2月17日『独白』
冷たい手を握って。
お兄ちゃんに話しかける。
冷たくなったお兄ちゃんの身体を優しく撫でて。
お兄ちゃんに語りかける。
何も返ってこないと知っていて。
もう帰ってこないと知っていて。
誰も聞いていない。
誰に聞かせるというワケでもない。
でも、独り呟く。
誰にも言わなかったこと。
誰にも言えなかったこと。
お兄ちゃんしか知らない。
お兄ちゃんと私しか知らない。
もう私しか知らない話
独り呟く。
「お兄ちゃんーー。
お兄ちゃんは、私を遺していってしまったけど。
私との約束を破って。
私を置いて一人で行ってしまったけど。
それでも、お兄ちゃん自身を遺していってくれた。
お兄ちゃんの声が二度と聞けないと思うと。
お兄ちゃんの笑顔が二度と見れないと思うと。
お兄ちゃんの温もりを二度と感じることができないと思うと。
こんな世界、生きている価値なんてない。
こんな世界、私には地獄と何も変わらない、何もないのと同じだと思ったけど。
けど、お兄ちゃんが遺したものと、遺してくれた約束を守るよ。
私は今日を生きていくよ。
お兄ちゃんと一緒に」
ベッドに横たわるお兄ちゃんの頭を撫でる。
顔の傷を、生きていた頃と変わらず優しく触れる。
瞼、鼻、頬、顎。
凸凹とした顔の傷を人指し指でなぞるように触れ、唇を通り過ぎて首、胸を通りお腹まで辿り着く。
縫合され、縫い跡が消えることのないお兄ちゃんのお腹に触れる。
内臓を失ったお兄ちゃんの身体は、映画で見るような
くっきり浮き上がった肋骨を見て、お兄ちゃんはもう生きていた頃のお兄ちゃんとは別のモノなんだと再確認する。
「お兄ちゃん。
こんな身体になっちゃったね。
お兄ちゃんが遺してくれた施術のやり方で、上手く出来たよ。
内臓も、眼球も、もう残ってないよ。
お兄ちゃんの身体の殆どはなくなっちゃった。
……お兄ちゃんに、スマホを買ってあげたのは失敗だった。
お兄ちゃんを縛り付ける為に。
お兄ちゃんを家から出さない為に買ってあげたスマホがこんなふうに使われるなんて、ゆか思わなかった。
お兄ちゃんは努力家で物知りで、何でも自分でやろうとする人だから、自分がどれくらい不幸なのか知ればきっと色んなものを諦めてくれると思ったけど。
ゆかにこんなことをさせるなんて、ゆかは考え付かなかったよ」
ズボンのポケットに入れていた白い紙を取り出して、お兄ちゃんが使っていた車椅子に放り投げた。
エンバーミングという単語と、お兄ちゃんのスマホの暗証番号、そして、『俺の身体をどうするのもお前の自由だ。最後まで一緒に居てやれなくてごめん。俺はお前に何もしてやれないから。生きていてもお前に迷惑をかけ続けるだけだから。だからこの道を選んだ。間違っているのは分かってるが、俺はもう堪えられそうにない。こうすることで、お前のものになれればと思う。すまん。』と私宛のメッセージが残されたものだ。
「何で何も言ってくれなかったんだろうって、今でも思うよ。
何で相談してくれなかったんだろうって。
……ううん。そうさせなかったのは私なんだよね。
お兄ちゃんを身動きできないくらいに縛って、雁字搦めにして、何も選ばせなかったのは私。
こんなふうになっちゃったのは、全部ゆかの所為。
お兄ちゃんを殺しちゃったのは、だからゆかなんだって思う。
……だからゆかはお兄ちゃんを独り占めすることを選んだ。
誰にも渡さない。
お兄ちゃんを誰にも触らせない。
お墓にも入れてあげない。焼いたりもしない。
お兄ちゃんとゆかは二人で暮らすの」
『エンバーミング』
遺体衛生保全と呼ばれるそれは、死後、遺体の状態を保ち、腐敗や損壊を防ぐ方法で、本来であれば遺体の搬送や葬送まで時間を遺体の見た目を崩さない為の、言わば『残された人の為の手術』だ。
