中央に垂れ下がった室内灯の紐を引っ張り、くらいオレンジ色の豆電球を点ける。

 真っ暗なままにも明るくしないのも、私なりの優しさだ。

 たぶん、私以外はお兄ちゃんの今の身体を『気持ち悪い』と思うだろうから。

 吐き気を催されるかもしれない。

 吐きたくなるくらいなら別になってくれて構わないんだけど、私とお兄ちゃんの想い出の詰まった部屋で嘔吐されては甚だ不愉快だ。

 もうしばらくここに住まなきゃいけないのだから、そんな大惨事になってもらっては困る。

 だから、調というワケだ。


「……へ?」


 ミホさんはどうやら気付いたみたいだ。

 お腹から膝辺りまでにタオルケットをかけてベッドに横たわっているお兄ちゃんが、死んでいるということに。


「……え? え、……えぇ?」


 ミホさんは言葉にならない言葉を繰り返している。

 必死にお兄ちゃんの状態を理解しようとしているのか、この状況を理解しようとしているのか、それともこの状況全てが普通ではないことを理解して、それでも堪えようとしているのか。

 それとも単に混乱しているのか。

 最後のである可能性が一番高い。


「ミホさん、紹介しますね、私のお兄ちゃんです」

「……あ、え、ゆかちゃん、あの、え、えぇ……?」


 やっぱり、ただ混乱していただけだったようだ。

 振り返り、後ろに立つ私の顔を見て、口をぱくぱくさせながら、横目でお兄ちゃんをもう一度見て、すぐさま私に向き直った。


「お兄ちゃん、死んじゃったんです。バレンタインの前日に。酷いと思いませんか? 私はもうチョコにお酒なんて入れるつもりなかったのに、せっかく準備したチョコフォンデュ、一口も食べずに死んじゃったんですよ? 私は二人でチョコを食べさせ合うのを計画を考えた時からずっと楽しみにしてたのに」


 まあ、お兄ちゃんが死んじゃったのは、それが原因じゃないんですけどね。

 そう付け加えて私は、ははは、と溜め息混じりの乾いた笑いをこぼした。


「でも、聞いてくださいよミホさん。私、ディップするチョコが一種類じゃすぐ飽きちゃうと思ったから、ツーフレーバー味わえるようにわざわざ2つも買ったんですよ、フォンデュ鍋。なのにお兄ちゃんたら、そのフォンデュ鍋のコードで首を縛って自殺したんですよ? それって、当て付けみたいじゃないですか? ホント私びっくりしちゃったんです。私が買い物から帰って来たら、お兄ちゃんベッドの上で自殺してたんですよ? 驚きませんか? 誰だって驚きますよね? 私が買い物に出掛けてたたった2、3時間の間にですよ。ほんっと、ビックリですよね」


 女子会で彼氏の愚痴をこぼす女みたいに軽快なガールズトークを披露してみたものの、ミホさんはだらしなく口を開けたまま、私の言葉を黙って聞いているだけだった。

 茫然自失……的な?

 この状況を受け入れられないのかもしれない。

 私が何を言っているのか、意味が飲み込めていないのかもしれない。

 まあ、気持ちは分からなくはない。

 私がミホさんの立場だったなら、シュールな冗談に付き合わされているのか、真実を告げられているのか、それとも犯罪の自供を聞かされているのか、理解に苦しむ所だと思う。

 正解は2番と3番だ。


「ざっくり説明すると、買い物から帰って来た私はお兄ちゃんの死体を見付けてですね、私もしばらく気が動転してたワケですよ。

 だからバレンタイン当日の朝まで、見て見ぬふりしてたんです。

『お兄ちゃんは死んでない。お兄ちゃんは死んでない。疲れて寝てるだけ。冷たくなって、ベッドに寝ているだけだー』って。

 今思うとあの時の私はホントオカシクなってたと思うんですけど、とにかくお兄ちゃんが死んでることを受け入れられなくてですね、お兄ちゃん死体を見付けてから翌日の朝まで何事も無かったように過ごしてたんです。

 それで日課の朝ごはんをお兄ちゃんと一緒に食べようとして、なかなか食べようとしてくれないお兄ちゃんを抱き抱えて、硬くなり始めてたお兄ちゃんの身体を無理矢理起こして、口に食べ物を突っ込んで、お兄ちゃんの服から布団から床から何から、そこら中をびちゃびちゃに汚して、ぐちゃぐちゃになってから、ようやく頭が現実に追い付いたんです。