身体を殺菌し、防腐剤を注入して、血液を吸い出し、内臓を取り出し、傷を縫合する。
完全ではない、遺体の劣化を遅延させる為の方法。
「今ね、大型の冷凍庫を頼んでるの。お兄ちゃんが入れるくらいのやつ。もっと早く届けば、お兄ちゃんの身体を傷付ける場所も少なくて済んだかもしれないけど、大きい冷凍庫は電器屋さんには置いてなくて、注文して取り寄せなくちゃいけないんだって。だから、お兄ちゃんの臓器も棄てなくちゃいけなかった。ごめんね」
遺体の劣化を、腐敗を防ぐ為には、一般に流通している冷凍庫では冷気が足りない。
-25℃までは下がらないと、腐敗を完全に停止させることができない。
「冷凍庫が届いて、お兄ちゃんを入れたら、ゆか、もうお兄ちゃんに触れることも出来なくなっちゃうんだね」
「…………何で、何でこんなことになっちゃったんだろうね」
空気に触れるたびに遺体は劣化する。
腐敗を防ぐ為の冷凍保存は結局腐敗を防ぐ為のものでしかなくて、お兄ちゃんが甦るワケでも肉体が蘇生するワケでもない。
お兄ちゃんはそれも分かった上でこんな方法を私に残したのか。
いや、きっと違うのだろう。
「お兄ちゃんは、ずっとゆかを心配してたもんね。ゆかがこんな犯罪に手を伸ばすなんて、ホントは思ってなかったんだよね? お兄ちゃんが死んだら、いくらゆかでも諦めるって思ったんだよね? お兄ちゃんはゆかがお兄ちゃんを捨てて行くことを望んでたんだよね?」
私が自分の道を進むことをお兄ちゃんは望んでいた。
お兄ちゃんは自分が足枷になっていることに強い自責心と嫌悪感を持っていた。
自分の身体が原因で、私が私自身の明るい未来を享受出来ないことに酷く自分を責めていた。
生きていてはいけないんだって。
お兄ちゃんはそう思っていた。
だから私は呪いをかけた。
お兄ちゃんが死なないよう。
呪いをかけた。
でも結局呪いは不完全で。
私が目論んでいたようには事は進まなくて。
気付けばお兄ちゃんは自らの死を選んでいた。
「でもゆかはお兄ちゃんの望むようには生きてあげないよ。お兄ちゃんから離れてもあげない。冷凍庫が届いて、お兄ちゃんの身体の安全が万端になったら、次は広い家に引っ越すんだぁー。こんな狭い、窮屈じゃない、私とお兄ちゃんだけの家に住むの。誰も入れない。誰にも邪魔されない。私たちだけの家に」
お兄ちゃんが社会復帰できていなかったことがこんなところで上手く歯車として回るなんて思ってもいなかった。
お兄ちゃんの存在を知る人は少ない。
病院とは、お兄ちゃんの日常生活が滞りなく行えている事を報告していて、心配させていない。
国は数いる障害者一人一人のことなんか把握していない。
それに私という保護者がいる限り、お兄ちゃんには介護が必要ないと既に周知されている。
この上引っ越して私たちのことを知る人間がいない場所に住めば、もう、私たちに関わってくる人間なんてほぼゼロになる。
貯えもある。
何があっても生活できるくらいに、私は貯金していた。
引っ越しも、特注の冷凍庫も、これからの生活にも、何の障害も無い。
「お兄ちゃん、もう少しだけ待ってね……。ゆか、お兄ちゃんじゃなきゃダメだから。お兄ちゃんの望む良い妹じゃないけど、でも、それでも、お兄ちゃんのことを一番大事にしたいから。お兄ちゃんの側にずっと居たいから。だから……」
「いつかゆかがそっちに行った時も、どうか、赦してね……」
『コンコンコン』
その時。
ドアが鳴った。
「ゆかちゃん、いるんでしょ? ミホだよ。お願い、話を聞いて」
あの女がドアを叩いた。
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