『あー、お兄ちゃん、死んじゃったー。もうホントに動かないんだー』って。

『これ、ホントにもうダメなやつだー』って。

 そしたらですね、今度は急に、『私はこの後どうなるんだろう』って、残された恐怖って言うんですか? 何かそういうのに襲われちゃって、生きてる虚無感とか、生き続けることへの恐怖とか、そういう気持ちに毒されちゃいまして、私らしくもなく、逃げちゃいそうになっちゃって。

 えーと、恥ずかしいんですけど、お兄ちゃんの後を追って私も首を吊って自殺しようとしたんですよ。

 お兄ちゃんが使ったフォンデュ鍋のコードで首を縛って、そこの窓のカーテンレールからぶら下がって。

 お兄ちゃんの顔を眺めながら『もうすぐそっちに行くよー。お兄ちゃん待っててねー』なんて思っちゃったんです。

 これもう、ホント恥ずかしいだけの話なんですけど、その時の私は逃げることに必死だったんですよ。

『現実から逃げよう。お兄ちゃんが死んじゃった事実から逃げよう。辛いことしか待ってない未来から逃げよう。』それしか頭ん中になかったです。

 マジでそれしか考えらんなかったです。

 いや、ホント恥ずかしいんですけどマジで。

 そういう弱い気持ちで頭一杯一杯でした。

 それくらい私のキャパはぱっつんぱっつんに膨れちゃってて、早く死のう早く死のうって思いました。

 でも、『もう死ぬなー』みたいな瞬間に、お兄ちゃんが私宛に残したメモの一部を見付けちゃったんですよ。

 狡いですよね、ちょっと目立たない所で、でもよく見たらすぐ気付けるような所に、あ、あそこのベッドの板と敷き布団の隙間に挟めてあったんですけど、意識落ちる寸前にそれが目の端に入ったワケですよ。

 そんなの読むしかないじゃないですか。

『読まずに死ねるか!』みたいに今度はなっちゃって。

 今度は生き延びようとするのに必死ですよ。

 出せるだけの力を出して首を縛ってたコードを引っ張ったりじたばたもがいたりして。

 生きようとする執念ってやつなんですかね?

 振り絞って自殺しようとした自分を止めたんですよ。

 そしてメモ読んだら、死後の死体の扱い方が載ってたんです。

 あ、細かく残してあったのは、お兄ちゃんのケータイに入ってるメモ帳アプリの中なんですけどね?

 それもまたご丁寧に『俺が死んだ後の妹用のメモ』って名前に編集されたアプリがケータイのホーム画面のど真ん中に在ったんですよ。

 当然開くじゃないですか。

 そしたら幾つか項目があって、『葬儀して火葬する』とか『エンバーミングして保管する』とか、幾つかパターンが用意されてて。

 私に選ばせるワケですよ。

『自分で責任を負え』って。

 で、真面目なお兄ちゃんのことだから、『お兄ちゃんを過去にして、お兄ちゃんを忘れていって、新しい幸せを探せよ。』みたいなことを思ってたんだと私は推察するんですけど、私はそれを選ばなかったんです。

 お兄ちゃんの身体を保存する方法を選択しました。

 そして出来上がったのが、そこに横たわってるお兄ちゃんなんです。

 ぶっちゃけ、実はまだエンバーミングの途中で、早く冷凍保存してあげないと、どんどん腐っちゃうんですよ。

 死んだら人間もただの肉の塊と同じなんで、けっこうな早さで腐敗が進んじゃうんですよ。

 まだ季節が季節だったから良かったんですけど、血を抜いて防腐剤を打っても、外からじわじわ腐敗が進んじゃうんです。

 もちろん内臓とかはもう全部取っちゃってます。

 筋肉とかよりも内臓のほうが水分が多くて腐りやすいですからね。

 まあそれはどっちもどっちなんですけど。

 あ、取り除いた内臓ですけど、安心してください。廊下に冷蔵庫あったでしょ?

 あの中に入ってます。

 既に冷蔵庫と冷凍庫にぱんっぱんに詰まってますよ。

 さすがに全部は入らなかったし、排泄物とかもあったんでその辺りはトイレに流したり、細かくしてからゴミに出したりしましたけど、排泄物以外でゴミとして出しちゃったものは苦渋の選択でしたよ。

 見た目は焼き肉屋さんとかで見る内臓類とほとんど変わらないのに、お兄ちゃんの身体の一部なんですもん。

 もう棄てずに食べちゃったほうが良いんじゃないかとも思ったんですけど、さすがに食べちゃうのはアレかなって思って。

 カニバリズムはホラー映画の観すぎですよね。さすがにアレはないですよ。

 ……えーと、かいつまんで経緯を説明しましたけど、どうですか? 理解できそうですか?」


 あまり期待はしてないけど。

 でも事の運びは理解できたんじゃないかな。

 全体の流れは把握できたかもしれないけど、私が手を汚すことを選んだのは、さすがにどうだろう。

 理解できないんじゃないかな?

 ミホさんは常人だから。

 私みたいに初めから常識を逸脱した人の考えることや選択する道を理解することはできないんじゃないかな?

 でも、まあ、ミホさんは私と仲良くなりたいと言ってくれてるワケだし、もしそうなら常識と法からはみ出した私のことを知ってもらわなくちゃいけないワケだし。

 それに、実は人手が欲しいなと思ってた所なんだよね。

 ミホさんがどんなふうに私のことを判断するのか分からないけど、知ってしまったからにはそれなりの対処を私もする必要がある。

 話を聞いてもらうのはその第一段階。


「……こ、これって、犯罪だよね……?」

「そうですね。警察に見付かったら私は逮捕されちゃうでしょうね。軽く調べてみたんですけど、故意に死体を保持しているので、死体遺棄罪、さらに死体に手を加えているので死体損壊罪、少なくともこの2つ罪状で罰せられるみたいです。法律家ではないので、もしかしたらもっと罪状は増えるかもですけど」

「な、何でそこまで」

「何でってことはないと思うんですけど。そう思いませんか? とか。そんな感じしません? 私って」

「でも、だって、亡くなってるんだよ? もう生きてないんだよ?」

「そうですね。だから私も死のうとしたワケですし」

「じゃあ」

「でも、それだけじゃないですか」

「……それだけ?」

「お兄ちゃんは、生きてないだけで、ここに、こうして居るじゃないですか」


 ミホさんの前を通り過ぎ、お兄ちゃんの枕元に近付いて膝を付いて座る。

 お兄ちゃんの頭を撫でて、ミホさんに向き直った。

 ミホさんの頬がぴく、ぴく、と痙攣するように引き攣っているのが見て取れた。

 やっぱり、普通の人はこういう反応をするんだよね。

 分かってはいたけど地味にショック。


「お兄ちゃんは死んじゃったけど、身体はここに在ります。生きてはないけど、生きてないだけでここに居るじゃないですか。じゃあ、焼いたりお墓に入れたりする必要なくないですか?」

「でも、それが普通なんだし」

「普通じゃなくても良いじゃないですか。何が悪いんですか? 誰にも迷惑かけてませんし、これからもかけないですし」

「そういう問題じゃ」

「じゃあどういう問題なんですか?」

「え、えっと……だって法律とかそういうので」

「私がお兄ちゃんを殺したっていうなら確かに私は裁かれるべきなんでしょうけど、お兄ちゃんは自殺したんだし、その後お兄ちゃんの身体をどうするかは私に委ねられてるんですよ? お兄ちゃん本人の意思で。それでも私は裁かれるべきですか?」

「え……いや……えと……」

「私がオカシイのは私が一番分かってます。ミホさんの言う、社会のルールに従えって意見も分かります。ミホさんはそう言いたいんですよね?」

「いや、そういうんじゃなくて」

「じゃあどういうことなんですか? 私はお兄ちゃんの遺体を弄んでるということになるのかもしれませんけど、それを仄めかしたのは事実お兄ちゃんですし、自分で責任を取るなら任せると残してあるんです。この事が公になったら私は法律に裁かれるんでしょうけど、誰にも知られなければこの事は『無い事実』なんですよ。つまり、。ミホさん、私とお友達になりたいと言うなら、私の力になってくれますよね?」


 ミホさんの顔から、血の気が引いたのが、この薄暗い部屋の中でも分かった。

 まさか自分が共犯者に指名されるなんて、思ってもみなかったんだろう。

 私と真っ当な友達付き合いをしたいと言いに来たみたいだけど、犯罪の片棒を担がされる羽目になるとは想像もしていなかっただろうなぁ。

 まあでも、この感じなら。

 あともう一息。


「ミホさん、私たち、きっと良いお友達になれますよね?」

 

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